18 由紀子の憂鬱な日
(二十五度)
由紀子は、水面から温度計を上げるとため息をつく。
午前八時に二十度以上の水温があれば、体育はプールになる。
(憂鬱だ)
いっそ、嘘の報告をしてしまおうか。いや、駄目だ、と自問自答をする。
体育委員の彩香に代わり、由紀子が当番をやってあげた。低血圧なお友だちは、朝の会ぎりぎりまで学校に来ない。代理とはいえ、仕事はちゃんとしないといけない。
何度も悪魔の誘惑に惑わされながら、由紀子は報告ノートに『二十五度』と書き入れた。
雨降らないかな、という願いも虚しく、空は憂う気配もないまま四時間目になろうとしていた。梅雨時に珍しく、素敵なくらい良い天気だった。
由紀子はため息をついて、水泳バッグを取り出す。
「……」
目の前に山田少年が突っ立っている。いつも通りにこにこしている。
由紀子は、山田少年の手を取り、神崎の元に連れて行く。
「うーんとな。水泳の授業のとき、着替えは男女別なんだよ」
「なんで?」
「なんでって言われても」
別に俺らだって、こんな扁平なもん興味ねえよ、と語る神崎の目を由紀子はにらみを利かせて追い出す。他の女生徒もぎろりとにらむ。
たとえ小学生でも婦女子は婦女子なのだ。そこのところをわかってもらいたい。
髪を結び、キャップに詰め、タオルを被ったままプールまで歩く。
天気がいいせいか、肌寒いことはなく、むしろ水は気持ちよいと感じる暑さだった。
(見学したいな)
そんなことを考えてながら、見学者の座るベンチを見ると、体操着姿の山田がいた。
なんとうらやましいことに、見学するらしい。
山田は由紀子に気が付くと、プールサイドを走って近づこうとしたので、手で制す。止まったところで、由紀子から近づく。
「見学なの?」
「うん。水中で爆発したら、処理が大変だから駄目だって」
なるほど、どうしたら水中で爆発するのか謎であるが、実践は避けていただきたい。何が爆発するのかは、某汚い花火を思い出した。うん、グロい。
「前の学校じゃ、一年間使用禁止になっちゃったし」
「それは迷惑だね」
実体験済みの前の学校の人たちに由紀子は深く同情する。一生、お肉が食べられない子もできたかもしれない。
「私も見学したいな」
つい、ぽつりと漏らしてしまった。
山田は、首を傾げる。
「なんで? 僕が代わりに出たいくらいなのに」
と、由紀子の顔を見て、視線を落とす。
そして、近くにいた彩香の方を見て交互に見比べる。視線の場所は、どちらもスクール水着のゼッケンの上の部分だった。慎ましやかな、まあ年齢相応の由紀子に対し、彩香はその部分もふわふわした形をしていた。
なぜか納得してうなづく山田少年に対し、確固たる殺意が芽生えた。
「兄さんが言ってたよ。『女は錬金術師だ。無から有を、AからCをこねあげるんだ』って」
意味の分からないことを言いながら、肩を叩く山田少年を、空高く打ち上げそうになったとき、先生が来た。
由紀子は、殺意を押しとどめながら、準備体操を始めた。
ギリギリ十メートル、それが由紀子の泳げる距離だ。息継ぎなしで進める距離と言ってもいい。
クロールだろうが平泳ぎだろうが、息継ぎができない、これは致命的だったりする。
それなのに、毎年水泳の授業では、公開処刑というべき、タイム測定をしなくてはならない。七列に並んで、皆が見る前でタイムを計るのだ。しかも、距離は百メートル、二往復分だ。
一緒にスタートした周りの生徒がどんどん到着する中、由紀子だけは何度も立ち上がり、また泳がなくてはならない。しだいに周りが寂しくなる中、「おい、日高ががんばっているぞ。みんな、応援してやれ」と、悪魔の言葉をかけてくれる。クラス全員が注目する中、由紀子の目は、真っ赤になっていた。それは、プールの塩素水だけが理由ではない。
去年は、水泳の授業のあと、三日間休んでたりする。
一部に置いて、非常にナイーブにできている由紀子は、女の子の日を理由に見学しようとか考えたが、それはそれで、からかわれたら生きていけない自信がある。もっとも、不死化して二か月弱、不順となっている。それは、山田姉から寿命が延びれば、それだけ生殖能力は低くなる、という理由で、周期が長くなっていることを聞いている。
今日は、まだ二十五メートルを流すように泳ぐだけで済んでいる。スタートがみんなばらばらなので、由紀子が悪目立ちすることはない。
それでも憂鬱さは収まらず、順番になってプールにつかろうとしたとき、
「由紀ちゃん、由紀ちゃん」
山田が近づいてくる。
「なに」
由紀子は、先ほどの怒りがまだくすぶっており、冷たい口調になってしまった。
「泳げないの?」
「……息継ぎができないだけ」
正直に答えると、
「なんだ。そんなことなんだね」
山田がかちんとなる言葉を言う。
「私は真剣に悩んでるの」
「なら、息継ぎしなきゃいいよ」
「へっ?」
山田の意外なアドバイスに由紀子は間抜けな声を出す。
「壁を蹴って、そのまま勢いでむこう側まで行っちゃえばいいよ」
「……そっか、そういう手が」
由紀子はなるほど、とプールにつかった。泳ぎだすタイミングで思い切りプールの壁を蹴ることにした。
今までの由紀子だったら、せいぜい半分いければいい方だろうが、今は格段に身体能力が上がっている。キック力も高くなっているはずだ。
たしかに言われた通りだった。狙い通り、息継ぎの必要もなく、五メートル、十メートル、二十メートルのラインを追い越した。
タイムも今までと比べ物にならないくらい早いだろう。
勢いのみで、バタ足も必要としないまま、プールの反対側へと近づいていき、そして。
そして、プールの壁面に頭突きした。
錆色がにじんでいく水面の中で、由紀子は、
(山田家に浸食されていく)
と、思った。