58 学園祭と婚約者 その四
由紀子が走って空き地に現れたとき、いわゆる最悪の状況というものであった。
そこには、一振りの刀に血をしたたらせた総一郎と、肩から血を流した山田少年がいた。
それだけでも、十分問題なのに、あろうことかそこにはもう一人招かれざる客がいた。
乱杭歯に血走った目をした異形の男、山田少年はその男をかばっていた。
由紀子には、その男の正体が何かわかっていた。
なぜ、そこにいるかなど考える暇はない。ただ、そこにいることは、由紀子にとっても驚きで、同時にこの場にとどまっていることは不幸中の幸いなのかもしれない。
本来、庇うべきでない相手をかばっている。
山田少年はそういう性質だとわかっていたが、どうしようもなく呆れてしまう。
(ばかじゃないの)
心底思う。
彼は無抵抗で、優しすぎる。優柔不断なくらい優しすぎる。時折、狂っていると思うくらいに。
総一郎の顔には困惑と怒りが混じった表情が浮いている。
彼の抜いている刀は、本来、外に持ち歩くべきものではない。どう見ても銃刀法違反だ。ただ、山田家との因縁と、そこにいる鬼、食人鬼がいることを考えれば、山田少年よりもずっと正しい行為をしているのだと、由紀子は思う。
「一体、どういうつもりだ?」
総一郎の問いかけに、山田少年は目を見開いていた。
(あれ?)
由紀子は、山田少年の目があの目にかわっていることに気づく。瞳孔の細くなった、猫のような目である。
山田少年であり少年でないような彼は、口を開く。
「もうすぐ鬼じゃなくなる。だから、見逃してはくれないか?」
山田少年らしくない言葉づかいである。
(いつものあれだ)
由紀子は確信した。
総一郎は、三白眼を細める。
「何を訳が分からないこと言うんだ? 餓鬼。そいつが何者かわかっているのか?」
よく見ると、山田少年は斬られていない腕で異形の男を押さえつけていた。男は口を大きく開けて、山田少年を食らおうとしている。
なんでそんな男をかばおうとするのか、本当にわけがわからない。
由紀子は山田少年を異形の男から引きはがそうと思ったが、なかなか足が踏み込めなかった。
よくわからないが、なんだかとても気持ちが悪く、身体が思うように動かない。その場の雰囲気というものもあるが、それとは別になにか要因があるような気がした。
「呪いが解ければ大人しくなる」
「呪いが解けたところで、その男のやった罪は消えない」
総一郎が一歩前にでる。
なんだか、濁った水のなかを歩くような、少し鈍い動きのように見えた。
「そいつがなんでこんなところにいるのかわかっているのか? 餌を求めてやってきたんだぞ」
「もう食べさせたりしない」
総一郎の言葉に山田は一歩も引く様子はない。
「ふざけるな!」
総一郎は声を荒立てて、刀を大きく振り上げる。
「糞ガキ、妙な正義感を持つのはけっこうだが、場合を考えろ。そこに害獣がいれば倒すのがヒトだ。自分を餌としか思ってないケモノを何で庇う必要がある。おまえら不死者とヒトは違う、簡単に死ぬんだぞ! 食われたらそれで終わりなんだぞ!」
彼の言うことに間違いはない。動物園からライオンが逃げ出したところで、射殺するのは可哀そうというのは、その場にいないヒトたちだけだ。たしかにライオンが可哀そうだが、由紀子はきっと自分の身を優先するだろう。
(簡単に死ぬ)
由紀子は総一郎の言葉を反芻する。
(食われたらそれで終わり)
古い記憶を呼び起こしそうになる。
(食べられたらそれで終わり)
周りの空気が悪いせいだろうか、とても気持ちが悪い。頭の中でぐるぐると後ろ向きな感情が回っている。
あの化け物が暴れたら、きっとみんな怪我してしまう。
それなら、早く倒した方が、殺した方がいいのでは。
次の犠牲者が出る前に。
(お父さん)
古い記憶の断片が頭の中を駆け回る。
一歩、また一歩、重い足取りをすすめる。
(早く殺してしまおう)
また、誰かが犠牲にならないうちに。
さっさと殺してしまおう。
「由紀ちゃん!」
山田少年がようやく由紀子のことに気が付くと、由紀子に訴えかけるように見た。
(あれ?)
