76 そんな二つ名はいりません
(クマがでなくてよかった)
そのように真剣に思う由紀子は、半分残しておいたチョコレートを食べる。顔がぼこぼこになった山田少年は、床に転がりながら物欲しそうに見ているが、これ以上やる気はさらさらない。
小屋の隙間から光がもれている。日はだいぶ高くなっていた。
(けっこうお腹がすいても寝れるもんなんだな)
なんだか息苦しくて目が覚めたときに、由紀子が何を見たかは深く突っ込まないでほしい。
とりあえず、起きてすぐしたことは、たこ殴りだったと言っておこう。
(油断も隙もありゃあしない)
山田少年の弁明によると、
「うさちゃんのぬいぐるみと間違えた」
とのこと。
まあ、そういうことである。
(たしかに私からしたんだけど)
ぬいぐるみのクマを抱っこする女の子はいてもいいが、ぬいぐるみのウサギを抱っこする男の子はおかしいと言ったら男女差別になるだろうか。いやなるまい。ちょっと理不尽なことだと思いつつ、そう言い聞かせる。
由紀子は壁にかけたジャケットを着る。襤褸切れのような毛布はたたんで元の位置に戻しておく。
「山田くん、これからどうする?」
山田はすでに回復しているらしく、起き上がって何かをしていた。
由紀子が山田のほうを向くとそこには信じられない光景があった。
「ああ、うん。大丈夫。おなかすいたから、ご飯用意しておいてね」
山田は由紀子以外の誰かと話している。
「山田くん、なにしてるの?」
なにといっても一目瞭然だ。山田は携帯で通話していた。
「姉さんに電話だけど。先生の連絡先知らないし」
にこにこと当たり前のように言う山田。ぱちんと携帯電話を閉じる。
由紀子はふつふつとわいてくる怒りを山田のほっぺにぶつける。山田は引きちぎれんばかりに頬をのばされながらも楽しそうだった。
「なんでもっと早く連絡しないの!」
「ふぁっへ、ゆひひゃんもおなひやひゅもっへるへひょ」
「由紀ちゃんも同じやつ持ってるでしょ」と言いたいらしい。由紀子が圏外だと言ったから、そのまま調べもせず鵜呑みにしたという。
不明瞭な山田の言葉を解読しながら、由紀子は脱力で床に座り込んだ。
山田の持っている携帯は以前、山田姉より渡されたものと同じだった。勿論、携帯会社も同じである。
携帯会社によって通信可能地域はかわってくる。
(うかつだあ)
由紀子はへたりこんで頭を抱えた。
こうして、由紀子たちは迎えがくる時間に近づくと、小屋の外へ出ることにした。
何はともあれ、無事である。無事なのだ。
正直、スキーコースを制御不能に滑り降り、林の木々にぶち当たりながら雪だるまになり、崖から落ちて気絶して、その後、寒さと空腹に苦しんだこと以外たいしたことはなかった。
斧で全身を切られたり、指を食べられたり、散弾銃でぶっ放されたり、飛行機が墜落したり、その後、何日もサバイバル生活をしたことに比べたらたった半日程度の遭難など可愛いものだ。
(むしろ物足りないくらいかも)
などと、つまらないことを考えたのが悪かったのかもしれない。
立てつけの悪い扉を開けると、そこにはよだれをたらした黒い獣がのっそりと歩いていた。
ぬいぐるみのそれとは違う獰猛な生き物である。
「ねえ、雪山と言えば」
山田少年が言った。
「うん、くまだよね」
今更、冬眠はどうしたなどというツッコミはやめおこう。
そんな自然の摂理など、乙種一級フラグ建築士にとっては無意味なものだろう。
「えっと、山田くん。それどうするの?」
由紀子がたずねたものは、ラグ代わりに使ったクマの毛皮だった。山田少年はちゃっかり持ってきていた。
「戦利品」
山田がきらりと目を輝かせる。どうやっているのか、あれだけ嵩のあるものを上着の内側に入れていく。鞄だけでなく、ポケットも異空間に通じているらしい。
