88 魔女の宴 その壱
「由紀子ちゃん、なんか雰囲気違わない?」
クラスメイトの女子に言われて由紀子は嬉しいような恥かしいような気分で、つい間抜けな笑いをしてしまった。
「う、うん。ちょっとね」
ほんの少し眉を整えて、リップを塗っている。学校の校則でお化粧は禁止だが、これくらいならばれないだろう。
「似合うよ。かわいい、かわいい」
「そうかな?」
「うん、自信持ちなよ」
などと言われても、由紀子にとって女の子同士の「かわいい」は、当てにならないものである。「かわいい」という言葉は便利だ、「きれい」だと嘘になる言葉でも「かわいい」だと、価値観の違いというものでごまかしがきくのである。
「由紀子ちゃん、かわいくなるのはいいけど、同時においしそうになることも覚えておいてね」
かな美が半眼で由紀子を見る。時折、ちらちらと織部とともにお昼を食べている山田少年に視線を向ける。
由紀子と山田が仲直りをしても、この心配性な友人はそれを許したわけではない。
「山田は男子なんだから、男同士でご飯食べるべき!」
と、山田を織部に押し付け、由紀子とかな美は他の女子グループに入っている。ああ見えて山田は、自分からよそのグループに混じることには抵抗があるため、由紀子たちと一緒でないと他の生徒たちにあまり近づかない。織部についていく姿はまるで荷馬車にのせられた子牛のようであった。
積極的なのか消極的なのかわからない性格である。
(まあ、ある意味こっちのほうが自然なのかな)
今までが異常なくらい一緒にいたのでちょうどいいのかもしれない。
学校でずっと一緒にいて、家に帰ってもご近所なので会うことが多く、休日も山田が由紀子の家によく来るのである。大らかすぎる日高家大人たちは何も言わず、兄も部屋に引きこもっているので文句を言うものはいないのだ。
まあ、それはそうなのだが。
(なんでだろ? なんか、むかつく)
由紀子が山田たちのほうを見ると、山田少年と織部を含め男子五人はごくごく普通に会話をしていた。
まるで普通の男子中学生みたいに。
慣れてしまえば彼とて相手の話題に合わせる芸当ができるらしい。楽しそうなことはよいことなのに、なぜだろうか。
由紀子はちょっとむっとなりながらも、鞄からおにぎりをとりだす。ラップをはがし大きく口に頬張る。
「あーあ、そんなんじゃあ、リップの意味ないよ」
「お腹すいたもん」
残念そうな言葉をかけられるが、由紀子にとって食欲のほうが上回っていた。
「そうよ、由紀子ちゃんは食欲、まだ食欲のほうがずっと上回るお年頃なの。どんどん食べて、食べて頂戴!」
かな美がなぜか食べることを強調していった。
それはそれで嫌なのであるが、仕方ないのかもしれない。
由紀子は、まだまだご飯のほうが大切な食べ盛りの十五歳なのである。
いつも通りバス通学に戻った由紀子であるが、山田少年には「半径一メートル以内に座らない」を条件として一緒の登下校を許している。
最初、山田少年はその言葉に衝撃を受け、まるで雨に濡れた子犬のようなつぶらな瞳で由紀子に訴えてきた。その目に弱い由紀子は、「しょうがないなあ」という言葉を続けようとしたが、
「これじゃあ、由紀ちゃんの匂いが堪能できない」
というなかなか残念な言葉を山田少年が発してくれたため、由紀子は山田が近づくと磁石の同じ極同士のように離れるようになってしまった。
(今までずっと嗅がれてたんだ)
そう考えると本当に恥ずかしくなる。今まで汗臭いときもあれば、ブタ肉の食べ過ぎでブタ臭いときもあったはずなのに。なんという羞恥プレイであろうか。
今日もそんなわけで、距離一メートルぴったりを守りながら帰ってきた。
「ただいまー」
靴を脱ぎ、廊下を抜けて部屋に鞄を置く。制服をベッドの上に脱ぎ捨てると、部屋着に着替えた。
隣の部屋からまたかちゃかちゃというコントローラーの音がする。
由紀子はまだ兄と喧嘩中で、兄は由紀子と顔を合わせないためか、家に帰ると部屋にひきこもっている。
(私は悪くないんだから)
