50 一人下校はフラグの予感 後編
流血します。
「こんにちは。フジオくん」
『こんにちは』
自分の喉から、いつもより低い声が聞こえると不死男は思った。
目の前にいるのは、白衣を着た男の人だ。お医者さんっぽい。
目が赤く輝いている。
吸血鬼かな、と不死男は思った。
お医者さんと自分は白い部屋で向かい合っており、隣には姉のオリガがじっとこちらを見ている。
「君は富士雄くんでいいのかい?」
『そうなる』
不死男は「発音がちがうよ」と言いたかったが、自分の口から肯定の言葉が出る。
もう一人が話しているのだと思った。
最近、よく顔を出してくる。
たまに困る。
もしかしたら、ずっとこのままもう一人の自分がずっと外に出ているのではないかと思う。
なんだか怖い。
とても怖い。
お医者さんともう一人の自分は淡々と話をすすめている。
どんな話なのかどうでもいい。
早くここからでてしまいたい。
本当なら、ずっともう一人の自分が外にでているほうが正しいのだとわかっている。
だって、オリガもアヒムも恭太郎もそれを望んでいるみたいだ。
頼りない自分よりも、もう一人の自分がみんなはいいのかな、って思ってしまう。
いらない子なのかな、って思ってしまう。
もう一人の自分が嫌いというわけじゃない。でも、どんどんもう一人の自分が出張ってきて、少しずつ少しずつ自分を侵食していく。よく似てるけど、少しずつ違うものになっていくのは耐えられなかった。
もう一人の自分には、どうしても譲れないものがあって、それは不死男にとっても譲れない一線だったのだから。
赤い目のお医者さんは、目をきらりと輝かせる。表に出ていたもう一人の自分は引っ込み、今度は不死男が表にでる。
お医者さんは不死男に優しく問いかけるように言うが、不死男はそれに首を振り続けた。
気持ち悪い。
不死男を説得して、うまくもう一人の自分と一緒にしようとしている。
いやでいやでしょうがない。
でも、赤い目に見つめられると、だんだんそれに逆らえなくなる。ゆっくり、真綿で首をしめるようなじわじわとした拘束。
思わず、横に振り続けた首の動きが止まり、縦に振ろうとしたとき、不死男は思わず逃げていた。
ばちんと、頭の血管が切れる感覚がした。
お医者さんは驚いて、オリガも驚いていた。
その隙に、部屋の外に出た。
消毒液とお薬の匂いが充満する廊下を走り抜け、スリッパのまま外に出る。
車いすのおじいさんや、看護師のおねえさんがじっとこちらを見るが無視する。
ちょうど、バス停に駅前に続くバスが来ていた。
不死男は、ポケットに財布が入っていることを確かめると、バスに乗る。
前方の一人掛けの席に座る。
あれ、と不死男は思う。窓に反射して映し出される顔、それがとても怖かった。目が笑っていない、口が一文字を結んでいる。
なんだかとても嫌な顔だ。
不死男はほっぺたを指先でほぐすとにっこりと唇を弧にした。
おうちに帰るのも嫌だ。
まだ、この時間なら学校は開いているだろう。
不死男はそう思いながら、外を眺めた。
〇●〇
身体が動かない。
全身が痛い。
由紀子が目を開けると、そこはなにやら古臭いアパートのようだった。
茶色く変色した六畳間に、ヤニの匂いがしみついた天井。作りはワンルームだろうか。
(なに、これ?)
由紀子は、一体どうしたものかと目を瞑る。
たしか、帰りのバスを待っていたはずなのに。
しびれた全身を気持ち悪く思いながら、記憶をたどる。
つい微睡んでしまった。
数分か、十数分、そのあいだに急に肩を掴まれた。
バスが来たのか、とゆっくり目を開けると、そこには赤い目が輝いていた。
そこで、意識が途切れた。
(あれはたしか)
目の色は違ったが、由紀子はその人物に見覚えがあった。
去年の夏、由紀子たちを襲った半吸血鬼だった。
(なぜあいつが)
自問しておいて、そんな理由は簡単だ、と答えを導き出す。どうやってここまで来たのかはわからないが、由紀子を捕まえた理由は簡単だ。今の由紀子の姿を見ればわかる。まるでボンレスハムのように全身が縛り付けられている。残念ながら、身体を拘束するものは、紐ではなく針金だ。ぎゅうぎゅうに縛られ、全身が痛い。
(まさに食材か)
由紀子は全身にぬるい汗を感じる。
ここにいる自分は、奴にとって人ではなく、食糧なのだ。
由紀子は畳の上を這いつくばりながら、周りを確認する。あの半吸血鬼はいない。
代わりに誰かがいることに気が付いて息を飲んだ。
声が出そうになるのを必死でおさえる。
そこには、無精ひげを生やしたミイラがいた。
正しくはミイラではない。全身の血液を吸われ、干からびたように見えるのは、この部屋の主だろう。
たまたま運が悪く食料にされた。
不運としか言いようがない。
もし、あの麻薬中毒者のような男が半吸血鬼だという認識があれば、家に招くことはなかっただろうに。
由紀子はもしかしたら自分を狙っていたせいで、半吸血鬼に襲われたのでは、と考えたが、今は頭を振って忘れることにした。
少なくとも、今の自分が罪悪感を持って目の前の骸に謝罪しても、何があるわけでもない。
冷たいようだが、ここですべきことは他にある。
元々の性格なのか、不死者としての特性なのか、それとも場馴れしたのか、どれに起因したのか、それともすべてによるものかわからないが、頭の切り替えは早かった。
痛い。
これなら薬を飲まなきゃよかった、と由紀子は思う。
普段なら、鈍く何かが食い込んでいるとしか感じないものが、鋭敏に感じられる。
由紀子は力を入れて針金を引きちぎろうとするが、肉に食い込むだけだった。歯で噛み千切ろうと身体を曲げるが上手くいかない。
(どうすればいい?)
