37 乙女の体重は秘密です
周りでは体操着姿の女生徒たちが、きゃっきゃと話している。
場所は多目的ホール、そこには白衣を着た大人たちとさまざまな計測器具が待っていた。
健康診断、今日はその日である。
由紀子の周りも、朝からその話題ばかりだ。朝ご飯を抜いた、と些細で微妙すぎる努力をしたり、また、昨日食べ過ぎた、と言い張るものもいたり。
(朝ご飯を抜くねえ)
それをやって一番効果があるのは由紀子だろう。朝食を一食抜くだけで、おそらく三キロは体重の増減が変わる。
二時間目の休み時間のあとなら、さらに一キロの増加がみられるだろう。
そんなわけで、由紀子は腕を組み、どうするのだろうと首を傾げる。
由紀子は表向き、ただのヒトとして学校側に登録してある。そんなただのヒトが、身長百六十センチの女子中学生の体重が八十キロオーバーはいかがなものか。
いや、まったくないものではないが、問題は由紀子の体型である。由紀子は、現在成長期であるが、二次性徴が極端にあらわれているものではなく、ゆえに肉付きも悪い。よく言えばスマートだ、ああ、スマートである、スマートとしか言いようがない。
つまり体重はせいぜい、八十キロの半分をちょっとこえたくらいにしか見えないのだ。
どう見てもおかしい。
(着やせするんです、じゃすまないからね)
もちろん、これは山田姉に相談済みである。
「手はうっておくわ」
山田姉の言葉を信じて、こうして当たり前のように身体測定に挑んでいるのだが、どうにも不安で仕方ない。
(まあ、なんとかしてくれているだろう)
気を取り直し、列に並ぶ。
ホールには測定器具の他に、カーテンで間切りされた空間がある。健康診断もかねており、簡単な内科健診も行っている。
由紀子のクラスは内科健診から始まり、体重、身長、視力、聴力へと進む。
内科健診が一番時間を食うので、由紀子は前の女子と喋りながら順番が来るのを待つ。
「なんだか、さっきからみんな浮ついてない?」
「そうだね」
由紀子は話していた女子の言葉に同意する。
内科健診を先に終えていく女生徒がなんだか、楽しそうなのである。
由紀子は、かな美が内科健診を終えたのを見てたずねてみる。
かな美は、他の女子とは違って、むしろ不機嫌そうな顔をしていた。
「なんか、皆、どっか楽しそうだけど」
「ああ、それね」
かな美は面倒くさそうな顔をする。
「ちょっと先生が若い男だからよ。顔はまあ、普通なんだけど」
あまり興味ないといわんばかりのかな美である。ここ最近付き合ってみてわかったことだが、かな美は男という生き物があまり好きでないらしい。あからさまな態度には出さないが、どことなくそんな空気が漂う。
最初、山田に気があると思っていたことが嘘のようだ。
「あれだね。教育実習の先生が年の近い大人ってだけで、なんだか三割増しに格好よく見えたりするやつ」
「なるほどねえ」
わからなくもないたとえだ。
小学校時代もませた女子生徒が十人並の新任教師に付きまとっていたのを見たことがある。
ああいうものだろう。
女の子というものは、無駄に年上に憧れるときがあるのだ。
残念ながら、かな美にも由紀子にもその素養がないのであるが。
「日高さん、次どうぞ」
保険の先生に名前を呼ばれ、由紀子は間切りの中に入る。
由紀子はクリアファイルに入ったカルテを渡そうとするが。
「……お久しぶりです」
「ん。ああ、久しぶり」
そこにはたれ目の見覚えある青年が座っていた。
由紀子の記憶が確かならば、レアな人魚のオスだったはずである。若い男の医者というのは、新之助だった。
(たしか、大学生じゃなかったっけ?)
由紀子は記憶を手繰る。去年の夏、夜会に参加し、一緒に墜落した飛行機に乗っていた青年はそれらしきことを言っていた。
その質問に答えるように新之助が喋る。
「本来、俺みたいな研修医が学校医の真似事は早いと思うんだけどな」
研修医とは、たしか医者のたまごのことだ。では、今年、大学を卒業したということだろうか。んでもって、医師免許をとったのだろうか。
彼の言い方だと、おそらく由紀子のために山田家が手配したのだろう。普通、こういう先生はもっと年配がくるはずである。
「はい、そこ座って、前開けて」
由紀子は、言われた通り丸椅子に座ると、体操服を上にあげた。
(なんか落ち着かないなあ)
正直、知っている男性にこうして診察されるのは恥ずかしいものがある。知らない人間なら、まだ割り切って平気だったろうに。
(そこのところ考慮してほしいな)
由紀子とて十三歳の乙女だということを忘れないでいただきたい。
冷たい聴診器を押し当てられる。本当に居心地が悪い。
「ふーん。心拍数はヒトよりもずいぶん少ないなあ。アスリートの比でもない」
新之助は、興味深そうに由紀子の心音を聞いている。そのだるそうな目の奥には、たしかな好奇心があった。
(……)
由紀子は、なんだか違う意味で居心地の悪さというか、不安と言うか、そんな気分が浮かんでくる。
「生涯心拍数が決まっているという説は、人外にも多少は当てはまるということか。これだけ少ない心拍数で身体機能に問題がないとくれば、心臓のポンプ機能がやはり特殊ということだろうな」
おそらく由紀子に言っているのではない、独り言だ。
由紀子の背筋にじわじわと汗がにじんでくる。
「構造が違うのが、それとも素材が違うのか。じかに血液が送り出されるところを見れたら……」
新之助の目は好奇心に満ち溢れ、その唇は普段よりも緩やかな弧を描いていた。ほんの少し赤く染まった顔を見ると、それは恍惚という表情であると思われた。
由紀子は、この青年が一体どんな理由で医者になろうとしたのか、一瞬で想像がつき、なおかつ、その想像にいきついたことで、心拍数がヒトのそれ以上の速さで打ちはじめた。
「ん? どうしたんだ? 急に心拍数が上がったぞ」
「あ、あの。後ろがつかえていると思うんですが」
由紀子が緊張しながら言うと、
「ああ、そうだったな」
新之助は残念そうに、聴診器をはなした。
名残惜しそうな新之助の視線を無視し、由紀子はカルテを受け取り間切りの外にでた。
「どうしたの? なんだか遅かったね」
「うん。なんでもない」
クラスメイトの問いかけにそっけなく答える。
由紀子は疲れた顔で、体重計の列に並んだ。
(四十五キロか)
体重測定は、生徒側には見えない仕様になっていた。
身長は以前と変わらず、少し残念だ。牛乳をもっと飲まなくては。
新之助の他にも数人の看護師が来ており、その中の一人が体重測定を担当していた。由紀子の本来の体重を書かずに、そんな数字を書いてくれたのだろう。
今更、山田家の手回しについて問うこともあるまい。
(お金はどっから出てくるんだろう?)
