05.闇の眷属
ララウ村に続くモルニー街道を外れ、北西に半日ほど森を分け入った所に名もない小さな渓谷がある。
道といえば細く曲がりくねった獣道が通っているだけの、地図にものっていない静かな場所だった。
豊かな深緑、ブナの原生林になかば覆い隠されるようにして、滝が流れ落ちている。
白い飛沫を上げながら落ちていく流れの底には濃い碧の淵が悠然と横たわり、たくさんの川魚が泳いでいた。
銀色の鱗を光らせる小魚が群れる淵の周辺を、平たい岩盤が囲っている。
透明な流れは、白っぽい岩盤から溢れて渦を巻き、細い渓流となって谷を下ってゆく。水のせせらぎに混じって鳥のさえずりが聴こえてくる。兎や鹿、ときには砂色の毛並みの森狼が、喉を潤しに淵へやってきた。
静寂を破るように、渓谷に六人ほどの男達が姿を現した。
鳥達がいっせいに羽ばたき、獣が梢を揺らして逃げ出してゆく。
男達は皆が剣帯しており、中にはハンマーや斧を持っている者もいた。物騒な気配をただよわせ、悪態をつきながら獣道を滝に向かって歩いているのだった。
「ちくしょう、本当に頭にくるぜ」
先頭を歩いている男がどら声で言い、地面に唾を吐いた。
牡牛を思わせる大男で、腕の筋肉が大きくもりあがっている。男は頭に手をあてると、もう一度「ちくしょう」とくりかえした。
無残に焼けこげて地肌をさらした頭髪、仲間から「お頭」と呼ばれていることからも、その正体が誰だかわかる。
先ほどセルシアーナを襲い、シーナ・レイの炎に焼かれた盗賊一味の頭領だった。名を、ハーマンという。
一行は淵に辿り着くと岩盤に登り、樹木の陰に隠れて獣道からは見えない細い道を下ってゆく。
少し広い岩盤に沿って進むと、ほどなくして滝の裏側に出た。
淵に降りそそぐ水の流れを通して、渓流が見渡せる。その反対側には暗い空洞になっており、その先の洞窟に続いていた。
「お頭、どうするんで? このままでいいんですかい」
ぜいぜいと息をあえがせてヤンガが不平を言う。
心持ち前かがみになり手で胸を押さえているのは、さっきラディンにしたたかに蹴られて肋骨を折られたせいだった。
「このままでおくわけがねぇだろう。もちろんこの借りはきっちり返させてもらうさ……それこそ何倍にしてな」
予定では、もっと簡単にことが運ぶ手はずになっていた。それが、どういうわけか邪魔が入り、気がつけば尻尾を巻いてアジトに逃げ込むことになった。
ハーマンは今夜アジトで休息を取り作戦を立て直したら、仲間を全員引き連れて輿入れ行列を襲うつもりでいた。
「それにしてもラディ・リンの奴……まだ生きていやがったとは驚いたぜ」
ハーマンは黒くすすけた頭髪に手をやり、もう一度呟いた。
「あの小僧。スリの腕も、殺しだって、この俺が手ほどきしてやったってのによ。肝心なときになって怖気づいて裏切りやがって。いっそ、あの時よけいな情けなんぞかけずにバラしておくんだったぜ……ちくしょう、覚えてろよ」
じめじめとした洞窟を奥に進み、一行はアジトへ辿り着いた。
見張りに立っている仲間に頷きかけ、かたく閉ざされた扉を開けさせる。
扉の向こうで待ち構えていた手下達の先頭に、ひとりの女が立っていた。
「ハーマン!」
女は身体の線が浮き立つような細身のドレスに身を包んでいた。女の動きに合わせて光沢のある青灰色のドレスがさらさらと衣擦れの音を立てる。
「おお、ドーラ。会いたかったぞ」
「あたしもだよハーマン、ずいぶん遅かったじゃないか……おや、女は一緒じゃあないのかい?」
女はハーマンに巻きつくように身を寄せ、目を細める。金の瞳が炎のように揺れ、肉感的な赤い唇が微笑を象った。
