63 サービス業は奉仕の心で
目が覚めると、時計の針は八時を過ぎていた。
由紀子は妙な体勢で寝ていたため、身体がへんな感じがした。背伸びをして、身体をねじり、全身をほぐす。
山田姉もまた、だるそうな顔をして目を覚ました。
「うかつだったわ。忘れていたなんて」
と、山田姉は軟膏をとりだす。
「夢魔の匂いにあてられちゃうなんて。失敗したわ」
山田姉の言葉から、由紀子の見たものはやはり夢であって夢でないものだったのだろう。軟膏はおそらく鼻の周りに塗って嗅覚を麻痺させるものだろうか。
「ごめんね。遅くなっちゃって」
由紀子はそうだ、と気が付いた。
「あの、山田くんは?」
由紀子は恐る恐る聞くと、二階から、歓声とも叫び声ともつかない声がした。
山田姉はそれを聞き、驚いてキッチンを出て行った。
(目が覚めたのかな)
由紀子はそんなことを思いながら、洗い物の続きを始める。すし桶をきれいに拭き、重ねてその上に重箱をのせる。
山田父や山田母の嬉しそうな声、山田姉の少し涙ぐんだ声が由紀子のするどい聴力ならば聞き取れる。
家族水入らずのところを邪魔するのは悪いので、静かに玄関のドアを開けて家路につくことにした。
ほんの少し、山田の事を気にかけながらも、今会ってしまうのはどうしても気まずかった。
うまくしらばっくれる自信はなく、だからとて全部受け止められるほど、由紀子の器量は大きくない。
(バイトも終わりかな)
財布は大変潤った。
由紀子はたんまり稼いだからもう十分だ、と諦めることにした。
(ここらへんのはずなんだけど)
由紀子は、可愛らしい桜色の名刺を見る。そこには、可愛らしい丸文字フォントとネコのイラストが描かれていた。『いちひめ』とひらがなで書かれてある。
人魚のおばあさまこと、一姫から名刺をずいぶん前にもらっていた。相手も社交辞令のつもりでまさか来るとは思っていないようだったけれど。
(バイト先って言ってたけど)
すでにやめたりしていないだろうか、と由紀子は不安になる。
裏面に印刷された住所を見る。この付近のビル三階にある飲食店らしい。
「こ、ここ?」
由紀子はちょっと想像とは違う看板と、呼び込みのおねえさんのティッシュ配りを見てのけぞる。
もらったティッシュには、少女マンガとはまた違った目の大きな女の子が白と黒のエプロンドレスを着た姿で描かれている。もちろん、呼び込みのおねえさんも同じ恰好である。
(メ、メイドだよね?)
由紀子は若干引いた目をする。正直、漫画自体あまり読まないし、ゲームも兄がしているのをたまに見ているだけ、アニメは国民的ホームコメディを休日の終わりを感じながら見るくらいである。
正直言って、由紀子にはその手の免疫はない。たしかにフリルは好きだが、山田母や山田姉の服の趣味で首を傾げてしまう感性の持ち主である。
(む、無理だ)
女子中学生一人で入れる場所ではない。しかも、ビルの三階にある。わざわざ階段なりエレベーターなりでのぼっていくのは、一見さんには大変高度なことではないだろうか。
由紀子が唇を噛みながら、入るか、入るまいか決心をつけかねていると、
「なんだ? 久しぶりだの」
聞き覚えのある落ち着いた声がする。
「ようやく、バイト先に遊びに来てくれたか。待ちくたびれたぞ」
一姫はあいかわらず若々しくも、びりびりのショートパンツにニーソックスをはいていた。とても成人した孫がいるようには思えない。
「あ、あの」
由紀子は、しどろもどろになった。言いたいことがあっても、うまく口に出せない
一姫はそんなこと気にした様子もなく、由紀子の手首をつかみ、
「よし、行くぞ!」
乗り気な一姫である。
「ちょ、ちょっと」
由紀子はぐいぐいと押し切られるまま、雑居ビルに入って行った。
(あれ?)