山田姉も山田兄も高給取りそうだが、それにしてもお金持ちすぎる。株でもやっているのだろうか。
そんな下世話な疑問はさておき、カルテを提出し教室に戻る。
すると、なにやら渡り廊下の向こうが騒がしかった。
「何かあったのかしら?」
かな美が首を傾げる。
「あれって、体育館のほうよね?」
由紀子は言うまでもなく慣れ過ぎた嫌な予感がやってきた。
女子は多目的ホール、男子は体育館にて行われていた身体測定。
由紀子は多目的ホールに、山田少年は体育館にて。
深くため息をついて遠い目をする由紀子に、かな美は不思議そうな顔を見せる。
まあ、何があったのか言うまでもなかろう。
二時間目の休み時間は、由紀子と山田にとって間食タイムである。
山田少年はパン、由紀子はおにぎりといつもどおりの食事をとる。
今日の山田少年は、桜あんパンだった。桜色のあんがほのかな甘い香りを漂わせている。それにしても、山田はランドセルだけでなくスクールバッグも四次元らしい。彼の収納術を見ると、カリスマ主婦のそれが子どものお片付けレベルに見えてくる。
ぼろぼろになった体操服といつもよりがっついた食欲と、クラスの半数の暗い顔を見れば何があったのか言わずともわかる。
クラスに早退者がいないことから、まあ比較的地味なスプラッタだったのだろう。山田なりの成長である。褒めてやるべきだろうか。
「よく食べるわね、二人とも」
かな美は、由紀子の髪を梳きながら言った。由紀子の髪は、以前は肩口までだったが、やたら伸びるのが早いため、最近はそのまま後ろに伸ばしている。今では背中の半分ほどの長さである。
かな美は自身の髪をいつも自分で編み込みしている器用な子で、由紀子の髪もこうやっていじってはいろんな髪型にセットしてくれる。
由紀子も髪をいじられることが嫌いではないので、好きなようにさせている。
「……おなかすくんだもん」
由紀子は、肉巻巨大おにぎりを食む。ドリンクは牛乳なので少々組み合わせが悪いが、身長を伸ばすため仕方ない。
山田兄や姉の食事方法を見習えば、多少量は減らせるだろうが、真似はしたくない。
由紀子は、山田少年の飲み物がいつもと変わっていることに気が付いた。
「山田くん、それ何?」
「これ、豆乳だよ」
牛乳パックに似ているが微妙に違う。
豆乳とは、なかなか健康志向に見える。健康志向、すなわちまずそうの意だ。しかし、山田の顔を見る限りそれほどまずそうには見えない。
「おいしいの? それ?」
「うん、調整してあるやつだから。飲む?」
山田はもう一本豆乳を取り出す。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
飲んでみると青臭さはなく、甘みをつけてあるので意外と美味しい。
「えーと、たしかタンパク質豊富で栄養価があって、大きくなるんだよ」
山田が首を傾げながら、効用を言う。
「大きくなるんだ。なんか牛乳みたいだね」
「牛乳よりも効くんじゃないのかな? 牛乳は元々、日本人にはあまり合わないものだから」
山田はあほそうで、実際おばかだが、無駄なうんちくについては詳しい。間違いはないと思う。
なるほど、牛乳で伸び悩んでいるのなら一度切り替えてみるか、と由紀子は思う。
かな美は、由紀子の頭を三つ編みにしておだんごにしていた。
できあがりと、ぽん、と由紀子の頭を叩く。
鏡で見せてもらうと綺麗にできている。それなのに、かな美は首を傾げている。何が気に食わないのだろう。
「どうかしたの?」
由紀子が聞くと、
「いや、なんか腑に落ちないと思ったのよ」
と、かな美は答える。
「そうかな? きれいにできてるけど」
由紀子はそう言いながら、残りの豆乳を飲み干した。
放課後、由紀子の靴箱に一枚の封筒が入っていた。
差出人名のない手紙をたまたま通りかかった女子生徒たちに見つかり、由紀子は顔を真っ赤にした。
周りの勢いに逆らえないまま、相手に悪いと思いつつ、その場で公開するしか道はなかった。
封を開け、折りたたまれた中身をゆっくり開くと。
ゆっくり開くと、そこには……。
そこには、『献体登録申込書』と書かれた用紙が入っていた。