「しくじったんだね」
大胆にも女は言った。他の者が口にしたならその場で殺されかねない。事実、周囲の男達の間で微かなざわめきが起こる。
「あ、ああ。思わぬ邪魔が入ってよ」
手下達の心配をよそに、ハーマンはおどおどと言い訳めいたことを口にする。激しやすいことで知られている普段の頭領からは、想像もつかない弱腰の態度だった。
「まあいいさ。それより疲れているだろう、ハーマン。今夜はゆっくり身体を休めるといいよ」
ドーラはハーマンの太い腕に自分の腕をからめ、彼を洞窟の奥へとさそった。
毛皮の敷かれた頭領専用の上座にハーマンを座らせると、ドーラは横に腰を下ろし、火酒の入った杯を手渡す。
手下達もそれぞれの席に着き、宴会が始まった。
やがて夜もふけて皆が酔いつぶれ、盗賊達のアジトはひっそりと静まり返った。
ハーマンはすでにドーラと共に奥の小部屋に引っ込み、鬱々として寝酒をあおっている。
「……ちくしょう」
何度目かの愚痴をぶつぶつと呟いて、杯の中身を一気に飲み干す。かっと熱いものが喉の奥をすべり、胃にしみていった。
「どうしたのさ、あんた」
気に入った女といても一向に心は晴れず、怒りがぐつぐつと腹の底で煮えたぎっていた。
考えるのはあのときの小僧と女のことで、頭に手をやれば、無残な残骸と化した髪の名残りがあるばかりだ。
「おらぁ腹がたってしょうがねえ。本当なら、もっと簡単にいくはずだったんだ。ちゃんと手はずもととのっていてよ、姫さんをさらうなんざわけねぇと思っていたのによ。ちくしょう、一回でも失敗した後となりゃあ、奴らも警戒しているだろうしよ。二度目はそう簡単にいくとは思えねえ」
ドーラが杯に火酒をなみなみと注ぐ。
「まあまあハーマン、とりあえず景気づけにぐっとお呑みよ。何かいい考えが浮かぶかも知れないしさ……あたしにも一杯おくれよ」
「……ああ」
ハーマンは柔らかくしなだれかかってくる美女を引き寄せ、手の中の杯に火酒を注ぎ込んだ。ドーラが喉を鳴らして酒を呑み干す。
「ああ、美味しいねぇ……」
ふふ、と笑みをもらし、呑み終わった杯を顔の前で掲げ逆さまにする。酒の雫が数滴、杯の縁を滑ってほの白い首筋にしたたり、胸の谷間に消えていった。
ハーマンはごくりと唾を飲み込んだ。
「ドーラ……」
豊満な胸元に手を伸ばす。
ドーラが微かに笑い、舌先がちろと、真紅の唇の奥でうごめいた。
ドーラのことをハーマンはよく知らない。
彼女がどこの産まれなのか、今までどこで何をして生きてきたのか。
ハーマンが知っているのはドーラという名と、青白くひんやりとした柔肌、そして絡み付いてくる肉感的な肢体だけだった。
ドーラはハーマン達盗賊一味の隠されたアジトにある日こつぜんと現れ、セルシアーナ誘拐の計画を持ちかけてきた。
さる身分の高い人物の後ろ盾もあるから失敗することはないし、心配いらないと受け合いもした。法外な額の報酬も約束されており、前金もたんまり貰っている。
彼女が盗賊達の前に現れてからまだ日は浅かったが、ドーラの美貌にハーマンはすっかり骨抜きにされているのだった。
「邪魔をしてきた奴らの中に、魔法を使う変な女がいたんだ」
「……魔法?」
ふと興味を覚えたようにドーラは顔を上げる。金の瞳が赤味を帯びて濃さを増した。
「確かなのかい?」
「ああ間違いねぇよ。こう、手から火を出してよ、驚いたのなんのって……あんなもん、おらぁ初めて目にしたよ」
「ハーマンあんた、まさか怖気づいたんじゃあないだろうね」