山田少年の声に由紀子は瞬きをした。なんだか、一瞬とても怖いことばかり考えていた気がした。
由紀子は自分がいつのまにか尖った石を持っていたことに気が付くと、はっとなる。その石で何をしようとしていたのか気が付くと、恐ろしくて思わず投げ捨ててしまった。
「ここは危ないから、早く離れろ」
総一郎が由紀子に言った。彼は由紀子が不死者だということを知らないからそう言ったのだろう。
由紀子はどうしようか、と視線を泳がせたとき、何かが千切れる音が聞こえてきた。
ぶちぶちという、血管と筋線維と神経の切れる音。血まみれの山田少年は、押さえつけていた食人鬼に肩を噛み千切られていた。由紀子に気を取られて、押さえつけていた力を緩めてしまったようだ。
「馬鹿野郎!」
総一郎は、山田を食人鬼から無理やり引きはがす。刀で斬りつけられた食人鬼は、げほげほと口から血をしたたらせる。それは刀傷が原因というよりも、口に含んだものを吐き出しているようだった。よく見ると、食人鬼の身体が奇妙に蠢いていた。まるで、身体の内側から食い破られているように見える。
由紀子は駆け寄り山田を抱えると、食人鬼と間をとる。傷口からあふれた血が制服を汚す。
山田は、猫のような目を細める。それは、肩の傷を痛がっているというよりも、ただひたすら食人鬼に憐れみの目を向けているように思えた。
「やめてくれ。私はもう毒なんだよ」
引き裂かれそうな顔で、手を伸ばす。その悲痛な声は、とても大人びていて、由紀子と同年代の少年のものとは思えなかった。
「やめてよ」
由紀子は、食人鬼にいまだ救いの手を伸ばそうとする山田を羽交い絞めにした。食われたことで、怪我の治りが遅い山田を押さえつけるのは、由紀子にとって簡単だった。
「目を閉じていろ」
山田が動けないことがわかると、総一郎は深く息を吐き、持っていた刀を流れるように振り下ろした。
血が吹き出し、ころころとなにかが転がる。
見るな、と言われても見てしまう。不死者ほどではないが、食人鬼もまた再生能力を持っているのだから。化け物がよみがえらないか確認しないといけない。
しかし、転がった頭部は、胴体にくっつくことはなかった。その断面は、塩のように白く枯れ、風化していた。
総一郎が頭部に刀を突き立てると、砂でできたかのようにしそれは崩れ落ちた。
山田は、ただ目を見開き、そこから涙をあふれさせていた。
小さく、「すまない」と「ごめんね」を繰り返していた。
〇●〇
「うまく戻ったかしら」
茨木は愛車のボンネットに寄りかかり、澱んだ空気が消え、澄んでいく空を見上げる。
場所は、とある学校の前。今日は、学園祭とのことで、多くの一般人が学園の中に入っている。
愛おしい元夫は、ここに通っているが、茨木は会いに行かず、ずっと学校のそばに待機していた。
茨木は先ほど、一人、いや人としての権利を与えられていない鬼を一匹連れてきた。
以前、日本にまで逃亡してきた半吸血鬼が子飼いにしていた一匹である。
茨木があの役に立たない男を匿っていた理由はそれだった。理性も知性も低く、食欲にのみ突き動かされる食人鬼を操るのは難しい。だが、あの男、ジューダといっただろうか、そいつは吸血鬼としての催眠能力を使い、扱っていた。
ゆえに、ここまで連れてくるのに苦労した。薬を常用の何倍もかがせて、体の自由を奪って連れてきた。
茨木は食人鬼を探していた。
半世紀以上前に、不死の肉体を求めて、腸の煮えくり返るような所業を行った者たちを。
できれば自分の手で四肢を捻りちぎってやりたい奴らであったが、それを行うわけにはいかなかった。
それを彼は許してくれないだろうから。
