14.約束の腕輪
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シーナ・レイが誰かを追ってこの地へ来たことを、ラディンは知っていた。
誰か――とは男のことで、それはシーナ・レイの恋人だという。
約束のあかしを交換しあった仲であり、つまるところ二人は将来を誓い合ったあいだがらということでもあった。
シーナ・レイの相手をラディンは知らない。
どんな人間で、どんな顔立ちをしているのか。なにをなりわいとしているのか。
知っているのはその男が自分と同じ、草原の国カザレスの産まれということ、そしてシーナ・レイが一度だけうっかり口をすべらせた、ラザル・ハザという名前のみだった。
シーナ・レイの腕にある銀細工の腕輪から推測すれば、その男が、かなりの名家の出身だと容易に想像がつく。
約束のあかしとしてラザル・ハザから贈られた腕輪は、一見したところ簡素な印象を受けるが、実際には相当の値打ちがありそうだった。
繊細な透かし模様には意匠がこらされており、古風なおもむきがあった。おそらくかなりの年代物だろう。全体に象嵌された宝石は、小粒ながら、どれも高価なものばかりだ。
腕輪には『約束のあかし』としてだけではなく、特別な意味があるはずだ。
たとえば名家の跡継ぎから、その家へ嫁いでくる女主人へと代々贈られる、というふうに。
草原地方の名だたる名家では、特に珍しくもない風習だ。
シーナ・レイの腕輪は、ラザル・ハザにとっても大切な物だったはずだ。
代替のきく物ではない。同時にそれは決意のあらわれでもある。つまりラザル・ハザはそれほど真剣に、シーナ・レイを強く想っているのだろう。
そんな特別なあかしをささげるということは、他の相手とは生涯添うことはないという意思表示でもある。同じあかしでも、自分が渡した安物の品などとは、根本的に重みが違う。
「なんだ、俺の出る幕はないってことかよ」
そんなにも想い合っている二人が、なぜ離れ離れになったのかは知らない。
シーナ・レイがどういう経緯でひとり、グリンファースをさすらうことになったのかも。
ただシーナ・レイの旅の目的が、姿を消した婚約者を探すため、であるのは事実のようだった。
シーナ・レイは草原地方の出身と言っているが、嘘をついているのは一目瞭然だった。
草原の風習にうといだけでなく、彼女の瞳の色を見ればすぐに判ることだ。
草原地方には濃い髪色の人間が大半をしめるが、夜のような瞳を持つ者などどこにもいない。カザレスにも、グリンファース全土にも。
「さっきから、ひとりで何をぶつぶつ言っておるのだ?」
つらつらと考えごとをしていたラディンは、シーザリオンの呆れたような声に我に返った。
ぼんやりと足元を眺めていた視線を上げると、少し前を歩いていたシーザリオンが振り返り、まじまじと見つめていた。
「何でもねぇよ。ちっとばかり考えごとをしていただけだ」
わだちの跡をたどって馬車を追い、二人は森を分断してラビエ方面に向かう石畳の街道を歩いていた。
盗賊や屍体の襲撃を受けたとき、あいにく馬は襲われるか逃亡してしまっている。そのために移動手段は自身の足以外には皆無だったのだ。
アルスターやマリサ達とは別行動を取っており、その場には、ラディンとシーザリオン以外に人影はなかった。
「なあ、本当にこの方角でいいのかよ」
さっきまでの騒ぎが嘘のように森は静まっていた。鳥のさえずりと、ときおり耳元をかすめて飛んでゆく虫の羽音、そして梢のさらさらという囁きが耳に届くだけだ。
「間違いない」
「なんだよ、断言できるのか?」
「断言も何もここは一本道だし、あれだけの大きさの馬車だ。見落とすはずがなかろう」
おまえは馬鹿か? いらぬ一言を付け加えるシーザリオンに、ラディンは口元をヒクヒクさせる。
「ためしにちょっと聞いただけじゃねぇか、嫌味ったらしい言い方しやがって。それだからフラれるんだ、ボケ」
「またその話か。しつこい小僧だな」
怒り出すと思ったがそうはならず、逆に鼻で笑われる。上から目線に、ラディンは顔を引きつらせた。
「ああもう、本当にむかつく野郎だぜ。あんたとは二度と口をきかねぇからな!」
「ぜひそうしてくれ」
