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12.白い獣



   ◆◆◆


 それは途方にくれていた。

 うまれ落ちたばかりのそれを庇護するものは何もなく、みちびくものすらいなかった。

 運命に定められていたはずの『主』は、いくら待っても迎えには来ない。

 それは自ら『主』を探して世界をさまよったが、その姿を見つけることは叶わなかった。再びそれは『主』を求めて山を越えて海を渡り、あてどなく大地を疾走した。

 呼びかけに、やがてそれは足を止めた。

 声は捜し求める『主』のものではなかったが、孤独がそれを声のする方に導いた。


 作法に則って敷かれた陣の中央に、するりとそれは降り立った。

 石の床に四肢を踏みしめて立ち、足元から円形に広がるにび色に視線を落とす。それは喉の奥を震わせると微かな唸りをもらした。幼子の血でぬめりを帯びた床はそれを呼び出す手順であり、同時に枷だった。

 白い法衣を纏った男が手招いている。

 男の背後に控えた人々の詠唱が、礼拝堂めいた仄暗い地下室に陰々と木霊していた。


「我は闇の主なり。闇より創られし獣よ、そなたに名前を授けよう、そなたの名は――」

 男の低い声が、それに名を与えた。

「獣よ、白き闇よ、我がもとに下れ」

 詠唱も止まぬうち、それは一歩を踏み出した。

 稚拙な陣だったから、大した抵抗はなかった。前脚を降ろすと同時に陣が消滅し、鮮血で描かれた二重の円は溶けて消えた。

 すえた匂いに混じって漂う血臭にそれは鼻をひくつかせた。その場に集う人々の恐怖と畏怖がさざなみのように寄せてくる。

 幾人もの男女がいた。干からび腰の曲がった老人も、やわらかそうな肉を持つ娘や子供も。

 群れ集う人々を眺め、悠然と男の元に歩み寄ると、それはこうべをたれた。

 男は細い短剣で手のひらを浅く切ると、契約の証――自らの血を差し出した。


 差し出された証ごと、それは男の手首を食い千切り、身体を引き裂いた。

 ゴキリと奥歯で骨を噛み砕く感触に真紅の目を細め、生温かい肉を咀嚼する。不味かった。不快なほどに。

 新たな獲物を求め、それは周囲を見まわした。

 女のひとりが、声にならない悲鳴をあげる。

 その声を皮切りに、地下室に恐慌が広がり、人々は出口に殺到した。

 それは地を蹴ると、雪のように白い身体をしならせて跳躍した。

 すべてが終わったとき、それの全身はしっとり濡れていた。

 それは身体を振るった。

 鮮やかな真紅の雫が舞い踊り、床に散る。

 後には染みひとつない、なめらかな純白の被毛を持つ獣が現れた。

 それは眩く、禍々しい光に満ちていた。




 力に溢れるゆえに、それは『主』を他に持てなかった。

 それを御せるのは唯一『主』のみだった。

『主』を持てぬそれの力はおとろえ、かわりに絶望がそれを取り巻いた。それは名もない野の獣になりはてようとしていた。

 やがて絶望すらが遠のいて、すべてが闇に閉ざされていった。無が、彼を取り巻いて、彼の意識を絡めとっていった。

 そして――

 見つけた。

 その気配は力に満ち溢れていた。

 眩い、目のくらむほどの生命そのもの、夏の陽射しのようだった。

 遠い地の、深い緑に閉ざされた山間を目指して、それは風のように大陸を駆け抜ける。


 折り重なって茂った樹木の陰に埋もれるようにして、その場所はひっそりと存在していた。

 その神殿跡はとうの昔に忘れ去られ、朽ちかけていた。

 石壁は倒壊し、円柱は引き倒されて青蔦にびっしり覆われている。丈高い草に大部分を侵食された石畳に、それは音もなく降り立った。

 一面に、薄紫の花が咲いている。

 陣は、それを呼ぶために敷かれたものですらなかったけれど、それは足を踏み入れた。

 光がそれの身体を焼き、力に引きずられるようにして炎が渦を巻いた。

 生きながらにして焼かれる苦痛に、それは咆哮した。

 足元に、陣が光の模様を浮かび上がらせていた。

 かの人は、その中央にいた。仰向けに身を横たえて瞼を閉じている。

 それは崩れ落ちるようにかの人の元にたどり着くと、漆黒の髪の匂いを嗅いだ。

 四肢から力が抜け、それは彼女に折り重なって倒れた。


 嗅いだことのない、異国の匂いがした。

 不思議な香りのする布に鼻をこすりつけ、甘い匂いを吸い込む。彼女は傷ついており、その腕からは血が流れていた。

 やがて彼女の閉じられていた瞼がうすく開いた。

 現れた瞳の色もまた夜のような黒だった。

 彼女は白い手を伸ばすと、横ざまに倒れて動かなくなったそれに、そっと触れた。