由紀子は身体をねじりポケットをまさぐる。
あるのはハンカチと小瓶が一つ。
携帯電話はどちらも鞄の中に入れていた。
助けを呼ぶにも、この部屋に電話らしきものはない。
由紀子は這いずりながら、名も知らぬ骸のそばに近寄る。
身体をねじりながら、男の遺体に触れる。微かに腐敗臭がするが、虫はまだたかっていない。
触れると身体がぐらりと落ちる。
(死後硬直はもう終わってる?)
由紀子は、ニワトリを〆たあとを思い出す。
お肉は新鮮なら美味しいというわけじゃない。死後硬直が始まるからだ。
(たしか半日は寝かせるはず)
ニワトリとヒトをまったく同じように考えるのは違うと思うが、少なくとも半日以上前に殺されたことが確実だろう。
(あった)
由紀子は狙いの携帯電話をとる。
(誰にかければいいだろうか?)
とはいえ、いつも携帯電話のアドレス帳を使っているので、覚えている番号は少ない。
自分の携帯の番号か、家の番号か、それとも。
(山田くんのくらいかな?)
山田は由紀子の耳元で、携帯番号とメールアドレスを暗記するまで囁き続けるという大変迷惑な行為をしてくれたので覚えていた。
たしか、去年の二学期くらいだろうか。それまで、携帯電話を持たせても無くすし壊すからと専用のものを持たせてもらっていなかった。
消去法でそれしかないだろう。
今日、山田が検査に行っているとしたら、山田姉か山田兄がいるはずだ。
(打てないな、これじゃ)
由紀子は顔をしかめながら、身体をひねる。ぎりぎりと腕に針金が食い込み、血がにじむ。肉がえぐれ千切れる痛みに涙を浮かべながら、ようやく右手だけ引き抜いた。
(痛い、痛い)
涙を浮かべる一方で、右手の傷は修復していく。修復する過程すらも、痛みが伴う。
(このまま逃げる?)
由紀子は自分にとって一番都合がよい選択肢を選ぼうとし、踏みとどまる。
締め切られたカーテンの外を見ると、学校近くの住宅地だった。
由紀子は右手で山田少年のメールアドレスを打ち込む。玄関先に散らばったダイレクトメールの住所を打ち込む。
電話もかけてみたが、すぐ留守電に切り替わった。
(病院内だから仕方ないか)
由紀子は眉根をしかめながら、部屋をもう一度見渡す。
殺風景な部屋にはテレビとスポーツ新聞、それからテーブルの上にミネラルウォーターとコンビニの袋が置いてあった。レシートがぐしゃぐしゃにされて落ちている。
狭いキッチンには、洗っていない食器が積み重なっている。まともな調理器具はないが、調味料だけは並んでいた。
(どうすればよいか)
相手は半吸血鬼、再生能力を持っている。
その上、外はもう夕闇だ。
何をすればよいか。
由紀子が頭を回転させている一方で、良すぎる聴覚はかつかつと階段を上る音をとらえた。
聞いたことのある声の男がなにやら喋っている、おそらく携帯で通話しているのだろうか。
由紀子の肌が粟立っていく。
(何をすればいいか)
恐怖を感じながらも、由紀子の頭は正常に、いや普段以上の動きを見せてくれた。
「よお、糞ガキ」
こけた頬に目の下にクマのある男は、ゆっくりとした動きで部屋に入ってきた。
由紀子は、縛り付けられた身体を横たえたまま、ゆっくり目を開ける。その顔は微かに歪み、目の前の男への嫌悪を隠しきれていないだろう。
「ようやく美味しくいただけるねー。ちぃとばかし、若い気もするけど、まあ、まじいおっさんよかマシだろ」
と、携帯電話をポケットにしまいながら、干からびた死体を蹴る。
由紀子の眉間にしわが深く刻まれる。
半吸血鬼はそんなことは気にしない様子で、由紀子の髪をつかみ無理やり身体を起こす。
「泣き叫ばねえのか? ええ」
「……」
とても痛いが我慢する。
〆られるニワトリはこんな気分なのかな、と思う。ふと、先日美味しくいただいたニワトリの宮野さんを思い出した。
半吸血鬼は長い牙を見せるように笑う。
