46 夏休みの正しい過ごし方
『いただきます』
由紀子と山田少年は手を合わせ、目の前の巨大どんぶりに手を付ける。
麺は五玉、チャーシューは一キロ、それに和風とんこつのスープがなみなみと入っている。合計の重さは四キロとのことだ。
これを、山田は二十分、由紀子は三十分で食べないといけない。
隣では、彩香が面白そうにカメラを回す。
由紀子は、箸をすすめながら、
(あとで、ブログチェックしないとな)
と、思った。この友人は時折、きわどい写真をアップしてしまうので注意が必要である。しかも、最近、彩香のブログはなにかのランキングの上位に食い込んでいるらしく、閲覧数も多いらしい。
誰が見ているのかわからないものに、顔写真をのせられても困るのだ。
そんなことを思っているうちに、ラーメンの麺が無くなった。次はチャーシューをせめる。
この時点で、時計は五分しかたっていない。
にやにや笑っていた店員たちの顔が引きつり始める。
周りの観客がどんどん集まってくる。
(食べにくいなあ)
そんな風に由紀子が思っているとは、みんな思うまい。
箸はとろとろのチャーシューを休まず口に運び続ける。スピードとしては、一般人の何倍速になるだろうか。
隣の山田少年にいたっては、スープをごくごく飲み干し始めていた。
量は多いが、スープは和風とんこつで意外とあっさりしており、麺も細めなので伸びる前に食べればさほど腹にはたまらない。チャーシューは脂が濃かったが、柔らかく口の中でとろけて大変おいしかった。
味で難がないのであれば、由紀子にとって四キロという量など大したことはない。下手すれば、一回の食事で十キロの体重増減があるくらい食べるのだ、半分以下など問題外である。
チャーシューを食べ終わり、由紀子もスープを飲む。山田と違い、時間に余裕がある分、丁寧にレンゲですくいながら飲む。
隣では、山田少年が空のどんぶりを置いて、店のサイドメニューを確認していた。このあと、餃子でも頼む気だろう。
こうして、山田少年は十五分、由紀子は二十三分で食べ終わった。
店長は目を白黒させながらも、由紀子たちにそれぞれ賞金の入った封筒を渡す。
由紀子は顔をほころばせながら、これで水着が買える、と思い、山田少年は早速、その賞金で餃子を十人前頼んでいた。
店員も客も呆れ顔で見ていた。
これが由紀子たちの夏休み一日目であった。
「なんかブタくせえ」
兄の颯太はひどい、基本口が悪すぎる。
由紀子はむっ、となりながらも、自分の匂いを嗅ぐ。
(食べた物の匂いって、身体にそのままでちゃうのか)
特盛り豚骨チャーシューメン、巨大かつ丼、豚の生姜焼き。
ここ一週間、ブタばかりが続いた。由紀子の学校の近くでは、ブランド豚を育てているため、そういうメニューが偏ってしまうらしい。
(しっかりお風呂入ろう)
ボディソープをたっぷり泡立てて全身をくまなく洗おう、そうしよう。暑いのでちょっぴりお風呂にハッカを入れるのもよい。
由紀子がお風呂に入ろうとしたとき、颯太が先に席を立つ。
「俺が先に入る」
「えー」
「豚臭い風呂には入れん」
(自分も部活で汗臭いくせに)
由紀子は頭にきて、兄の背中に座布団を投げる。力の加減を間違えたらしく、颯太はぶつかった勢いでこけて顔面をしこたま打った。下が畳だったのが幸いである。
由紀子に何か言いたそうな顔で睨み付けてきたが、たかだか座布団にぶつかっただけでこけたという事実がかっこ悪いと思ったらしく、何も言わずに風呂場に向かった。
見栄っ張りな兄貴で助かった。
喧嘩したところで、由紀子のほうが圧勝してしまうのだが、力の加減を間違えれば、兄に大けがをさせてしまうかもしれない。
本当に不死者とは面倒である。