由紀子はテレビでしか見たことのない未知の喫茶店に入った。
客席に座らされると思ったが、なぜだか裏方に連れてこられる。
「メイド長、いかがですか?」
と、一姫が話しかけるのは、他のメイドたちに比べると少々平均年齢をあげているような女性だった。紺色のロングドレスを纏い、片眼鏡をかけている。髪はきつく結い上げられ、由紀子をまじまじと見ている。
(おう、リアルだ)
いかにもしつけに厳しそうな世界の名作からでてきたかのような女性だった。実写化するなら、彼女しかいないという雰囲気である。
「あなた、就労経験はありますか?」
(いや、そんなこと言われても)
家の手伝いの延長ならあるが、バイト経験はない。山田家の手伝いはバイトには含まれない。
首を横に振る。
「じゃあ、とりあえず皿洗いからはじめましょう」
そう言って、メイド長はロッカーからMサイズのエプロンドレスを渡された。
意味がわからない。
だが、基本的に流されやすい体質の由紀子は、ありえないと思いつつ、エプロンドレスを着用したまま、皿洗いをすることにした。裏方には調理担当らしき男の人が二人いた。
「ああ、大変だね」
そういう言葉をかけられて、とりあえずこっちで洗って、と言われて流し場に向かった。
(それほど大変じゃないからいいけど)
山田家の食器に比べると大したことはない。一度に数十人分の洗い物があるわけでなく、すぐに片付いた。
(客単価が高いのかな?)
由紀子は店の立地条件と坪数、店内にいた従業員の数を考えて利益率など計算している自分に気が付く。
(いかん、いかん)
最近、祖父母が由紀子に節税の仕方や、家賃収入の計算方法を手伝わせているのでついそんなことを考えてしまう。「株もそろそろかね?」とまで言っているくらいだ。
つくづくいやな中学生である。
終わると、次は店の外に備え付けてあるごみ箱に捨ててこいとごみ袋を渡され、倉庫が散らかっているからと掃除をさせられた。
(初日の山田家に比べたら)
大したことはない仕事である。血糊のべったりついた廊下を拭き掃除することも、血糊にまみれたお風呂掃除することも、血糊でまみれた衣服を先に手もみ洗いすることもないのだから。
そんなことをやっているうちに、一姫のバイトは終わったらしい。一姫とともに裏方に呼び出される。
「思ったより、しっかりしていましたね。最近の子は、この手の仕事を華やかなものだと勘違いしているのに」
どうやら、わざと裏方の雑用ばかり任せていたらしい。
「ふふ、包丁を持たせてもうまいぞ」
(ええ、クマさばけますから)
どうでもいい自慢である。
まあ、由紀子とてここまで来たらなんでこんなことをやらされていたのかは予想が付く。
「採用です」
いつのまに、採用試験になっていたらしい。
由紀子は一姫のほうをちらりと見て、ため息をつく。
「あの、私まだ中学生なんですけど」
その瞬間、メイド長の顔が強張る。
「……中学生? 今年、受験生?」
「いえ、今年の三月までランドセルでした」
由紀子は同年代よりも身長が高くしっかりしているため、大人びて見られるのである。高校生くらいなら、よく間違えられる。
「あーあ、黙っておけばいいのに」
わざとらしく舌うちをする一姫。何を考えているのだ。
「おかげで、紹介料貰い損ねたわ」
それが要因である。
「一姫さん!」
メイド長が怒っている。由紀子の想像するメイドとは少々毛色は違うかもしれないが、この手の女性に怒られたいという願望を持つひとはけっこういるかもしれない。
一姫は、仕方ない、とメイド長の方を見る。
「だって、おこづかい欲しかったんだもん」
(キャラが違うぞ!)
「かわいこぶっても駄目です」
メイド長はぴしゃりと言ってのける。
(ええ、孫もちのおばあ様ですから)
由紀子は、とりあえず備え付けのパイプ椅子に座り、そっと調理場のにいちゃんが持ってきてくれたジュースをいただく。ストローがくるくるしていて可愛い。
一姫は、少し吊り上り気味な目を伏せながら言葉をもらす。
「生活が苦しくて。身内も、ようやく医者の卵になったのに、収入はスズメの涙。大学時代の奨学金を返すのに火の車なのだ。時給を増やしてくれないか?」
けっこう切実なことを言っている。
メイド長も鬼ではない、きりっとした表情の奥にどこか揺らいでいる感情が見え隠れする。だが、経営者の立場としては、ほいほいバイトの給料をあげるわけにはいかないだろう。
情を持ったヒトとして、経営者としてのはざまに揺られながら、情に負けそうな表情に傾きつつある。
すると、
「時給あげなければ、中学生を働かせたことを通報するぞ!」
「なっ!」
(!)
