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18.蛇の指輪

「シーナ・レイ……おまえ」

 ラディンはいつもの彼らしくない、なんだか泣きそうな顔をしている。

 そうやって彼はときおり傷ついた子供のような表情を覗かせることに、彼自身、気づいているのだろうか。

 信じてる、最後にシーナ・レイはそう付け加えた。

「こ、こいづのせいで、お、俺は、こんな山の、どど洞窟に身を落とすはめになっだ!」

 ハーマンが吠えるように言う。その目には憎悪の炎が灯っていた。

「そんなの、なにもかも、逆恨みじゃないの」

「黙れ黙れ黙れーっ、こいづのせいだ、全部こいづの!」

 ハーマンは剣を抜くと、シーナ・レイに襲いかかった。

「やめろっ……!」

 叫び声と共にラディンが横合いから飛び出した。

 シーナ・レイを背後にかばい、ラディンはハーマンと対峙する。

「やめろっ、ハーマン……それを外すんだ」

「う、うるざいっ、黙れっ!」

 剣を手にしているハーマンにラディンは素手で相対していたが、状況はあきらかにラディンが有利だった。

 指輪に精気の大半を吸い取られたのか、ハーマンの動きは緩慢で、剣をふるう腕の動きもおぼつかない様子だった。

 もみあいがつづき、やがてラディンが剣を持つハーマンの腕を掴んだ。

「指輪を捨てろハーマン。自分の姿を見てみろ、わからないのか? このままじゃ死ぬぞ」

 ハーマンが激昂し、足を踏み鳴らす。

 土気色になった顔の、おちくぼんだ両眼だけがらんらんと輝いていた。まるで消えかかった命を燃やして、最後の力をふりしぼるかのようだった。

「こぎれいな格好で、こ、こんな仲間まで引き連れてっ、のうのうと俺のまえに現れやがって……どうじで! どうじて、おめえばかりがっ……俺は何もがも失ったってのによっ!」

