67 ひたすらマグロの話
朝市から祖父と山田父が帰ってきた。
山田父の頭にはマグロが刺さったままだった。マグロの顔の向きが反対なら、マグロ人間ができあがっていたところだろう。まったくシュールな光景である。
「父さん、どうしたの?」
生臭い匂いをまき散らしながら、山田父が身振り手振りで何かを伝えようとするがまったくわからない。マグロのせいで何もしゃべれないらしい。
「これがまたとれなくてな。力を入れ過ぎると首が回転しちまうんだよ」
祖父が笑いながら言うが、笑いごとではない。
それは、山田父でなければ死んでいるところだろう。首がねじ切れそうなので、そのままマグロの頭ごと帰ってきたという。
(軽トラの助手席にマグロ人間)
異様な光景である。
対向車線の車が、気をとられて事故を起こしてなければよいが。
山田少年がマグロを取ろうとするが、どう見ても、山田父の首が三百六十度回っているようにしか見えないため、ストップをかけた。こんなところでねじ切られた生首など見たくない。
祖父が笑いつつ困った顔で首の裏をかいて、山田少年にビニール袋を渡す。
「解体業者がお詫びだとね」
中には、おいしそうなお刺身がたくさん入っていた。赤身に中トロ、大トロ、わさび醤油でおいしくいただきたい。
「医療費もふんだくれたんだがね」
山田父が首を横に振るので断ったのだろう。祖父は少し残念そうである。まあ、山田一家はお金には困っていないし、医療費なんて必要ないので別にいいのだろう。
とりあえず山田父をどうするかだが、こういうことは山田家に任せておいたほうが良いと由紀子は思う。
祖父が山田父を連れて山田家に戻るようなので山田少年と由紀子もついていくことにした。
「あらあら、大変」
ふわふわと背景にシャボン玉をとばしていそうな山田母が緊張感のない顔で言った。ご丁寧に両手を口元に当てている。
ニートもとい恭太郎がやってくると、自分の父親である謎の生命体を見て思い切り噴出して笑い出した。かなりツボに入ったらしく、山田家の大理石玄関で転げまわり、やってきた山田姉にみぞおちを蹴られるまで、転がっていた。
恭太郎は黙っていればやはり山田家の一員らしく美形なのだが、いうまでもなく残念な美形である。
「これまた、変なものついてるわね」
山田姉も一応大掃除の途中らしくあまり似合わないふりふりのエプロンをつけていた。だが、きれいにそろったネイルを見る限りあまり作業効率はよくないだろう。
「はやく取らないと、パパつらいかしら」
山田母の言葉に由紀子たちは、山田父に注目する。よく見ると、首から下が青くなっている気がしないでもない。
「チアノーゼ起こしてますね」
シャツを腕まくりした山田兄がやってくる。山田母以外でまともに掃除ができそうな人物である。
「あらら、パパ苦しい?」
山田父は、ぷるぷる震えながら首を縦に振る。
「大変だわ」
全然大変そうに見えない山田母は、ぱたぱたと家の中に戻って行った。
そういえば、山田父がマグロの頭にはまってからかれこれ二時間近くたっている気がする。
それを伝えると、
「さすがですね、父さん。皮膚呼吸でがんばってるんですね」
と、なにか違う反応をする山田兄。
山田父も褒められたことで照れた様子でマグロ頭をぽりぽりしている。
(そんな場合か!)