「け、けどよ、魔法だぜ。大昔の伝承じゃあねえけど気味が悪いじゃあねえか。ここのところ、あちこちでたちの悪い魔性が現れたっていうしよ。今まではそんな話、とんと聞いたこともなかったってえのに、それにあいつら何て言うかよ……妙なんだよ」
「何言ってんのさ」
身体にまわされたハーマンの腕をやんわりとほどき、すい、とドーラは身を引いた。
「おい、ドーラ、どうした?」
名残惜しげに腕をさまよわせるハーマンから距離を取り、それでいて誘うように身をくねらせる。ハーマンは蠱惑的な微笑を浮かべるドーラから目が離せなくなった。
「な、なあドーラ、そんなにじらさねぇでくれよ……こっちに来いって」
「ハーマン。あたしは男の中の男が好きなのさ。あたしが欲しいなら男らしいところを見せておくれよ」
小部屋の奥の、柔らかな毛皮が何十にも敷き詰められた場所にしどけなく身体を横たえ、ドーラは挑戦的に言い放つ。艶やかな漆黒の髪が細腰を流れ落ち、とぐろを巻くように床に伸びている。
「あたしに触れたいだろう? あたしを抱きたいだろう、ハーマン」
「あ、ああ、抱きてぇよ……」
いまやドーラの長い黒髪は別の生き物のようにざわざわと蠢いていた。
赤味を帯びた金の瞳がいっそう輝きを増し、ちろちろと燃えている。真紅の口唇がにい、と笑みを象ってつりあがった。
「もう一度、輿入れ行列を襲撃してセルシアーナをさらっておいで。そして炎を操る女をここに連れてくるんだ。わかったね?」
「……ああ」
ハーマンは身体を硬直させ、魂が抜け落ちたようになっていた。
見開かれた両目は焦点を欠き、うつろな空洞のようだった。半開きになった口元から唾液が糸を引いている。その表情は、どことなく恍惚とした色を浮かべていた。
「これをごらん」
ドーラが腕を一振りすると、手の中に指輪が現れた。
とぐろを巻いて絡みつく蛇を象った金の指輪で、燭台の炎に透かして見ると血のように赤い宝石がまたたいた。うながされるままハーマンはそれを指に嵌めた。
「特別におまえにこれをやろう。これがあればどんなものも恐れることはない。使い方はわかっているね」
ハーマンは頷いた。確認するまでもなく指輪自身が教えてくれた。
「おいでハーマン、今宵は楽しい夢を見せてやろう」
ハーマンはぐったりと敷物の上に倒れこんで目を閉じた。意識はすでになく、いつわりの記憶だけがドーラによって植えつけられていく。
「恐いなぁ」
ふいに涼やかな声が響いた。少年の声だ。
この場には不釣合いなのんびりとした口調で、どこか楽しげでもある。
ドーラとハーマン以外は誰もいないはずの空間の一角に歪みが生じ、ゆっくりと人型が浮かび上がる。
「可哀相に。指輪に生命を吸い取られてさ、その男いつまで持つと思う?」
「それほど長くは持ちますまい、我が君」
膝を折るドーラの前に佇むのは、まだ少年と言っても差し支えのない人物だった。
均整のとれた身体からしなやかに手足が伸びている。肌には傷跡はおろか染みひとつなかった。そこに少年が立っているだけで、狭く薄暗い洞窟の小部屋が、光り輝くようだ。
少年は優雅な仕草で部屋を横切ると、ものめずらしげにあたりを見まわした。
すみれ色の瞳が好奇心にきらきら輝いている。
ドーラに背を向けて立っていた少年は首だけで振り返った。
「ただの退屈しのぎのつもりだったけど、予想外の獲物がかかったみたいだね」
「まことに」
蜂蜜色の髪が頬にかかり、少年のおもてを艶やかに彩っている。
髪は肩に届くか届かないかという長さで、ゆるやかなウェーヴがかかっていた。少年は無邪気に笑った。
「あれが近くにいることは気づいていたけど、まさか自ら飛び込んでくるとはね。楽しみだなあ……お手並み拝見といくよドーラ。僕を楽しませておくれ」
「御意」