「本当はさっさとその場で食っちまいたかったんだけどな。邪魔が入るのも嫌だし、何よりごちそうは晩餐にしないとな」
あいかわらず無駄に口が回るな、と由紀子は思う。
早速、半吸血鬼は由紀子を壁にはりつけ、髪を避けると口を大きく開く。
長く伸びた舌が首筋に当たる。
不快感で泣きたくなる。
「!?」
半吸血鬼は、何かに気が付いたようでぺっと唾を吐いた。
「なに、つけてんだ!」
「日焼け止めです」
由紀子はしれっと、答える。声が震えているが、それくらい言ってやりたかった。
ごちそうに目がくらんだ半吸血鬼は、首筋に塗りたくったワサビに気が付かなかったようである。台所から拝借した。ニンニクがなかったのが、残念である。
「糞ガキが」
男はテーブルの上のミネラルウォーターを口に含んでゆすぎ、畳の上に吐いた。そして、二、三口分、ごくりと飲む。
残った水は、由紀子の頭をつかみぼたぼたと流す。そうやって塗ったワサビを洗い流す。
水が全部無くなると、男は由紀子の顔面を殴りつける。
鼻血がぽたぽたと流れるのを見て、
「うぉ、これは駄目だな」
血が勿体ないということだろう。次は、腹を思い切り殴りつける。
由紀子は、胃の内容物を吐き出しそうになるが必死にこらえる。顔を伏せ、苦痛にこらえる顔を見せない。
今の由紀子が、一般人と同じ痛覚だと知られてはならなかった。
数発殴ったところで、満足したらしく半吸血鬼はもう一度大きく口を開ける。
(いまだ)
男が由紀子に牙を突き立てようとした瞬間、すなわち男の首が由紀子の口に一番近づいた瞬間である。
由紀子もまた、大きく口を開けた。
ぶち、ぶちっというなにかが千切れる音が響く。
血が吹き出し、口だけでなく顔面を塗らす。含んだ肉を吐き出すともう一度、大きく口を開けて噛みつく。
(食われるくらいなら食ってやる)
由紀子の選んだ反撃はそれだった。
しかし、含んだ血肉は一滴たりとも嚥下しないように唾液と一緒に吐き出す。
(山田父のほうがよっぽど美味い)
わけがわからないのは、半吸血鬼のほうだろう。
食うはずのものに、逆に食いちぎられているのだから。
そして、彼の意識をさらに困惑に陥れるものがあった。
由紀子に、首の肉を食いちぎられるたびに、半吸血鬼は悲鳴を上げる。痛みに耐えきれず、叫んでいるのだ。
どうせ食いちぎってもすぐ再生する。
なので、由紀子は肉体的ダメージではなく、精神的ダメージを与えることにした。
半吸血鬼でおそらく多少なりとも不死化しているだろうが、去年の新之助とのやりとりを思い出した。
効き目は弱いが、銀以外の武器でもダメージが与えられること。
そして、多少なりとも痛覚や恐怖は残っているようであること。
なので、由紀子は例の薬をミネラルウォーターに仕込んだのだ。味はほとんどしない、ワサビで味覚がおかしくなっていたら気がつかないだろう、と。
効き目が即効かどうか問題だったが、男が由紀子を殴る間に効いてくれたらしい。
落ちていたレシートを見ると、今日の日付でミネラルウォーターを購入してあった。死んだ男が買ったとは思えない。
なので、半吸血鬼でも水くらい飲むのでは、と考えた。
長い間、痛みに鈍かったものが、急に激痛を感じたらどうなるだろうか。
本来の数倍の痛みに感じるのではないだろうか。
由紀子の思惑は当たったようである。
首を押さえながら畳に転がる男は、再生の痛みすら耐えきれないようだ。
由紀子は目を細めながらそれを見つつ、傍にあるテーブルを持つ。
すでに身体に食い込んだ針金は、ほとんど取っていた。一見、拘束されているように見せていただけである。
ひどいようだが、このままにしておくとまた再生して襲われてしまう。
由紀子は、テーブルを半吸血鬼に何度も打ち付けた。
女子どもほど、相手に対して容赦がない、って本当だな、と思いつつテーブルを振り下ろし続けた。