小話 古い記憶
拍手で書いていた小話です。
とばしても本編には支障ありません。
とうとうこの時が来たか。
クシナダは思った。
クシナダが生まれたのは、十五年前。洪水による被害で村の三分の一が流された翌年である。
この村には、代々クシナダという娘がいる。
今のクシナダの前の娘は、川の周りに作られた土塀に埋められた。
クシナダ、それはオロチすなわち水の氾濫を防ぐために生まれた生贄の娘である。
前のクシナダは、たった五つであった。
今のクシナダは、十六歳。ずいぶん、長い間洪水が起こらなかったという証拠である。
適齢になっても嫁に行かないのは、神への供物だからだ。
そして、今年。
雨雲が空を覆い、雨がもう幾日も降り続いている。洪水だけでなく、このままでは畑の作物まで根腐れをおこしてしまう。
クシナダの神への嫁入りは明日となった。
禊を行い、丁寧におられた絹の衣をまとい、唇に紅をさす。
小さな子どもは、楽しそうにクシナダに手を振っている。大人たちから「嫁に行く」とでも伝えられているのだろう。
そうだ、神に嫁に行くのだから。
神など本当にいるのだろうか。
供物として育てられながら、クシナダはずっとそのように思っていた。
本当に神がいるのなら。
そっと絹の衣の合わせを押さえる。固いものが手に当たる。
もし、神がいるのなら、いたらいい。
クシナダはそう思った。
氾濫した川のほとりにその男はいた。
黒髪の長身の男。村の男たちよりずいぶん背が高い。
どこのものだろう。
こんな場所にいるのは、その男と神への供物となった娘くらいしかいない。
クシナダは、じっとその男を見る。
男は、ようやくクシナダのことに気が付いたらしい。ゆっくりと振り返る。
クシナダは驚愕した。ヒトと思えぬ目をした美しい男であった。目鼻立ちや輪郭が、どれも村の男たちよりはっきりしていて、切れ長の目は、蜜に赤みが混じった色をしていた。
鬼灯の目、ふとその言葉が頭によぎる。
おろちの化身。
クシナダはそう確信した。
クシナダはゆっくりと男に近づき、目の前で足元に膝まづいた。
「オロチさまに嫁すために参りました」
クシナダは頭を下げ、胸の合わせを押さえる。
「どうぞお好きなようになさってください」
手のひらに冷たいものが当たる。
いくらでも好きにするといい。
自分はそのように育てられてきたのだから。
ただ、これを最後にしてもらいたい。
もうあの村にクシナダはいらない。
自分が最後のクシナダである。
もしオロチが自分で満足しなければ。
クシナダは微笑みながら、顔を上げる。
氷のような美貌と視線が合う。
クシナダの手の中には、冷たい水晶の刃が眠っていた。
〇●〇
「パパ、ごめんなさーい」
若々しい母は、今日も父を流血させていた。父の眉間に刺さった包丁がぶらんと揺れる。
オリガはバター茶を飲みながら、やれやれと首の裏をかく。
たまに、母はわざとやっているのではと思わなくもない。
潜在的な殺意がこうして表にでているのでは、と思ったりする。
「ママはおっちょこちょいだなあ。昔から刃物を振り回してさあ」
「うふふ、やだ。昔のことじゃない」
と、母は眉間から引き抜いた包丁を持った手で、父の背中をばしばしと叩く。血しぶきがとびちるので、オリガは三歩分椅子をずらす。
昔から、ですか。
人格は変われど、昔の記憶を完全に失ったわけではない。こうして古い思い出話をすることもある。
少なくともオリガの物心ついた時代には、そんなことはなかった気がするが。
一体、どんななれ初めだったのか。
今の二人に聞いたら、ひたすらのろけられそうなので真実かどうかわからない。
だから聞くだけ無駄である。
オリガは飲み干したカップを流しに置くと、仕事にでかけることにした。