 首から前脚のつけねを撫ぜる心地よい感触にそれは目を開けると、彼女の腕をなめた。

 腕から流れ出た血が一滴の雫となって舌に落ちた。

 その刹那。

 力がみなぎり、それは再び咆哮した。

 それを取り巻いていた光はもはや身体を傷つけることはなく、それを眩く照らしていた。吹き上がる炎が、純白の被毛を黄金に染めている。

「……リヴ?」

 それが彼の新たなる名前となった。

 哀しい、それでいて暖かい想いが流れ込んでくる。それは彼女が属する世界での、今はもう亡い、彼女の獣の姿をしていた。

 リヴは彼女の想いに応え、姿を変える。

 純白の被毛は淡い金色に、ぴんとはった耳はたれ、赤く燃える瞳はおだやかな夜の色へと。その身体すら小さくなった。

 リヴは彼女の記憶を探り、その仕草までを正確に模倣する。

 口角を笑みの形に上げ、ピンクの舌をわずかに覗かせた。首を傾げて、飾り毛の付いた尾を左右に振る。

 一陣の風が吹き、彼女の黒髪とリヴの豊かな金色の被毛を吹き散らした。

 先ほどまで荒れ狂っていた光は和らぎ、いつのまにか陣は消失していた。

 彼は四肢を丸めると、普通の犬がするように主人の足元に丸くなった。

 ゆっくりと彼女が身を起こす。

 癖のない黒髪がさらりと頬をすべり、肩に落ちた。

「リヴ? ……違う、そっくりだけどリヴじゃないのね。あなたはだれ? どこから来たの?」

 声の響きが心地よくてリヴは目を細めた。

 あごを引いて垂れ耳の付け根をわずかに上げる。

 耳の金色の飾り毛が微風にふわふわ遊んでいた。リヴは彼女の手の甲を舐め、それから平たい頭を彼女の腕にこすりつけた。

 くすぐったい、と彼女は笑った。

 くすくす笑いながら、リヴの耳の後ろを指先で軽くひっかくように撫で、背中に手を伸ばして腰をさする。リヴは嬉しくてたまらなくなった。


 微かな足音が近づいていることに気づき、リヴは耳をそばだてた。

 複数ではなかったが人間のものだった。

 音の近づいて来る方向に首を曲げ、黒い目を見開いて動きを止める。

「どうしたの?」

 顔を右手に向けたまま、蔦のからまった古木をリヴはじっと見つめていた。

 首の後ろにまわされた手の感触に名残惜しさを覚えながら、リヴは身を離して少女の横を通り過ぎる。

 その身体が一回り大きくなった。

 今まで垂れていた耳がぴんと張って立ち、その色までが漆黒へと変化を遂げた。

 愛嬌に満ちていた犬は消え、かわって金色の犬でも白い獣でもない、獰猛そうな一頭の黒い犬が出現した。

「えっ! あなた普通の犬じゃないのね……そうなんでしょう?」

 少女は息を呑んだ。

 驚愕の気配が背後から寄せてきた。だが悲鳴は聞こえず、逃げる気配もなかった。

「やっぱり、やっぱりそうなのね? ……あたし、再び、たどり着いたんだわ、ここに!」

 少女は歓声をあげると立ち上がった。

 膝の出る短い丈のスカートが風をはらんでひるがえる。黒革の短靴の踵がカツンと鳴った。

「ねえ、信じられる? こっち側の世界には、もう二度と来られないと思ってたのよ。彼とは永遠に会える日は来ないって諦めていたの。それなのに! ああ、信じられないわ。でもここはどこなのかしら……ヨークシアだといいのだけれど」

 少女は再び腕を伸ばすと、無造作に彼を抱きしめた。

「まずはこっちの世界の服を調達しなくちゃ……あなたの名前は」

 少女はしばし沈黙すると、小首を傾げた。

 彼をじっと見つめ、ふいに何かを理解したように目を見開く。

「……リヴね。そうなんでしょう? ねえ、あたしと一緒に来てくれる?」

 肯定の印に、リヴは少女の手のひらを舐めた。

 それからしばらく考えて少女の記憶にある、穏やかな表情をした金色の犬の姿をとった。

 少女が顔を上げる。

 視線の先には、村人らしい女と小さな子供の姿があった。

 少女がそこにいることに気づいた二人はいったん足を止め、曖昧な笑みを見せる。警戒しているのだろう。

 少女が小声で独白する。

「あたしは今から椎名玲しいなれいじゃない……シーナ・レイよ。産まれは草原地方、ここには旅の途中で寄ったの……大丈夫、ひとりでもやれるわ」

 その声は、かすかな奮えを帯びていた。

「お願い、あたしをまもって……ラザル・ハザ」

 リヴは少女の前に歩み出ると、静かに身構えた。

 少女に何かあれば、すぐに飛び掛り二人を引き裂くつもりでいた。



 それは予め定められていた『主』ではなかったけれど、かの人と似ていた。

 やはり力にあふれ、輝くばかりの生命を宿していたから。


 そうして、彼は『主』を間違えた。


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