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15.異界の扉

 自分が汚い人間だとラディンは理解している。

 なんの価値もない、うす汚れた人間だ。

 汚れて、汚れきって、いままでもこれからもひとりで生きていき、やがてはどこかの道ばたで、ひっそりとのたれ死ぬだろう。

 あきらめとも哀しみともつかない、そんな想いをラディンは抱き、ずっと生きてきた。

 それでいいと思ってきた。それ以外の人生など、想像すらしなかった。

 いまを楽しめればそれでいい。どこか虚しさを覚えながらも、ラディンはそう思い、生きてきた。

 そんなときシーナ・レイと出逢ったのだ。

 出逢ったとたん、いままでの生活を丸ごとひっくり返された。

 自分がいままでいかに虚しい日々を過ごしてきたのかを思い知らされ、好むと好まざるにかかわらず、いやおうない現実をつきつけられた。

 それまで色のない単調な世界が、鮮やかな色彩を帯びてラディンを包み込んだ。

 不吉な対の瞳を持ち、たったひとりで旅をしながら、それでもシーナ・レイは屈託なく笑う。

 彼女と一緒にいれば、面白いことにめぐりあえそうな気がした。

 変わりだした毎日にふと恐れを抱くことはあったけれど、立ち止まることはもはや出来そうもない。その先に何が待っていようとも。

 決して愛なんかじゃない。

 これはただの興味だ、とラディンは自分に言い聞かせる。愛であるはずがない。

 シーナ・レイに婚約者がいるのを承知でみずからも名のりをあげたのは、いつもの悪乗りの延長に過ぎない。

 あえて理由をあげるとしたら、たんに彼女と行動を共にする、もっともらしい理由が必要だったからだ。

「ああ、それだけだとも。それだけに決まっている」

 どこか釈然としない想いを打ち消そうと、ラディンは頭を強く振った。

 それ以上を考えれば、自分をおいつめる結果になると、無意識に感じ取っていたのかも知れない。

「どうかしたか?」

 なにかを察したように、シーザリオンがうすく笑った。

「どうもしねぇよ。それより喉がかわかねぇか」

 なんとなく気まずくて、シーザリオンの返事を待たず、ラディンは川に降りた。

 ごろごろした石をよけながら水辺に辿り着くと、はりだした岩に膝をついて透明な流れに手のひらをひたした。

 手を切るほどの冷たさに、わずかに首をすくめる。よほど喉が渇いていたのか、水は驚くほどにうまかった。

 後から河原に降りてきて、同じように水で喉をうるおしたシーザリオンが横にたたずむ。しばらくして思い出したように彼は口を開いた。

「そういえば、対の瞳とは闇の眷属をあらわすものだと聞いていたが、あの犬は黒ではなく赤い瞳をしていた」

「ああ。ついでに言うと、俺は前に闇の眷属をこの目で見たことがあるが、やはり黒じゃなかった。そいつは金色の目をしていた」

「闇の眷属を見ただと?」

 驚いて聞き返すシーザリオンに、ラディンはうなずいた。

 忘れるはずもない。シーナ・レイと出逢うきっかけになった事件なのだ。

 闇の眷属を倒すときにシーナ・レイから譲り受けた短剣は、いまはラディンの腰に差してある。唯一、闇の眷属を倒すことが可能な、あの不思議な力を宿した短剣だ。

 ラディンは水辺にはりだした平べったい岩に再び向き直ると、膝をついた。

 考えをまとめるようにうつむいて、水に指先をひたす。冷たい感触が、あのときの記憶を鮮明によみがえらせる。

「これがたちの悪い化け物でよ、人間の女になりすましていやがった。まったく、いま思い出しても倒せたのが不思議なくらいだぜ」

「闇の眷属が人間になりすます? 馬鹿な。闇の眷属とは、さっき見た屍体のようなものだろう。人型をとるなど聞いたこともない」

 にわかには信じがたいというように、シーザリオンは首を振る。

 その反応にはラディン自身心当たりがあった。あのときの自分が、まさにそうだったからだ。

「それがいるんだよ。ずるがしこくて残忍で、力にあふれたやつがな……まぁ、そいつはいったん置いておくとして、たしか闇の眷族の瞳の話だったよな?」

 気を取り直したように、シーザリオンが口を開く。

「ああ。しかし妙な話だな。つまり伝承にある通り、闇の眷属は黒い瞳ではないということか?」

 わからない、というふうにラディンは首を振った。

「けどリヴの瞳は赤だ。血のような……黒じゃない」

 そもそも、問題の伝承は厳重に保管されており、ラディンのような身分の低い一介の傭兵が目にする機会などあるはずもなかった。