「じゃあ、由紀子。じいちゃん先に帰ってるから」
面倒事を押し付けた、と祖父が軽トラに乗り込む。
「あっ、すみません。あとで録画した映像見せてください」
山田兄がこれまたのん気なことを言う。
「もうお昼だね、由紀ちゃんお刺身、母さんに切ってもらって食べようよ」
山田少年などこの有様である。
由紀子はぴくぴくと水面に浮かんだ金魚のようになった山田父と、山田少年の持っているお刺身を交互に見る。
そんなことをしているうちに、家から山田母が戻ってきた。
「みんなー、どいてー」
山田母がそのふわふわした雰囲気に似合わないくらい機敏な動きでやってくる。その手には巨大な包丁があった。
まあ、ここまでくれば最後までいう必要はないだろう。
マグロの頭は山田父の首から離れた。違う頭も首から離れた。
飛び散る血しぶき、転がるマグロ。
(おじいちゃん、帰っててよかったなあ)
まるで戦国の武将のごとく猛々しく首級を上げる山田母。そのマグロからごとりとなにかが転げ落ちる。
大変生き生きとした山田母と、その隣で呆れた顔をする山田兄弟、山田少年はよだれをたらしながらマグロの切り身をじっと見ている。
首から上がなくなった山田父の身体は地面をぱたぱた叩き、己の頭を探している。
まことに不可思議な光景なり。
(まあ、一番手っ取り早いんですけどね)
それでも由紀子は違う方法を取ってほしかったなあ、と返り血を浴びながら思うのであった。
「パパったらおドジさんなんだから」
「ふふ、ママ、助かったよ」
頭がくっついた山田父と山田母が仲睦まじくいちゃついている。よく首級をあげてくれたものと仲良くできるなあ、と由紀子は思う。
「お魚臭くなった」
「大丈夫よ、臭みを消す方法はいくらでもあるわ」
と、山田母の持つのはショウガだった。由紀子の記憶が正しければ、たしかに臭みは消えるが、それは意味が違った気がする。
そのまま台所の奥へと消えていく様子を見て、由紀子は、
(生姜焼きでも作るのかなあ)
などと思った。
「白いご飯が欲しいなあ」
山田少年はマグロを醤油に付けて食べる。見た目は成長しても味覚はお子様のままで、わさびは一切つけていない。
由紀子もご相伴にあずかり、柚子塩につけて食べる。刺身はわさび醤油一択と思っていたが、これもまたけっこういける。
結局、山田家の大掃除は中断となり、お昼ついでにみんなでマグロをいただくことになった。
「うちはパン派なので、これで我慢してください」
山田兄がレンジで温めたレトルトのご飯を持ってくる。
それとともに、平たい丸皿を持ってきた。
「これもどうぞ、和風だけでは飽きますから」
マグロの切り身が皿に丁寧に並べられ、オリーブオイルに浸かっている。岩塩が上からかけられ、香草と水でさらしたタマネギが添えられていた。
「なんですか? これ」
マリネっぽいけど少し違う。オリーブオイルを使っているが大変まともなできの料理である。
「カルパッチョです。岩塩が足りなければ足してください。本当なら鯛あたりがいいんですけど」
と、ピンク色の可愛い塩が入った瓶を置く。
山田兄がじっと見る中で食べるのは気を使うが由紀子は箸を伸ばす。岩塩とオリーブオイルだけの味付けかと思いきや、ニンニクの匂いがして食欲をそそられた。
「おいしい」
油と塩とニンニクだけでこれだけ美味しいんだな、と素直に思った。
その様子を見て、山田兄は両手を拳にしてぎゅっとガッツポーズを決めている。あまり見られない光景である。
由紀子がぱくぱくカルパッチョをつついていると、
「由紀ちゃん、ちょうだい」
山田少年がいきなり皿をとって、全部食べてしまった。
山田兄がいぶかしんだ顔で少年を見る。
「……不死男、カルパッチョはあんまり好きじゃなかったのでは?」
「そんなこと言ったかな?」
山田少年は再び刺身に手を伸ばす。
由紀子はなにも手をつけない恭太郎の方を見る。山田姉は、バター焼きにして食べているし、山田母はヅケにすると漬け込んでいるが、恭太郎だけは何も手をつけていない。
「食べないんですか?」
一応社交辞令に聞いておく。よその子の由紀子がパクパク食べていると体裁が悪いという点もある。
「魚、好きじゃない」
(それは勿体ない)
いい年齢して好き嫌いである、困ったものだ。
山田兄が呆れた顔をする。
「おまえはなあ、これだから戦後生まれは」
大変ジジ臭い言葉が、二十代なかばにしか見えない山田兄からもれる。
(うちのおじいちゃんたちも一応戦後生まれなんだけどなあ)
よく考えると恭太郎と由紀子の祖父母は同年代だ。なんだかおかしな話である。
「あら? アヒムも戦後生まれでしょ?」
山田姉が首を傾げながら言った。
「姉さん、僕は十九世紀生まれですよ」
戦前です、と言うと、
「ああ。なんだ、世界大戦のことね。関ヶ原じゃないんだ」
(いや、違うし。絶対違うし)
山田姉よ、一体いくつなんだ。
由紀子が心でツッコミを入れていると、
「あら? 戦は源平のことでしょ?」
山田母がキッチンから顔を半分見せて、さらに古いことを言ってくる。その両手は真っ赤な血で染まっている。今まさに下ごしらえをしている最中なのだろう。
(歴史の勉強になるなあ)
由紀子はそんなことを思いつつ、刺身に手を伸ばす。レトルトのご飯だが悪くない。
マグロのカマもうまいのだが、山田父が長時間かぶっていたものなので、なんとなく調理しないでほしかったが、お皿に並んでいる。
食材を無駄にしないエコな山田家である。
由紀子は刺身を食べ終わったあと、いかにスマートに山田家から去るか考える。このままでは、なんとなくとても素敵なお肉を材料にした生姜焼きを振舞われそうな気がしたからだ。
いくら美味しくても食べたくないものはあるのである。