08.月がうつすもの
◆◇◆
「止まれ! ここで、いったん休憩を取る」
シーザリオンの号令で一行は足を止めた。
目の前には、モルニー街道の白い石畳と平行して渓流がはしっていた。吹き抜ける緑風が梢を揺らし、涼やかな水の音を運んでくる。
「あ、ありがとう」
シーナ・レイはシーザリオンの差し出す手に助けられ、豪奢な装飾のされた純白の馬車から地に降り立った。
先に外に出ていたセルシアーナとマリサが親しげな微笑みを浮かべ、シーナ・レイが来るのを待っている。
「シーナ・レイ、あちらから河原に降りられるのですって。行ってみましょう」
「はい、セルシアーナさま」
セルシアーナ、シーナ・レイ、マリサの三人はシーザリオンら数人の兵士に護衛され、柔らかい下草を踏んで、坂を下っていった。
青々とした枝を伸ばす古木の根元をまわりこみ、セルシアーナが感嘆の声をあげる。
「まあ、なんて綺麗なのかしら」
河原一面に白っぽいなめらかな石が敷き詰められていた。
浅い川の流れが、大小の岩を避けながら走っている。
流れは速く、透き通った水はいかにも冷たそうだった。青緑色の深みには細長い川魚が群れ集い、陽光に銀色の鱗を反射させている。
「ラディン!」
先に河原に来ていたラディンの姿に気づき、シーナ・レイは手を振って駆け寄る。
シーナ・レイとラディンが捕らわれてからすでに四日が経過していた。
その間、シーナ・レイはシーザリオンの監視のもと、セルシアーナが乗る馬車に同乗させてもらっていた。当然ながらラディンとは別行動になっている。
「よう! 元気にしてたか」
「それはこっちの台詞よ。怪我はもう大丈夫なの?」
「ああ、もう何ともない」
ラディンは快活に答えた。目の下にあった青あざも消え、額の包帯も取れている。
彼は狭苦しい荷馬車からは解放されたものの、セルシアーナの馬車から一番遠い荷馬車の御車台に座らされていた。
荷馬車に独りで置いておいたなら、何を盗まれるかわかったものではない、と判断されたらしい。事実、そのとおりではあったが。
シーザリオンの命令で二人は用心深く引き離されており、厳重に監視されている。会えるのは昼間、それも一行が休憩を取る短い時間だけだった。
あの短剣と共に武器も取り上げられ、互いに引き離されているために、逃げ出すわけにもいかない。おかげでラディンは不満たらたらだったが、どうなるものでもなかった。
「……あんなところに」
ふと川向こうに目をやり、切り立った崖の上にリヴの姿を発見した。シーナ・レイの声にラディンも顔をあげ、両手で頭を抱える。
「げ! あいつ……黒くなってやがる」
陽の光に金色に輝く、豊かな被毛を持っていた薄茶色の犬の面影はもはやない。
ぴんと尖った大きな耳の、狼めいた漆黒の獣がそこにいた。
リヴは近寄りがたい雰囲気を纏い、古木が落とす陰に溶け込むように、ひっそりと佇んでいる。両目では、血のように赤い燐光が仄かに瞬いていた。
「あらまあ、すっかり森を満喫してるみたいね」
数日前までのリヴは本来の姿ではなかった。
この姿をとっているときのリヴは凶暴で扱いが難しく、シーナ・レイ以外の者には絶対に触れさせない。
気楽に手を出そうとする不届き者は、鋭い牙の洗礼を受けることになる。もっとも触ろうとする者など、ラディンを含めどこにもいはしなかったが。
「シーナ・レイさん、姫君があちらで待っておられます。どうぞお急ぎを」
アルスターがやってきて、水際にほど近い場所に設えた小さな天幕を指し示した。
シーザリオンの腹心の部下である彼は、赤褐色の髪をした実直そうな青年だった。鎖帷子の上に着る袖のない外衣には、家紋である交差する剣の紋章が刺繍されている。
「あ、はい」
日除けの下でマリサと共に休んでいるセルシアーナが、優雅な仕草で手を振っている。
「もう行かなくちゃ……また後でね」
「ああ、何かあったら呼べよ。いいな?」
シーナ・レイは頷いた。