(ちゃんと、逃がしたもん)
キャッチアンドリリースである。
由紀子は、多少過激なスキンシップによる平和的意志疎通によって、クマを説得した。本来、山田の役目だと思うが、彼は傍観者に徹したため由紀子がやる羽目になった。
どうでもいいが、昔とった杵柄というものだろうか。
(トラの絞めかた覚えておいてよかった)
嫌な応用だ。
山田はクマが気に入ったらしく「家族にする」と言って聞かなかったが、
「ポチとハチがいるでしょ。我慢しなさい」
と、まあ、そんなことを言って諦めてもらった。どこの母親だろうか。
(山田母なら受け入れそうだけど)
そういうわけで、代わりにあの毛皮を持ってきたようだが。
「いや、駄目だって」
普通に窃盗である。
まあ、それほど大事なものでもないから、あんな掘立小屋に置きっぱなしだったのかもしれないが。
由紀子はそう言ったものの今更元の場所に戻す気はおこらなかった。
現在、ぬくぬくの暖房が効いた車内に、カロリーたっぷりオリーブオイルたっぷりの食事が並んでいる。このためにわざわざキャンピングカーを用意したらしい。
食事の系統を見れば、誰が迎えに来たのかはわかるだろう。
「いつものことながら申し訳ありません」
運転席から山田兄の謝罪の声が聞こえる。こちらから見えないが、いつも通り丁寧なお辞儀をしていることだろう。
「いえ。もういいです」
由紀子はそんなことよりもカロリー摂取のほうが大切なので口いっぱいにピザを頬張る。まだ温かいピザは、キャンピングカー備え付けのレンジで温められたものだろう。
(あー、美味しい)
泣きながら食べるピザはしょっぱい味がする。パスタもしょっぱい、それでも美味しかった。
「とりあえず、一度ペンションに戻りますがいいですか?」
由紀子はもぐもぐと口を動かしながら、「ふぁい」と返事する。
食欲に負けて安易に返事をしてしまったが、後悔するのは後ほどの事である。
戻ってきた由紀子たちを迎えたのは、先生と仲の良い友だちの心配する声と、ぶつかってきた男子生徒の謝罪と、その他大勢の好奇な目線だった。
よくよく考えなくとも、相手が山田とはいえ男女二人で遭難となればあれやこれや噂されてしまうのも無理はないのかもしれない。これくらいの年ごろならそれは当たり前だろう。
(かなり嫌すぎる)
由紀子がおどおどする中、それを振り払うのはかな美の役目だったが、正直火に油を注いでいるようにしかならない。
由紀子は基本純情娘である、何があろうと純な乙女なのである。ここ最近妙なことに慣れつつあったがそこは変わっていないと言っておく。
そんな由紀子がこうして学年中の好奇の目にさらされているとなると、本当に憤死するレベルなのだ。
かな美のガードが固いためか、好奇心旺盛な野次馬どもは山田少年に群がる。
山田少年は、いつもどおりにこにこしながら律儀に答えていた。
「由紀ちゃんはすごいんだよ」
(何がすごいんだよ!)
頬を赤らめる山田に周りの観客がどよめく。
由紀子は口をぱくぱくさせて何も言葉を発することはできないし、かな美にいたってはふるふると全身を震わせて憤怒の表情になっている。
「ど、どこがすごいんだ?」
好奇心旺盛な男子生徒Aが聞いた。
「それはね」
山田はごそごそと上着の中に手をつっこむ。物理法則を無視してでてきたのは、先ほど勝手にお持ち帰りしたクマの毛皮だった。
「戦利品ー」
なぜだろう、発音がどこか聞いたことのある気がする。どこへしまっていたのかわからない毛皮を内ポケットからなんなく取り出すさまを見て、何か既視感を覚えるがそれ以上は言わないでおこう。
「なんだよ、それ?」
男子生徒Bがたずねる。
「クマを倒したんだよ、すごいんだ。由紀ちゃん」
(やーめーてー!)