 ハーマンは恥も外聞もなく泣きわめいた。憤怒に身をよじりながら「憎い憎い」と幾度もくりかえしながら。

 ラディンが懇願する。

「いまからでも間に合う。指輪を捨てるんだハーマン……頼む」

 そのとき、嘲笑を含んだ声が響いた。

「だまされるんじゃないよ、ハーマン。わからないのかい? そいつはおまえの指輪が目当てなんだ。おまえの指輪をうばうつもりなんだよ!」

 ドーラの言葉にハーマンはカッと目を見開いた。

「これは渡さねぇ! 俺のものだっ!」

 唸り声をあげながら、腕を振り回し、剣を持つ手を掴んでいたラディンを振り払う。

「……ラディ・リン! 俺から何もかもうばっおいて、おめえはそれだけじゃあきたらず、俺の指輪まで狙うのがっ、許さねっ、許さねぇぞ!」

 憎悪に燃えた眼差しで、ふたたび襲いかかるハーマンの剣を横に流す。

 ラディンは一瞬だけためらった後、覚悟を決めたように蹴りを放った。ハーマンは後ろに吹き飛ばされ、地面にひっくり返った。

「それを外すんだ!」

 気絶したのか、ハーマンは仰向けに横たわったまま動かない。ラディンはその横に膝をつき、ハーマンの指に嵌っている指輪を外した。

 だがラディンが指輪を投げ捨てる前に、奇妙なことが起こった。

 からみつく蛇の形を模した指輪、蛇の目の部分に嵌め込まれた真紅の石が、異様な光りを放ったのだ。

 指輪から赤黒い霧がふきでる。

 鮮血を思わせる、ねっとりとした霧だった。意志を持ったかのようにラディンをとりまいて、その身体を包みこんだ。

 振り払おうとした腕が、むなしく宙をかく。

 ラディンは身体を大きく揺らしながら、その場を離れようとしてもがいた。けれども必死の抵抗は、それで尽きた。

 苦痛に彩られた声を上げ、ラディンの上半身が、弓なりにそりかえる。焦点のぼやけた視線が、薄暗い天井をさまよっている。

 ラディンは苦しげに声を漏らし脱力すると、膝をついた。前かがみになって倒れるすんぜん、地面に右手をついて、かろうじて上体を支える。

 手のひらから指輪がすべり落ち、硬質な音を響かせて床に転がった。

 指輪は本物の蛇がそうするようにとぐろをほどくと、地に四肢を着いて硬直しているラディンの指の間を這い進む。とうのラディンには、振り払う余力も残されていない。

 瞳に嵌めこまれていた真紅の宝石が濃さをまし、中心にほそい縦線が刻まれた。

 ギョロリと動くそれはすでに宝石ではなく、命を宿した蛇の眼球そのものだった。

 蛇はラディンの手の甲をするするとすべり、蛇行しながら大きさを増してゆく。

 ドーラの哄笑がこだました。

 ついにラディンは意識を手放して、横向きのまま地に倒れこんだ。




「ラディン!」

 シーナ・レイはラディンに駆け寄ると、助け起こそうと手を伸ばした。

 そのとたん、ラディンの腕に絡みついた蛇がかまくびをもたげ、鋭い牙で威嚇してきた。

 咬まれそうになったシーナ・レイは「きゃっ」と短く叫び、慌てて手を引っ込めた。

 そうしているうちにも変化はつづいていた。手首を二周し終えたときには、蛇は親指ほどの太さになっていた。

 まるで生きている本物の蛇だ。

 血のように赤い瞳を持つ、青みを帯びた緑色の蛇だ。毒々しいが同時に美しく、そして邪悪な気配を発散させている。

 ラディンの腕にからみついた蛇は再びかまくびをもたげると、先の割れた細長い舌をちろりと出した。蛇は自らの尻尾に噛みつき、動かなくなった。

 不吉な輝きを放っていた瞳から光がうすれ、蛇の眼は真紅の宝石に戻った。

 ラディンの身体を包み込んでいた赤黒い霧が空気に溶けて完全に消えたとき、蛇は生命力を手放したように、ただの腕輪に姿を変えていた。

 ゆらり、とラディンが身を起こす。

 両腕をだらりと下ろして立ち上がった姿は、奇妙に傾いていた。

 その右腕では青緑色の蛇がとぐろを巻いて絡みつき、蝋燭の炎に照らされて、不吉な輝きを放っている。

「……ラディン?」

 朱色の飾り紐とともに編みこまれた暗褐色の髪が乱れ、いくすじかが、無造作に肩を流れ落ちて揺れている。下を向いているせいで、その表情をうかがい知ることはかなわなかった。

「やめろっ……近づくな!」

 後ろから伸びてきたシーザリオンの腕が、シーナ・レイを押さえつける。

「待て……様子がおかしい」

 ラディンはうつむいたまま、動かない。

 かすかに上半身を前に傾け、両腕をだらりとたらしている。その姿は、あやつり人形を彷彿とさせた。

 ラディンが、ゆっくりと顔をあげた。

「あ……っ!」

 シーナ・レイは息をのむ。

 そこにいるのはラディンであって、ラディンでなかった。

 邪悪な気配が全身を押し包んでいる。

 あれほど生命力に溢れていた翠の瞳は、いまは硝子細工のようにうつろで、死人のようにどんよりと濁っていた。

 そこには、一片の感情すらあらわれてはいなかった。

「ふ、ふふ……さあ、おいで」

 ドーラが手招きをする。

 ラディンは無言のまま、声のする方へと首をめぐらせた。

「ラディン、どうしちゃたの? ……そっちに行ってはだめよ!」

 必死に静止をうったえたが、声は届くことはなかった。

 ラディンは見えない糸にたぐり寄せられるかのように、ゆっくりとドーラの方へ歩みよていく。

 ドーラの哄笑が洞窟内に響き渡る。

 勝ち誇ったようにシーナ・レイを見据え、すい、と手を伸ばす。

 伸ばした腕にラディンを絡めとり、耳元に息を吹き込むようにして、ドーラはささやいた。

「可愛い坊やだこと」

 ラディンは抵抗するどころか、なすがままにドーラに身を預けている。

 翠の瞳からは感情の波がきれいに抜け落ちていた。うつろな空洞のような瞳、はっきりと定まらない視線は、シーナ・レイを通り越して遠くに向けられていた。

 なかば意識をとばしたラディンの暗褐色の髪に指先を絡め、ドーラが頬に唇を寄せる。真紅に縁どられた唇の隙間から、二つに先割れた舌がちら、とのぞいた。

「さあ、わたしを愉しませておくれ。人間どもを皆殺しにするんだ」

 ラディンはドーラから離れ、すらりと剣を抜いた。

 あいかわらず瞳は精彩を欠いていたが、足取りは確かだった。

 シーザリオンがラディンの行く手を遮るように立ち塞がった。

「シーザリオン……何をなさるの?」

 セルシアーナが震える声で尋ねる。

「二人とも下がっていろ」

「だめよ! 彼を傷つけないで」

 自らも抜き身の剣を構えるシーザリオンに、シーナ・レイは身をふるわせた。

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