「大丈夫よ、シーザリオンも近くにいるし」
とたんにラディンが頬をふくらませて抗議する。
「何のんきなこと言ってんだ、あいつが一番危ないんだろ!」
「そんなことないと思うけど。彼、意外と紳士よ……ちょっと恐いけど」
シーザリオンと行動を共にした四日間で、シーナ・レイの彼に対する印象はずいぶん変化していた。
無口で一見冷たいが、さすがに王弟だけあって紳士的だし、所作すべてに気品があった。
確かに彼はラディンに怪我をさせ、シーナ・レイ達を捕らえたけれど、その後ひどいことはされていない。むしろ扱いは丁寧で親切なほどだった。
「そんなに悪い人じゃないと思う……たぶん」
シーナ・レイがそう言うと、ラディンは露骨に顔をしかめた。
「おまえなー、みてくれに騙されるんじゃあねえぞ! これだから女はよう」
「何よそれ! 差別的な表現してないでよね」
「二人とも、痴話喧嘩はそのへんで止めてください。時間がないんですから」
横で見ていたアルスターが痺れを切らしたのか割って入る。
「これのどこが痴話喧嘩だって? 妙なこと言いやがって……俺はただ」
即効で訂正するラディンに苦笑を浮かべ、アルスターは言った。
「ただ? シーザリオン様に嫉妬でもなさったと、つまりはそういうことですか?」
「なっ……!」
たった一言で、ラディンを黙らせる。
もごもごと口ごもるラディンを一瞥し、アルスターは改めて天幕の方に視線を向ける。
「シーナ・レイさん、お早く願います。姫君がお待ちかねですよ」
アルスターもシーザリオンに負けず劣らず、辛辣だった。
「確かラディンさん、っておっしゃったわよね? シーナ・レイ……ねえ、あの方はあなたの恋人なのでしょう?」
よく冷えたレモン水で喉をうるおし、セルシアーナはにっこり微笑んだ。空色の瞳がいかにも年頃の少女らしい好奇心を浮かべ、きらきら輝いている。
「えっ……違います! そんなんじゃありません」
シーナ・レイとセルシアーナは天幕の下に並べられた椅子に腰かけていた。
シーザリオンは離れた所で部下の報告を受けており、二人の近くにはアルスターら数人の護衛がひかえている。
河原の中央にしつらえたその場所からは、川のせせらぎが見渡せた。
天幕は陽射しを避けるためだけの簡易型のもので、ごく薄い布で作られている。ときおり吹き抜ける風が心地よく紗幕を揺らし、自然と会話もはずんでくる。
「あら違うの? でも、とてもお似合いよ」
あわてて否定するシーナ・レイに首をかしげ、セルシアーナはかたわらに控えている侍女に同意をもとめた。
「ねえマリサ、あなたもそう思うでしょう」
「はい、姫さま」
年齢が近いこともあり、シーナ・レイはセルシアーナにすっかり気に入られていた。
セルシアーナの馬車に便乗させてもらえたのも、ひとえに彼女の強い希望があったからだ。シーナ・レイは賓客並みにもてなされ、眠る時以外はセルシアーナと行動を共にしていた。
彼女は本来なら、直接拝顔することもかなわない高貴な身分の姫君である。
つかのまとはいえ、そんな特別な待遇を与えられたことを、本来なら喜ぶべきなのかもしれない。けれどシーナ・レイは、なんとなく居心地の悪さを覚えていた。
「本当に違うんです、恋人なんかじゃありません。たんなる旅の同行者というか……あっちはいろいろ馬鹿なこと言ってくるけど、ただ私をからかっているだけで、何の意味もないんです」
「いろいろって、どんなことをおっしゃるの?」
シーナ・レイはちょっと答えに迷い、視線を落とす。
「婚約がどうのとか、そんなことです」
「まあ! 婚約なさっているのね! それならやはり恋人同士ではなくて?」
「違うんです。恋人同士だなんて、そんな。あれは不可抗力というか、ただのなりゆきみたいなもので……あかしは持っているんですけど」
最後の方は独白に近かったのだが、セルシアーナはしっかり聴き取っていたらしい。「あかしを交換しあったのね」と嬉しげに身を乗り出してくる。