だから回りくどい行為を行う。
さっさと始末してしまえば、楽なのに。
より鬼らしい力が強まるときを選び、誘い出す。丑寅の門から鬼を送るのは、ただの洒落ではない。
焦る気持ちを抑え、こうして、事を終えたことに安堵しながらも、また焦燥にかられる。
あと何人、足りないのだろうか。
昔の彼を取り戻すには。
茨木がぼんやりと空を眺めていると、
「一体、どういうつもりなの」
すごむような女の声が聞こえた。
振り向くと、そこには愛おしい人の妹でありながらまったく似ていない生物がいた。
「何の事かしら?」
茨木はボンネットに座り、足を組む。
その様子を、オリガは無表情のままじっと見つめる。
人外としても十分成熟の域を達している年齢だが、それでも茨木にとっては青く思えた。齢千歳をこえる彼女にとって、オリガの年齢はその半分を少しこえた程度なのだから。
彼女の殺気は完全に隠しきれておらず、なにかしら襲い掛かりかねない雰囲気だ。
「しらばっくれるつもり?」
オリガの言葉に、茨木は笑みを浮かべる。挑発したようにとらえられたのか、オリガの眉がぴくりと動く。
「私がなにをしたと?」
オリガは事の詳細を口にしようとして、押しとどめた。
そうだ、それが賢明な判断である。
オリガにとって茨木は、限りなく黒に近い灰色であるだろう。
今、この場にいること自体もさらに疑惑を色濃くしている。
だが、どんなに黒に見えても灰色であるうちは、何も言えない。それが、現代の面倒な法律なのだ。
茨木はそれをわかっていて言っている。何もできないのだと。
茨木といえば法律の灰色部分を練り歩く商売をしている。よく言えば、『顔役』というものだろうか。
金融業を行ったり、警備料をいただいたり、飲食店を経営したりと、現代ではずいぶん紳士な職業だと言っておく。
怒りが表面にどんどん顕在化するオリガに対し、茨木は余裕の表情を見せる。
「兄様があなたの所業を見たらどう思うかしら?」
オリガの言葉に、茨木は片眉をぴくりとあげる。
「何を考えているのか知らないけど、兄様を思うなら、これ以上何もしないで」
対して抑制力もないような言葉を残し、オリガは去っていく。
そうだ、抑制力はない、情に訴えかけるなど、くだらない。
そのはずなのだが。
オリガの姿が完全に見えなくなると、茨木は左手を拳にして、思い切りボンネットに叩きつけた。金属がまるで粘土のようにひしゃげる。
他人などどうでもよい、自分がよければそれでよい。それが鬼という生き物のはずである。
だが、その一方で鬼というものは、情とは切り離せない生き物でもある。
何度忘れようとしても忘れられない。一度、情を持ってしまえば捨て去ることはできない、それが鬼である。
茨木は車のドアを開き、運転席に座る。
鍵は差し込むがエンジンはかけない。そのまま、ぼんやりと視線をうろつかせる。
会いたいのに、会っても辛い。
自分のことを覚えていない、別人のように振舞われる。
そんなのは耐えられなかった。
恨んでいてもいい、蔑んでいてもいい、それでも覚えてほしかった。
いつの日か、酒呑の血肉はすべて戻るだろう。不死王の息子である彼の寿命と、半端な食人鬼の寿命を比べるべくもない。
だが、それでは遅いのだ。
遅い、そうもう残り時間は少ない。
茨木は左手を見る。その手の側面は赤くはれ上がっていた。先ほど、ボンネットに叩きつけたあとである。
少なからず不死者としての力を持つものなればとうに治っている傷である。また、鬼人である茨木にとって本来怪我すらしないはずなのに。
「早く戻ってもらわなきゃ」
茨木にはもう時間がなかった。