やけくそ気味に噛みつけば、いかにも面倒くさいといわんばかりに大仰に肩をすくめる。
もう一言何か言ってやろうと口を開きかけたラディンだったが、余計に腹の立つ結果に終わりそうな予感にしぶしぶ言葉を飲み込んだ。
正面には緑の天井に覆われた細長い道が続いている。木漏れ日の落ちる石畳をガツガツいわせて歩きながら、ラディンはいまいましげに舌を打つのだった。
どれくらいそうして歩いていただろうか。
ふと、シーザリオンが口を開いた。
「あの短剣はおまえのものだと言ったが、それは本当か?」
盗んだ物ではないだろうな、とでも言いたげな視線にラディンは嘆息する。
「本当だ。嘘じゃねぇよ」
シーザリオンが怪しむのも無理はない。あの短剣は一介の傭兵風情が手にするには桁外れに高価であり、たぐいまれな逸品だった。
「盗んだわけじゃない。もっとも、もとはシーナ・レイの持ち物だけどな」
「あの、対の瞳を持つ娘の?」
漆黒の瞳は、グリンファースでは『対の瞳』と呼ばれ忌み嫌われている。対の瞳とは、すなわち闇の眷属を指し示す言葉だ。
なかば忘れ去られた古い伝承にすぎなかったが、名のある神殿や王宮の書庫には対の瞳や、地下に封じられた闇の眷属の王にまつわる文献が今も残されているという。
「あの瞳といい、炎をあやつる怪しげな魔法といい奇妙……いや、むしろ不吉というべきか。娘が連れている犬も普通の犬ではあるまい」
そこまで言ってシーザリオンは考えあぐねるように少しのあいだ黙りこみ、やがて口を開いた。
「あのような得体の知れぬ娘など、いっそ見限ったほうが何かとよかろうに。なぜ行動を共にする?」
「理由なんてねえよ」
ラディンがシーナ・レイと行動を共にするようになったのは、彼女に興味を覚えたからだ。
シーナ・レイは出会ったときにはすでにリヴを連れていて、あの不思議な力を持つ短剣をたずさえていた。
どちらもが稀有な存在であり、持ち主であるシーナ・レイにもそれは当てはまる。
珍しい夜の瞳と、見当のつけようのない出身地――以前ふとしたきっかけでシーナ・レイは、遠い国から来たともらしたことがあった。遠い国とはどこなのだろうか。
対の瞳を持ち、炎をあやつる不思議な少女――シーナ・レイとは何者なのだろう。
なぜ、闇の眷属としか思えない獣を付き従えているのか。
「たぶん退屈だったからだ」
ぽつりとラディンは呟くと、遠くを見つめた。太陽が西に傾き、黄昏が染み出すように緑の森を包みはじめている。
「惚れているわけではあるまい?」
「まさか!」
ラディンは即答した。そんなんじゃない、と付け加え、横を向く。
好きとか惚れたとか、そんな感情などない。
あえて理由をあげるとしたら、きっと退屈を持て余していたからだ。そして孤独だった。
ひとりを寂しいと思ったことはない。
むしろ何ものにも縛られない孤独をよしとしていた。けれど、同時にどこか虚しさを感じていることも事実だった。
ラディンは家族の温かみを知らなかった。
産まれたのは草原の国カザレスの悪名高い歓楽街にある、一軒のうすぎたない娼館だった。
物心ついたときすでに母親は病気を患っており、ほどなくしてこの世を去った。
父親が誰なのかは当然ながら知る由もなかったし、知ったところでどうなるものでもない。
ラディンは自分の食いぶちを稼ぐために、七歳のとき店に出された。
そして娼館を逃げ出し、それ以来ずっとひとり、今日まで何とかやってきたのだ。
むろん盗みもしたし、物乞いもやった。
娼館を逃げ出したばかりの幼い頃は、路上をねぐらとし、日々の食べ物にさえことかいた。
十歳の時には他人をだますことを覚え、スリの腕をみがいた。
盗賊に身を落としてからは殺しすらやった。
初めて人を殺めたのは十三歳の時だ。
殺るか殺られるかの瀬戸際だったとはいえ、あの時のことは二度と思い出したくもない。
そうやって、自分の身を売る以外は、どんな汚い仕事にも手を染めてきたのだ。
盗賊団を抜けた後は――当然のことながら一悶着のすえ、ラディンは命からがら逃げるはめにおちいったのだが――盗賊のときにみがいた剣の腕が役に立った。
ラディンは傭兵をしながら、気の向くまま、グリンファース中を旅してまわった。