どよめきが違う色にかわる。
「うまい具合にこう締め上げるんだ。由紀ちゃんは頸動脈を狙って脳への血流をうまくとめて、落とすんだよ。あれはもう職人技だね」
あることないことあることあることを山田は言う。
周りは、わけがわからない顔をしている。
由紀子は思わず、弁解しようと思ったが、あまりに突拍子もない山田少年の言葉を誰も信じない様子を見てほっとする。
由紀子は多少馬鹿力なのは、山田をはっ倒す際にクラスのみんなに知られているが、それでも普通の女の子でとおっている。
さすがにクマはないだろう。
誰が本気にするだろうか。
「おい、山田。いくらなんでもその嘘はねえだろ。他になにかあったんじゃないのか?」
「嘘じゃないよ」
山田少年は真剣な顔で野次馬を見る。
(もしかして)
山田なりに由紀子が嫌がる話題を避けようとしているのではなかろうか、と由紀子は思った。
だから違う話題で話をはぐらかそうとしているのでは、と。
(クマ話もそれはそれで嫌なんですけど)
由紀子はため息をつく。
「じゃあこれなら信じる?」
にやにやする男子たちに、山田は携帯電話を取り出す。
「はい、証拠」
そこには、由紀子がクマを絞め落とす動画が入っていた。何気に高画質モードである。
あの野郎は、何もしないどころか、暇つぶしに携帯をいじっていたらしい。
(やーめーろー)
由紀子の心の叫びはむなしく、『ベアキラー由紀子』の二つ名がつくのだった。
「山田くんだけならともかく、日高さんがどうかなったらって思うと気が気じゃなかったわ」
先生は由紀子の隣でそんなことを言った。
帰りのバスも最後尾の席に座ろうと思った由紀子であったが、先生が山田と由紀子を前の座席に座らせたのだ。
監視目的だろう。
山田兄が送って帰るみたいなことを言っていたが、急に仕事の電話が入ったので一人で帰って行った。
(普通はそんなことはないんだろうけど)
正統派眼鏡男子がすぐ帰ったことで、女生徒の何人かは落胆していた。昨日は山田のスノボにきゃーきゃー叫んでいた子たちだったので、かな美が不機嫌そうに舌打ちしたのは言うまでもない。
「山田くんならともかく、由紀子ちゃんは比較的普通の子だし」
『比較的』という言葉は気になるが、不死者ということは秘密なので、そりゃあもう心配しただろう。
実際、一回くらい死んでる怪我をしていた。
それにしても、山田をまったく心配しないのは担任としていいのだろうか。
『山田くんはともかく』を二回も言っているし。
先生の中では、山田が氷漬けになろうが、ミイラになろうがよみがえるとでも思っているのだろうか。
「そうですね。氷漬けになってもお湯をかけたら戻りそうですしね」
「そうなの、カップメンみたいに」
(カップメンとか言っちゃってるし)
そのうち安易な言葉で保護者たちにつっこまれないか心配である。
由紀子はぽりぽりとチョコ菓子を食べながら思う。
今更、おやつがどうのいうような真似は先生もしないらしい。
おかげで山田は、どこが名物なのかもわからない人形焼なり、クッキーなりを食べていた。土産物屋で買っていた。
こうしてお腹も膨れ、疲れが今頃どっとやってきた由紀子は、帰りのバスの中眠るだけで終わった。
「由紀子ちゃん、起きて」
肩をゆすられて目を覚ますと、外は見慣れた校庭だった。
「あっ、かな美ちゃん。ついたんだ」
「うん。疲れてるようだけど、降りてね」
バスの中には由紀子とかな美の二人以外は、運転手さんしか残っていない。
山田はすでに織部に連れて行かれて外に出ている。
由紀子は寝ぼけ眼をこすりながら、上の荷台から鞄をとる。ぼんやりしていたので、うまくとれず中身をぶちまけてしまった。
かな美は寝ぼけた由紀子の代わりにしゃきしゃきとこぼれた荷物を拾う。
「かな美ちゃん、ごめん」
由紀子も拾うが、寝ぼけているのとカードケースをばらまけてしまったため床に張り付いてうまく取れない。
ポイントカードや会員証は、使わなくてもつい作ってしまうものだから困る。
荷物を受け取り、とりあえず鞄に詰め込んでいると、かな美の動きが止まった。
かな美は、一枚のカード、いや名刺を見ていた。
「かな美ちゃん?」
「あっ、ごめん、由紀ちゃん。はい」
かな美からうけとった名刺には『佐伯博一』と書かれてある。
顔写真のついたそれは、肩書に『フリージャーナリスト』とあるはずだ。
以前、夢魔に会ったとき、父の顔をあんまり覚えていないことに気が付いた由紀子は父の写真を探した。家ではカメラマンに徹していたのだろうか、アルバムには父の写真はほとんどなく、一番まともだったのはこれだったのだ。
由紀子はかな美から名刺を受け取るとカードケースの一番後ろにしまう。
「かな美ちゃん?」
由紀子はもう一度、友だちの名前を呼んだ。
「あっ、な、なに?」
かな美がぼんやりしているなんて珍しい、バスの中で寝ていたのだろうか。
(そういえば)
知らない大人の名刺、しかも男のものを持っていたら、かな美はとにかく噛みつきそうなものなのに、ずいぶん大人しかった。
名字が違うので、まず由紀子の父だとは思わないはずなのに。
(お父さんの話、かな美ちゃんにしたことあったっけ?)
由紀子は首の裏をかきながら、バスのステップを降りた。