「ご存知なんですか?」
「ええ。草原地方に昔から伝わる風習と耳にしたことがあるわ……とっても素敵!」
セルシアーナは頬を染め、うっとりと瞼を閉じた。
「どれなの。ね、お願い……見せてくださらない?」
仕方がなく、シーナ・レイは首に掛けていた飾ひもを外して見せた。
「髪飾りね! 魔除けの印が結んであるわ。あなたに似合いそう……髪に結ばないの?」
セルシアーナは微笑むと、可憐な仕草で手のひらを顔の前で結び合わせた。
「結ぶのはちょっと抵抗があると言うか。それに私の髪は結べるほど長くはないですし」
「そうね、少しだけ短いかしら。でも、なんとか結べないこともないと思うわ。せっかくの綺麗な黒髪なのだから、伸ばしたらいいのに」
セルシアーナは微笑むと、左の指の親指に嵌っている指輪を指先でくるくる回す。銀の台座に納められた青い石が、キラリと光った。
「綺麗な指輪ですね。でも少し大きいみたい」
他の指に嵌っている指輪とは、少し赴きが異なっている。セルシアーナの持ち物にしては華やかさに多少欠けているようだが、気のせいだろうか。
「そうなの、けれどとても大切なものよ」
セルシアーナは頬を染め、はにかんだ笑みを浮かべた。
その日の夜、シーナ・レイは思いがけない場面に遭遇した。
それは夕食を終えてしばらくたち、ゆったりとした時間を皆が過ごしている時のことだ。
あてがわれた宿屋の自室でひとり、のんびりと過ごしていたシーナ・レイは、虫の声に惹かれテラスに出て行った。
「どうして何も言ってはくださらないの、シーザリオン」
ふいにセルシアーナのなじるような声が聴こえてきて、シーナ・レイは驚いて足を止めた。声には非難の色があると同時に、どこかせっぱつまった雰囲気が感じられる。
「ねえ、何かおっしゃって!」
シーナ・レイとセルシアーナの部屋は隣り合っており、窓に面したテラスでつながっていた。
そのテラスの先端に人影があった。
夜のとばりが降り、辺りは暗闇に包まれていた。先ほどまでは虫の音だけが聴こえていたが、今は虫の音さえも止んでいた。悲しげな少女の声が、とぎれとぎれに聴こえてくるだけだ。
「言うべきことなど何もありません、姫……風邪をひくといけない、もう部屋に戻りましょう」
「セルシアーナとおっしゃって! なぜ今までのように名を呼んでくださらないの」
立ち聞きするつもりはなかったが、引き返すには遅すぎた。
シーナ・レイは凍りついたようにその場に立ち尽くし、息を詰めてなりゆきを見守った。
「今までのようにはいきません。あなたはラビエの王子のもとに輿入れなさる身なのですから」
突き放すような言葉だったが、シーザリオンはいつもの冷然とした態度ではなかった。低い声は、哀しみとも諦めともつかない響きを帯びている。
「愛していると、そう言ってくださったわ……あの誓いをお忘れになったの?」
月明かりに、セルシアーナのドレスが白く浮かびあがっていた。
二人は向かい合って立っていた。
今にも触れ合いそうなほど強く互いを見つめあっていたが、重くはりつめた空気が二人を遠くへだてている。
「私のことは、もうお忘れください」
「出来ません! あなたを忘れるなど、出来ようはずもないわ」
涙の雫を光らせて、セルシアーナが訴える。
ゆるやかに波打つ金の髪が、小刻みに震える肩に流れ落ちていた。
「ともに来いと、一言そういってくだされば、どこまでも着いて行きますものを」
「そんなことを言ってはいけない!」
声は、苦渋に彩られていた。シーザリオンはうつむくように横を向いた。
「何もかも終わったのです」
そう言って、シーザリオンは背を向けた。
嗚咽まじりに何度も呼びかけるセルシアーナを置き去りにして、部屋に向けて歩き出す。
シーザリオンは足を止めた。
「あ、あの……ごめんなさい、立ち聞きするつもりはなかったの……」
無言のまま、シーザリオンはシーナ・レイの横を通り過ぎて行った。