いきなり手のひらを返したような反応に、メイド長も由紀子も目を丸くする。
少し吊り上った眼を細め、一姫はにやりと笑う。
「最近あったよな。中学生に客引きをさせたっていう、店は」
「あ、あれはアルコールを出している店で、うちは健全な……。それに、中学生と言わずにつれてきたのは、一姫さんのほうで……」
(外道だ、外道がいる)
由紀子は、飲み干したジュースを置くと、じっとその様子を眺める。自分が原因でもめているようだが、正直何をすればいいかわからないので、下手に首を突っ込まずに黙っておく。
「ふふふ。店長は健全な店だと思っているが、世間一般はどう見ているだろうかな? メイドだあ、それだけで色眼鏡で見るのではないのか」
ふるふると店長が身体を揺らしている。
一姫はそれを見て大変楽しそうにしている。
なんというか、どこか山田姉に似た表情だった。見た目は似ていないようでも、こういうところは叔母と姪である。サディストの血というものだろうか。いやな血のつながりだ。
真綿で〆るようなじわじわとした追い詰め方で、メイド長を追いやっていく。
由紀子は、メイド長がとても可哀そうに見えたのだが、不思議と震える彼女の表情はどこか赤みを帯びていて大変色っぽい顔をしていた。どこかしら、うれしそうに見えなくもない。
(はて?)
由紀子が首を傾げていると、ジュースのグラスをとりにおにいさんがやってきた。
また、やってる、といい、由紀子に、
「ああいう大人になっちゃだめだよ」
と、教えてくれた。
ああいう大人って、どういうことだろう、と由紀子の首は傾いたままだった。
まあ、いろいろあり、ようやく一姫と一対一で話せるようになった。
一姫行きつけの安くてボリュームのあるパスタ店に来た。
由紀子は子どもらしくない思考で、「割り勘でお願いします」といったが、
「大丈夫だ、バイト代は貰っている」
と、茶封筒を見せられた。
うむ、由紀子の記憶が正しければ、それは由紀子が働いたお金だったと思うが。
とりあえず、労働のあとで腹ペコの二人は、ミートソースとボンゴレとペスカトーレとペペロンチーノ、ドリアにニョッキ、ライスコロッケとサラダを注文した。
隣の席を見てみると一皿で一人前半くらいありそうなのだが、パスタ関係は基本ワンコインである。
(この立地でこれは安いな)
由紀子の頭の腹ペコメモに、書きこんでおく。
店員が目を丸くするのは、慣れたことなので気にしない。
(さすがに今回は、誰も撮ったりしないよね)
夏休みに無断で撮影されたことは記憶に古くない。ちょっと警戒しながらも、食欲には勝てないのである。
「さてと、本題はなにかな?」
一姫はドリンクバーから炭酸を二つ持ちかえってくると由紀子に聞いた。
由紀子は、どういうべきか考えあぐねる。
下手な聞き方をすれば、勘づいてしまうかもしれない。
(いきなりお父さんのことを聞くのはやっぱり変だよね)
由紀子は、一姫の父親こと、山田長兄、すなわち現在の山田少年について聞きたかった。
休みを挟んでいてよかったと思う。いきなり、山田少年と顔を合わせられるほど由紀子の神経は太くない。
しばしの沈黙のあと、由紀子は恐る恐る言葉を紡ぎ始める。
「私の父は、私が小学校に上がる前に死んだので、実はよく父の事を覚えていないんです」
(なに、この不幸自慢)
由紀子は、言葉選びを間違ったと思った。なんか、自分に酔っているみたいでいやだ。
「だから、普通、お父さんってどういうものなのかな、って教えてもらおうと思って」
(うむ、怪しすぎる。ってか、私友だちいないと思われない?)