颯太は意外と長風呂なので、由紀子はネットで時間を潰すことにした。パソコンを立ち上げて、ユーザー名を選ぶ。
(そういえば)
まだ、彩香のブログをチェックしていないな、と思い出した。ラーメンとかつ丼の件はアップされたのを確認していたが、生姜焼きの件はまだ見ていなかった。
お気に入りから、マウスでクリックする。
「……」
ブログを見て、ぽかんと口を開ける。
由紀子は、即座に携帯電話を取り出すと、短縮で彩香に電話をかける。
「ちょっと彩香ちゃん。なに、この写真!」
由紀子の目にうつるのは、生姜焼きを食べ終えて唇の端についた脂をぬぐって舐める由紀子の姿だった。その横には、それをにこにこと眺める山田少年が写っている。
『あっ、それ。すごく評判いいよ。コメントもいっぱいついているし、可愛いって褒められてるよ』
「さ・や・かちゃん!」
由紀子は、のん気に答える彩香に低い声で言った。
「早く消して!」
『えー。まだアップして半日しか経ってないのに』
「いいから!」
由紀子の剣幕に彩香も、電話越しで「わかった」と小さく言った。
いくら友だちでもこういうことにはけじめをつけねばならない。
彩香には良くても、由紀子には良くない。大体、個人情報というものがわかってないのだ。
『今、写真かえたから』
由紀子はリロードすると、写真は特に問題のない店の背景にかわっていた。
「これならいいよ」
由紀子は息を吐く。
『……ごめんね。良く撮れてたからつい』
小さな声で、彩香が謝罪を述べた。
色々暴走しがちだが、彩香と由紀子が上手くいっているのはここのところである。彩香は謝るという行為ができる。これは、人間においてかなりの美徳だと由紀子は思う。
すぐに忘れるという短所もあるけれど。
「ううん。こっちもごめん。怒鳴ってさ」
向こうが悪いと認めてくれたら、自分の悪さも認めやすくなる。別に言ったことは間違いじゃないが、少しきつい言い方をしすぎたのかもしれない。
その後、電話でおしゃべりを続けた。今度、買い物に付き合ってくれる約束をして電話を切った。
「おーい。上がったぞ」
颯太が短い髪をタオルで拭きながら来た。
「パソやってんなら、そのままにしといてくれ。あと使うから」
「わかったー」
由紀子はユーザー切り替え画面にかえると、デスクから離れ、お風呂場に向かった。
彩香とも仲直りをし、問題はなくなった、とこの時は思っていた。
「別に付いて来なくてもいいよ」
「一緒にいたいから行くんだよ」
まさに歯が浮く台詞というのは、こういうことだろうか。
物好きな山田少年は、夏休みに学校までついてきてくれるらしい。
山田少年はバスに乗るなり、最後尾に座り鞄から枕を取り出す。山田姉から、枕持ち込みを了承してもらったらしい。
由紀子が隣に座ると、枕を由紀子の膝の上にのせようとするので、隣にずらしておく。
枕からふんわりと柔軟剤の匂いがした。
(そういえば)
山田は全然臭くない。あれだけ、由紀子と同じものを食べていたのに。
美形は体臭までフローラルと言いたいのか。
由紀子は、女の子としてのプライドがずたずたに引き裂かれた気がした。昨日は、兄に言われて二時間もお風呂に入り、寝るときにお香を焚いてごまかしているのに。
「山田くん。シャンプー何使ってるの?」
癖のある髪の毛を見ながら、遠回しにリサーチしてみる。
「コインランドリーだよ」
なんだか、あさっての方向から返事がきた。
「コインランドリィ?」
「そう、コインランドリー。あっ、でも昨日から使っちゃダメってお店の人に言われたんだ」
どうにも由紀子には理解しがたい状況である。
「ねえ。どういう状況でコインランドリーに行ったの?」
「ええっと。おうちのお風呂を父さんが壊して、お風呂屋さんに行くことになって、コインランドリーなんだ」
