9 もう一度、死にたくなるとき
目が覚めて最初に思ったことは、
(疲れた)
だった。
次に思ったことは、
(お腹すいた)
だった。
由紀子は、自分が毛布に包まれていることに気付く。身体を動かそうにも動かせない。身体が固定されているらしく、搬送用の担架に括り付けられていた。
周りを見ると、不思議な顔でこちらを見る赤十字マークのヘルメットをかぶったおじさんたちがいた。
心拍数を図る機械が、何事もなく動いている。
由紀子の身体には、管が通っている。色から輸血用血液らしい。
「……」
「……すみません。もう大丈夫なので帰りたいんですけど」
そんな言葉をかけたときだった。
「な、なんだ、君」
救急隊員を押しのけて入ってくる影が一つ。エリートサラリーマン風の男、すなわち山田兄だった。
「こういうものです。守秘義務が発生しますので、後程、詳しい説明を聞いてください」
山田兄は救急隊員に手帳のようなものを見せる。隊員たちは驚いた顔で、山田兄を車内に入れる。
「すみません。まさかこんなことになるなんて」
名門ホテルのホテルマンも真っ青の角度百二十度のお辞儀をする。狭い車内でなければ、額をこすりつけて土下座しそうな勢いだ。
(いや、ふつうこうなるとは思わないし)
誰がバイキングに行ったら、空から自殺希望者が降ってくると思うだろうか。まあ、致命傷は山田少年のどたまだったが。
「けっこう死ぬのって簡単なんですね」
痛みを感じるよりも先に意識が消えていた。由紀子としては、山田父のレバーを食べたことに比べると、大した衝撃でもなかった。
(山田少年が平気で死ぬ理由がわかった気がする)
これはいけない傾向だと由紀子は思う。せめて、ガンジー並の抵抗値は欲しい。
「今日のことは、私に責任があるので」
着地地点にのんびりしていた由紀子が悪い。
気にされても困る。
謝られるよりも、拘束された身体を解いてもらいたい、といったら、ベルトを解いてくれた。
どうやら血止めをされていたらしい。その傷跡は、何も残っていない。衣服を見ると、血糊がこびりつき、ところどころ破れている。考えたくないが、折れた肋骨が飛び出たのだろう。
山田の時も思ったが、再生する際、流れた血液すべてが身体に戻るわけじゃないらしい。少しずつ目減りしていくのだろう。
「とりあえずそのままでは、あれなので」
と、山田兄は紙袋を差し出す。中には買ったばかりの服が入っていた。
「趣味いいですね」
悪い含みはない。流行のガールズブランドで、雑誌に紹介されていたものの色違いだ。中高生向けブランドだが、少し背伸びしたいお年頃には垂涎の一品だ。
(このまま貰っていいよね)
と、ちゃっかりしたことを考える。
ついでに下着も準備してくれたら助かったが、殿方にそこまで願うのは贅沢だし、何より恥ずかしい。
「あと、これ。よかったら飲んでください」
と、山田兄はごとりと何かを置く。
山田兄は由紀子が着替えるのに気を使って、隊員とともに車内を出る。
由紀子はうきうきしながら、新しい服に袖を通す。鏡がないのが残念だ。キャミにあしらわれたレースが可愛い。輪ゴムをとりだすと、肩口までの髪をくくりポニーテールにする。
(シュシュと合わせるとかわいいだろうな)
ぼろぼろの服を紙袋に詰め込み、外に出ようとすると山田兄が置いて行ったものに気が付く。
由紀子は目を細めて、「よかったら飲め」と言われたものを掴む。
「えくすとらばーじんおりーぶおいる?」
それはどう見ても、カレー以上に飲み物でなかった。
救急車から降りると、駆け付けた山田姉に土下座され、隣にはぼこぼこでぼろぼろの様相をした恭太郎が足蹴にされていた。土下座をしながら、足蹴にする、山田姉は器用だ。
山田姉に、貰ったオリーブオイルについて聞くと、
「あきれた。こんなの飲めないでしょ」
と、業務用バターを渡された。
さらに、意味不明である。
ぼろぼろの顔を修復させながら恭太郎は、混乱する由紀子に説明してくれた。
「再生には異常なくらいカロリーを消費するんだ。だから、手っ取り早く油脂をとるのが基本になってる」
と、大きな板チョコをくれる。お菓子作り用だろうか。グラム数を見てみると三百グラム、カロリーで千七百と書いてある。
「これなら食べられます」
素直に受け取る由紀子を見て、ショックを受けた顔をするのは山田姉と兄である。悪いが、オリーブオイルの一気飲みもバターの丸かじりも遠慮したい。
勝ち誇った顔をする恭太郎を、山田姉はハイヒールで踏みつける。
痛そうな顔をしているところを見ると、痛覚はちゃんと残っているらしい。
周りをよく見ると、周りは警官だらけで人払いをされていた。
救急車のサイレンの音が鳴り響いている。
(あの女の人、無事なのかな?)