由紀子はそう思いながら、居間へと向かおうとすると携帯が鳴った。メールが来たようだ。
(相手は……)
桜からだった。
先週、由紀子は桜に誘われて彼女が経営するサロンに呼ばれたのだった。中高生向けの化粧品のモデルとして手伝ってほしいと言われ、由紀子は了承した。
自分がモデルなんてものをやっているとなると、照れてしまう。まだ、未発表の新製品もあることから、けっこう重要なことなのかな、と思ってしまう。
桜のサロンは小さいがお洒落で小道具に凝った店だった。立地条件もよく家賃も高いだろうな、と子どもらしくないことを由紀子は思った。会員制ということで、お客は他におらず、由紀子は贅沢にも桜から丹念なフェイスマッサージや新しいコスメを使ったメイクをしてもらって満足した。
今日、クラスメイトから雰囲気が変わった、と言われたのも、桜に言われた通り手入れをしているからだろう。
おしゃれ好きの由紀子にとっては楽しいひと時であった。
また、来週も会うことにしているので、桜をがっかりさせないためにちゃんと手入れをしなくては、と思っている。
由紀子がそんな風に思いながら、桜に返信していると、襖がいきなり開いた。中から、少し不健康になった兄の颯太がでてきた。
「……なに?」
由紀子は思わずそんな言葉を険のある言い方で言ってしまった。
「先週、どこへ行ってたんだよ」
「お兄ちゃんには関係ないよ」
兄は不貞腐れた顔で頭をかくと、そのまままたゲームを始めた。
由紀子はどしどしと足音をたてながら、兄の部屋の前に立つ。
「なにが言いたいの? 言いたいことがあるならはっきり言って!」
由紀子はそんなことを言いたいわけじゃないのに、と思いながら口に出てしまう言葉に嫌悪する。
兄が悪い、そう思うのだが、なんだろう、このかみ切れない感情は。
兄はゲームを一時停止状態にすると、ぽつりぽつりとつぶやき出す。
「異常な食欲と筋肉増強効果のある未知の病気、それは普通か?」
由紀子の不死化はこのように説明されている。
由紀子の背中に冷や汗が浮いてくる。
(な、なんなの? いきなり)
「小学生がお隣さんに連れられて海外旅行、途中、出国手続きの不備やらなんやらでバカンス延長、なぜかやたら逞しくなって帰ってくる。それって普通か?」
「……」
母や祖父母が笑って済ませた出来事を兄はしっかり変だという認識でとらえていた。ただのオタ系駄目兄貴というわけではないらしい。
「んでもって、頻繁にお隣さんの家に外泊する。わけがわからねえ。伝説に残るような化け物が住む屋敷によ」
(しかたないじゃない)
大体、そういうときはろくでもない目にあったときである。
「そういや、雪山の合宿では遭難騒ぎまで起こしてたよな。雪山で遭難がお約束なら、誰もスキーにいかねえよな」
「……べつに好きでおこしてたわけじゃないもん」
それは本当のことだ。
どれも好きでやっているわけじゃない。仕方なく巻き込まれるからだ。
兄はそんな由紀子の言い訳に目を細める。
「好きでおこしてない、巻き込まれたくって巻き込まれているわけじゃあねえか? 俺みたいな平々凡々な人間にはわかんねえけど、そういうのは巻き込まれる奴はとことん巻き込まれる、そういうもんだよ。あれだ、これとかといっしょなんだ。イベントが人生に付きまとうってやつだ」
颯太はRPGのソフトを畳の上で滑らせる。かちゃりと由紀子のつま先で動きを止める。
「俺たちは兄妹なのに全然似てねえ。人生におけるイベント配分をきっとおまえに持ってかれたせいだと思う。いわば、おまえは主要キャラで俺はモブだ。俺は別にそれでいいし、退屈だけどつまんねえとは思わない。でも、おまえはどうなんだよ。俺は、おまえがむしろ厄介事に首をつっこんでいるようにしか思えないんだがな。面倒くさいとか言いながら、無視すべき事柄に首をつっこんでるんじゃないのか?」
いつもは駄目な兄だと思っていたが、今の言葉はあまりに由紀子の本質を言い当てているようでぞくりとした。
兄はまだ言葉を続けようとしたが、由紀子はこれ以上聞くのが怖くなって襖を思い切り閉めた。