「もしかしておじさんと二人で行ったの?」
「そうだよ」
由紀子はそれ以上深く追及せず、ただひたすらランドリーに居合わせた人たちに同情した。
「目、回らなかった?」
「すごく回った。父さんも気持ち悪いって言ってた」
「そう、今度からやめとこうね」
由紀子はそういうと、山田少年の頭をぽんぽんと叩いた。
山田少年は、うん、とうなづくとそのまま目を瞑った。
図書館の開館は九時から。
由紀子はアンティークな扉を開ける。古風な喫茶店を思わせる鈴の音が響く。冷房のひんやりとした空気が気持ちいい。
中には三年生らしき生徒がたくさんいた。積み上げられた参考書と電子辞書を見る限り、模試を控えているのだろう。
基本、エスカレーター式のこの学校であるが、高等部に上がる際、進級試験が行われる。また、そのまま進級せず違う学校に移るものもいる。
由紀子はカウンターに本を返す。
「山田くん、どうする? 私、しばらく借りる本を探すけど」
山田少年は、じっと吹き抜けの天井を見ている。
「一番上に行ってみる」
にこにこしながら、天井を指さす。
「わかった。じゃあ、手すりには寄りかからないでね。下をのぞきこまないでね。つまづいて転げ落ちないでね。血糊で本を汚さないでね」
他になにがあるだろうか。
そんなことを言っているうちに、きれい好きな家妖精が山田少年に目をつけたらしい。仕事熱心な彼女は、問題児に張り付いてくれることだろう。
由紀子は安心して本を探すことができる。
(あの作者さんの本は面白かったな)
由紀子は少し軽い足取りで、図書館の中段を目指した。
読んだ本は十年ほど前のものだったので、本棚を見ると続編がシリーズ化されていた。
由紀子はうきうきしながら、本を取ると、本棚の間に置かれている布張りの椅子に座った。
面白い本に出会うのは本当に幸運なことだ。たとえ、背表紙が日に焼けてすすけていても、宝物のように思えてしまうのが不思議である。
「ちょっとだけ」
乾いたページをめくる指は、そう言いながらも止まることはなかった。
しっかり完読するまで動き続けたのである。
(やばいなあ)
気が付けば一時間も経っていた。
由紀子は、本を持ったままスロープを上がっていく。
まだ、山田少年はいるだろうか。
上の階ほど、本は分厚く誰も借りないものになっている。普通、上階ほど軽いものを置くべきなのだろうが、ここではそうじゃないらしい。
ようやくスロープの終わりが見えた。踊り場になっており、丸テーブルと椅子、それを囲むように観葉植物が置かれている。壁には本棚はなく、ステンドグラスから光を取り入れていた。
観葉植物の隙間から、黒髪が見える。頬杖をついて山田少年は、ぼんやりと一冊の本を見ていた。
(絵本?)
いや、違う。ページ全体に絵が描かれているが、絵本と言うには雰囲気が違い過ぎた。鮮やかな色彩は、浮世絵のもので、そこには赤い顔をした鬼とそれを退治する武者の姿が描かれていた。
「ごめん、待たせた」
「待ってないよ」
山田少年はにこりと笑うと、本を閉じる。
「何の本?」
「悪い鬼退治のお話の本だよ」
山田はそういうと、本を少し降りたところの本棚に戻す。背表紙には『大江山酒呑童子』と書かれていた。
(おおえやまさけのみどうじ?)
由紀子は首をひねる。手もとにまだ四冊しか本がなかったので、今しがた片付けたばかりの本を引き抜き、五冊目として加えた。
「山田くんは借りないの?」
「僕はいいや」
由紀子を見ながら後ろ向きに歩くので、早速、足がもつれ転びそうになる。由紀子は慌てて、山田のネクタイを掴むが、転げ落ちなかった代わりに首がしまった。
由紀子は、山田少年をしっかりとつかまえたまま、貸出カウンターに向かった。