「少し前に、ヨークシアで動きがあったらしい」

 もうひとくちラディンが水を飲もうとして流れに手を伸ばしたとき、ふいにシーザリオンが言った。

「あの魔道国の? また、なんで急に」

 とつぜん話題を変えるシーザリオンの意図をはかりかね、ラディンは振り向いた。

「その魔道国ヨークシアに大昔、闇の眷属の王を封じたと言われている洞窟があるのは知っているな?」

 ラディンが頷く。むろん知っている。グリンファースの人間ならば誰でも知っていることだ。

 樹海の奥にひっそりとたたずむ、魔王の居城があったという洞窟。かの地にまつわる英雄譚はことに有名で、唄にも物語にもなっている。

「なんでもその洞窟の封印がほころび、そのせいで光明の神殿の双子の巫女姫のひとりが亡くなったらしい。一年ほど前のことだ」

「双子の巫女姫っていったら」

 驚きに、ラディンの声がうわずった。

「あの誉れたかい、光明の乙女リオーラの巫女、セレナとシェイラ。死んだのはセレナの方だ」

「またなんで?」

 あくまで噂だが、そう言いおいてシーザリオンは言葉を継いだ。

「禁忌とされる異界の扉を開いたと噂されている」

「闇の眷属が現れるようになったのは、そのころからか?」

「わからん。だがおそらくそうだろう」

 重々しくうなずく。深い青の双眸が真剣味を帯びて、いっそう色を濃くした。

「ただ封印のほころびはどうにか修正されたそうだ。異界からの旅人によって」

「異界からの、旅人? それはまさか」

 シーナ・レイの面影が脳裏をかすめた。遠い国とは、まさか。

「異界からの旅人ってのはシーナ……うわっ!」

 立ち上がろうとして、振り向きさま、ラディンは足をすべらせた。

 わずかに川面に向かって傾斜する大岩から、後ろ向きのまま水中へと落ちかかる。ラディンは、なかば反射的に手を伸ばした。

 指先が虚しく宙を掻き、頭の中がまっしろになる。

 そして。 

 強い力で腕を掴まれた。

「……っ!」

 息を詰め、ラディンは反射的に目をつぶった。

 そのまま腕を引かれて身体を引っ張りあげられ、シーザリオンと共に、前のめりに岩盤に倒れこむ。

「あ、悪い!」

 ラディンは目を見開いた。慌ててシーザリオンの上から身を起こす。

「水浴の季節にはもう遅いと思うがな」

 その様子を面白そうに眺めていたシーザリオンは、別段急ぐふうもなく上体を起こした。片膝を立てて、その立てた膝に頬づえをつく。

「悪かったよ、助かった」

「なんだ、妙にしおらしいな。おまえらしくもない」

 居心地の悪さにラディンが目をそらすと、シーザリオンが苦笑した。

「信じられんな、まったく」

 意味不明なことを呟いて、目を細める。

 ラディンは訳が分からなくなって、少しだけムッとした。

「もっとしたたかな奴だと思っていたが、まぬけにもほどがある」

 その口調はいつもの辛辣な響きとはほど遠く、どこか親密な響きをおびていた。

 だからかも知れない。

「なあ、セルシアーナ姫とは恋人同士だったんだろ。なのに平気なのか?」

 気づくとそんな問いを口にしていた。

「平気も何も、仕方のないことだ」

 はねつけられると予想していたのに、シーザリオンはそう言って、かすかに笑った。それは自嘲の笑みだった。

 灰色がかった銀髪が風にあおられて揺れている。

 高貴な生まれではあったが、国民に人気があるのは王弟という身分だからだけではない。シーザリオンは身分に恥じぬ、立派な騎士でもあった。

 面白くはないが、ラディンは認めるしかない。剣の腕では自分は到底シーザリオンに及ばないと。もっとも国中探したところで、シーザリオンに勝てる剣士がいるとも思えなかったが。

 嫌味なほどに冷静で整った面差しは、前王を一目で虜にしたという愛妾、エリン妃とよく似ているらしい。灰銀の髪も、深い水底を彷彿とさせる青い瞳も。

 だが優美という言葉を具現化したようなエリン妃の面影は色彩と整った造作のみで、シーザリオンの印象は高貴な血統の集大成である父王により近かった。彼が静かにたたずんでいるだけで、周囲の者は無意識に圧倒される。

 その近寄りがたい気配が、不思議といまはうすれている。

 シーザリオンが言った。

「セルシアーナ姫を連れて逃げることは出来ない。姫は……野には咲けぬ花なのだから」

 それは真実だった。


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