兄は襖を開けようとしたが、由紀子が襖を押さえたままなので開けることができない。
代わりに一言だけつぶやいた。
「凡人に退屈に生きるほうが、楽なんだよ。知らなくていいことは知らなくていい、知ったとしても、自分には関係ないと処理できる。そのほうがずっと楽だぞ」
颯太は襖越しにそれだけを言うと、再びゲームをプレイし始めた。
(知らなくていいことは知らなくていい)
その言葉に、由紀子は兄のノートを燃やした動機の一片を見た気がした。
「少し待っていてね」
「はい」
由紀子は桜からハーブティを受け取り、ソファに座る。
柔らかい落ち着いた色調のこの場所は、桜のサロンだ。
調度品はよく芸能人のお宅拝見で見られるような陶磁器の食器やビスクドールで、間違えて落としたりしたらと思うとどきどきする。
ソファは本革だし、ハーブティの入っているカップもマイセンとかそういう類ではなかろうか。
(駅近五分、人通りも多し)
セレブな商売だなあ、と由紀子は思う。本業は別にあり、このサロンはオーナーをやっているだけで、お客がいないときにモデルになる子を呼んで化粧品を試してもらっているのだという。
(みんな可愛い子ばっかりだなあ)
由紀子の他に呼ばれた子たちだろうか、小冊子に若い女性の写真がたくさん載っている。由紀子の同年代から二十歳前後まで、けっこうターゲットが若いなあ、と由紀子は思った。
桜なら三十代以上の女性のほうをターゲットにしたほうが、仕事的にうまくいくように思えるのだが、何かこだわりがあるのだろうか。
由紀子は首を傾げながらもう一冊の冊子をめくっていく。すると、ひらりと一枚の写真が落ちてきた。
(なんだろう?)
少し古びた写真には、おとなしそうな女性がうつっている。いや、年齢的には少女といってもいいかもしれない。服装も髪型も良く言えば清楚、悪く言えば地味であった。
(誰かに似てる)
なんだか見覚えのあるところにほくろがあり、それがこのサロンのオーナーと同じものであると気づくのにしばし時間がかかった。
「あら。そんなところにあったのね」
たおやかな笑みを見せる桜が、写真をつまみ顔の横に並べて見せる。
雰囲気は全然違うが、輪郭や鼻梁は写真の少女とよく似ていた。
「これに比べるとずいぶん努力したのってわかる?」
悪戯っぽく笑う美女は、テレビに出る女優さんと遜色ない。写真の地味な少女と同一人物だとわかるわけがなかった。
「……すごいですね」
思わず正直に答えてしまった。
それに対して桜は気を悪くした様子はなく、写真を鞄の中にしまう。
「まあね。すごく頑張ったの」
桜は空になったカップを片付けて、由紀子に背もたれのついた椅子に座るように手を伸ばす。
由紀子はゆっくりと背もたれにもたれると、機械音が鳴ってゆっくりと下がっていく。
「昔はそんなに自分のこと地味だとは思わなかったの。まあ、派手だとは思わなかったけど」
桜はオイルを由紀子の鼻と頬、額にのせていく。そして、ゆっくりと指の腹で伸ばす。
小鼻や唇の下などざらつきの多い箇所を丁寧になでて毛穴の汚れを落としていく。
(眠たくなってくる)
桜の話を聞きながら、ぼんやりと気分がゆるやかになってくる。
マッサージが気持ち良いし、さっき飲んだハーブティーにもリラックス効果があるようだ。そのうえ、部屋にはアロマが焚かれているのだろうか、頭の中がふんわりしていく。
「結婚相手も親が決めてくれたし、きれいになる必要なんてないって思っていたの」
由紀子は体勢が仰向けでなければ舟をこいでいただろう。それだけ、頭の中が朦朧とした。
由紀子がぼんやりとしていたのを知ってか知らずか、桜は言葉を続ける。
「だからなのね。やっぱり、男の人はきれいでかわいい子のほうが好きだってわかっちゃった」
朦朧とする意識の中で、桜の言葉はとぎれとぎれにしか聞こえなくなってきた。
「……のに、あの人は私じゃなくて……。悲しい…悔しいほう……」
(ああ、ごめんなさい)
由紀子は、規則正しい寝息をたてはじめた。
彼女が言っていた言葉は聞いてあげることができなかった。