由紀子の表情を読み取ってか、
「無事よ。流産もないみたい」
山田姉が教えてくれる。
由紀子は、大きく息を吐いて、身体の力が抜けるのを感じた。
貰ったチョコレートを食べる。甘くていつもよりおいしく感じる。
(そういえば)
由紀子はチョコレートを食べ終わると、もう一度あたりを見回す。
「山田くんが見えないようですけど」
由紀子の質問に、山田姉は優しげに微笑む。
「あの子もちょっと疲れたみたい。先に帰っちゃったの」
なんだか、由紀子はその物言いが歯になにか挟まったように感じた。
「代わりのこいつが不死男の分まで土下座するから」
と、ハイヒールで恭太郎の頭をぐりぐりする。黒い水着みたいな服を着たらよく似合いそうだ。軍帽と鞭も忘れてはいけない。
「ずみまぜん。なげでじまいまじだ」
「気にしないでください」
地面に顔面をこすりつけられて苦しそうな恭太郎に由紀子はそう答える。
別に投げられたことを気にしていないし、そのおかげであの女性が助かったと思えばむしろ礼が言いたくなる。
「こちらこそ、ありがとうございます」
由紀子の礼に、恭太郎は驚きの顔を見せる。
「なんで礼をいうんだ?」
「自己満足に付き合っていただいたので」
由紀子の本心である。
きっと助かったあの女は、由紀子たちのことをおせっかいだと思うだろう。死にたい人間を無理やり助けたのだから。
由紀子があの女性を助けようと思ったのは、山田の言葉を聞いたからだけじゃない。ただ、自分のそばで死なれると気持ちが悪いからだ。
自殺でもなんでもするのは勝手だけど、自分の前でやらないでいただきたい。
誰がその始末をする、それをわかってもらいたい。
人間が死ぬということは、気持ち悪いことなのだ。
由紀子が山田少年をなんだかんだで気づかっているのもその点にある。
よみがえるからって死なないでくれ、気持ち悪いから。
ただ、それだけ。
(今回は自分が死んじゃったけど)
由紀子は一日の摂取カロリーに十分な量のチョコを食べたが、まだ足りないらしい。せっかく食べたバイキングのカロリーはすべて再生に利用されたらしい。
「あの、まだチョコってないですか?」
由紀子の言葉に、恭太郎はもう一枚板チョコを出す。それにしても、山田少年といいどこから物を出すのか不思議である。
「由紀子ちゃん、とりあえず帰ろうか」
「はい」
由紀子は板チョコにかぶりつくと、山田姉の車に向かった。
〇●〇
恭太郎は顔についた埃を払うと、目線をホテルのラウンジに向ける。そこから、左袖がぼろぼろになった服を着た美少女がやってくる。
呆れた趣味だ、と恭太郎は思う。
「……もう帰ったよ、フジオ」
少女こと、フジオはにこりと笑い、恭太郎の前に立つ。その眼は、ネコ科動物のようだった。
「兄貴、で、いいんだよな?」
「そうだよ」
美しい少女の姿をしながら、その声は成人男性のものであった。まだ細いはずの喉が、クルミが詰まったかのように飛び出ている。そこだけ、作り変えているのだろう。
「久しぶりだな。十年ぶりくらいかな」
と、フジオは己の身体を観察する。女物の服を着ていることに苦笑しながら、弟たる恭太郎を見る。
「まだ、あれから私の肉は戻ってないようだね」
「探しては、いる。親父もおふくろも基本目立つから、気が付かないわけないんだけど」
「仕方ないさ。と、いうことは、父上も母上も変わりないようで」
「兄貴と同じまだらボケやってるよ」
ごくたまに、父母は、いまのフジオと同じように、昔と変わらぬ行動、言動をとる。なにが切っ掛けがはっきりしないが、アヒムの予想だと、フジオの成長と関わっているのだという。
いや、成長というのはおかしな表現だろう。フジオの身体が大きくなるとき、それはすなわち奪いさられた肉が元に戻ることを示しているのだから。
兄弟の長子でありながら、末子として扱われるのは、縮んだ肉体に合わせて精神も巻き戻っているからだ。
幼き姿の兄は、縁石に座り、深いため息をつく。
おそらく、由紀子という少女のことを思い出したのだろう。
「別に本人は気にしてないようだけど」
「そういう問題じゃない」
フジオは不可抗力とはいえ、由紀子を殺してしまったことに罪悪感を抱いている。自分が何をされようと笑ってすませる性格なのに、他人に害をくわえた場合、すこぶる落ち込んでしまう。
損な性格をしている。
そして、この性格は生まれつきらしく、いつもの不死男でも、今の富士雄でも同じように落ち込んでしまう。
「あとで自戒のために、拷問してくれ」
「俺の領分じゃないので、姉ちゃんに頼んでくれ」
「じゃあ、テレジア法の拷問マニュアルで頼むと伝えてくれ」
フジオはそういうと、目を瞑る。次に目蓋を開けると、獣のような目は、リスを思わせる瞳に変わっていた。
「兄さん、お腹すいた」
富士雄は去り、不死男が戻ってきた。
恭太郎は板チョコをだそうとしたが、すでに由紀子にあげてしまってもうない。仕方ないので、近くにあったオリーブオイルとバターを渡す。
オイルを一気飲みし、バターを丸かじりする姿に、恭太郎はげんなりした。
〇●〇
「ふふふ、へへへ」
家に帰るなり、由紀子は廊下に置いてある姿見の前に立つ。くくった髪の根本に、赤いシュシュをつける。
死んだことよりも、新しい服に喜んでいる自分がいる。我ながら現金だと、由紀子は思う。
ふわりと、スカートをひるがえして鏡の前でにっこり笑う。
「まじ、きめえ」
鏡の端っこに呆れた顔をした、兄が映っていた。
由紀子はもう一度、死にたくなった。