冷や汗をだらだらかきながら、誤魔化すようにドリンクバーを飲む。なんとなく、怪しいなあと思っていたが、コーラとコーヒーが混ざった味がした。まずくてぶふぉっと、噴出しそうになるのをナプキンで拭う。
まったく、お茶目なババアである。
だが、由紀子の怪しすぎる質問に、一姫は問い返すこともなく答えてくれるようだ。
「私の父は到底普通とはいえないが、それでもいいなら」
と、一姫は話し始める。
「まあ、母とのなれ初めは……」
想像以上にぶっとんだものだった。
「子種が欲しいと母が頼んだそうだ」
コーヒーコーラを鼻から噴出した。もう乙女としてありえない。
ちょっと前までなら、『子種』とは何か、と聞き返したところだが、友人たちのおせっかいな性教育の結果、なんとなく意味はわかっている。
「まあ、それでできたのが私だ」
と、胸を張られても。
由紀子は、もう心がぼきぼきに折れながらも、なんとか言葉を発する。
「な、なんで一姫さんのお母さんはそんなことを頼んだのですか?」
「それはな」
一姫の母は、やんごとなき家柄の姫だったという。その母親、つまり一姫の祖母が人魚であり、いわば妾であったため、ずっと隠されて生きてきたらしい。鱗の肌を持つ姫と、あらぬ噂が立たぬように。
山間の屋敷にて、軟禁生活をずっと送っていたある日、天狗を見かけたそうだ。それが父親だという。
父親はたまに現れては、一姫の母の暇を紛らわしてくれたらしい。
「まあ、そのときはもう母は還暦をこえていたが」
人魚の血はヒトよりも少しだけ長生きし、見た目も少しだけ若く見える。それでも、そろそろ子が産める限界の年齢だったらしい。
よくもまあ、血の道が止まる寸前の女を孕ませられたものだと。
「母は、私を産み、数年で死んだ。祖父が母をずっと屋敷から出さなかったのは、母の身体がそれほど強くないことを知っていたからだ。政略の道具に使うのではなく、静かに暮らさせようという、祖父なりの親心もあったのだろうし、異形の血を残したくなかったのもあろう」
そして、人魚と天狗の娘は、母親の死後、どこへなりと捨てられた。祖父も母親の腹違いの兄弟たちもとうに死に、その子たちは誰も異形の娘を育てようとは思わなかった、と。
「その後、数か月は山の中で獣のごとく暮らしたな。ヘビはけっこういけた」
淡々と昔話を語る一姫に、由紀子は絶句するしかない。
「獣として、まともに獲物がとれるようになったころ、ようやく父が迎えに来た。その後、父と暮らし始めたが、どうしようもない奴だとわかったよ」
馬鹿を通り越したお人よし。
なによりも他人を重んずるわりに、相手の真意はまったく読めない。
騙されるし、酷い目にもあう。でも、そんなことなかったかのように、また失敗する。
「私は、父の荷物にはなるまいと思ったよ」
周りが父親におぶさるばかり、自分までおぶさってたまるか、と。
(だからなのかな)
由紀子は、裕福な山田家に一姫が頼ろうとしないことに。
「そのうち人魚の集落があると聞いて、私はそこに住むことにした。父は笑いながら、見送った」
実の娘が去ることに、これといった悲壮感はなかった。父親にとって、娘が幸せになればそれでいい、いや娘であろうと赤の他人であろうと、誰もが幸せになればいいと思っている。
誰にでも優しい、でも特別はいない。
博愛主義であり、ある意味無関心。
「それが私の父親だ」
一姫が語り終わるとほぼ同時に、大皿に盛られたパスタが運ばれてきた。
「さあ、食べようか」
一姫は、フォークとスプーンをとった。
由紀子は、出遅れながらもペスカトーレに手を出した。
由紀子には、一姫の父親についてまったく理解できないと思った。
「美味だったな」
一姫と由紀子は膨れた腹を撫でる。
自分でも不思議だが、本当にあれだけの量がこの腹のなかに入っていることが不思議である。
「ええ」
由紀子は半分ぼんやりしながら答える。
由紀子は電車、一姫は徒歩の距離に住まいがある。
駅前で別れようとすると、一姫は由紀子をまじまじと見る。
「ど、どうしたんです?」
「いやな。私の話を聞いて、あまり参考にならなかったと思ってな」
「そ、そんなこと」
参考にはなった。でも、もっと理解できなくなった。それだけだ。
一姫は目を細めると、空を仰ぐ。鰯雲が空の半分を覆っている。
「不死男のことどう思う?」
「どうって言われても」
わけのわからない生き物としか思わない。
ただ、一姫の父親に比べるとずいぶん扱いやすいとだけ言っておく。
「正直、山田家の誰より不死男の扱いが上手いのは、由紀子嬢だということは言っておくよ」
それだけ伝えると、一姫は振り返りもせず手を振って家路についた。
由紀子はぽかんと口を開けたが、なんとなく気が楽になった。
この際、一姫がどういう真意でその言葉を言ったのかは気づかなかったことにする。
(山田取扱免許一級ですから)
本当にどうでもいい特技だな、と由紀子は思いながら、改札に向かった。