17 山田家の日常
「いってきまーす」
不死男が元気よく出かけていく。雨が降っているので、黄色いレインコートを着ている。小学校高学年ともなれば、そのような恰好は嫌がるものだが、不死男に至っては楽しそうに揃いの長靴を履いて出かける。
「お姉ちゃん、今日はお休みなのね」
「ええ。今日は一日ゆっくりするわ」
オリガは、朝のニュースを見ながらだらしなくあくびをする。寝間着のままだが、別に家族の前なので気にしない。片手鍋から、カップにバター茶を注ぐ。表面張力ぎりぎりまで注ぐと、カップを持たずそのまま口に付ける。
「お行儀悪いわよ」
母が巨大なブリオッシュと、大きなボウルに入れられたポパイサラダを持ってくる。ブリオッシュはオリガの前に、ボウルは父の前に置く。
父はオーロラソースをたっぷりかけ、おいしそうに食べている。
母は自分用に、三十センチほどの食パンを二つ持ってくると、作り立てのママレードにつけて食べ始める。
「お姉ちゃんがお休みってことは、恭ちゃんはお出かけなのね」
「ええ、今シャワーを浴びてるわ」
鼻歌が廊下まで聞こえてきた。
「三か月の記念日ですって。ひと月ごとに記念日なんて、気が触れちゃうわ」
先日、ドタキャンした彼女とよりを戻したらしい。腹立たしいことだ。
「そうか? パパだって、ママと毎日いちゃこらしたいぞ」
「やだー、パパったら」
母がパン切包丁を持ったまま、父を叩く。父はサラダボウルに顔を突っ込み、後頭部から血しぶきが飛ぶ。
オリガは血がかからないように、ブリオッシュを持ったまま隣の椅子に移動する。
占いや天気予報、そして話題の新製品の紹介といったごく平和な番組をだらだらと見ながら食事を続けていると、全身濡れたまま、腰にタオルだけ巻いた姿の恭太郎が現れた。
「俺の着替えどうしたんだよ!」
真剣な面持ちでオリガたちをにらむ。
オリガは、
「着替えなら置いてあるでしょ」
「ちげーよ。なんで下着だけ取り換えてあんだよ! タンスの中全部!」
面倒くさがりな弟は、風呂場の脱衣所に箪笥を持ち込んでいる。
「あら? それなら」
天然母がほわほわした口調で、
「昨日、お兄ちゃんが『最近、風紀が乱れているので、中身をこれに取り換えておいてくれ』って言われたからとりかえちゃったわよ」
やるな、弟よ、とオリガは心の中でつぶやく。
取り換えた下着の内容については、想像に任せる。少なくとも、『勝負』できる類のものではないだろう。
「……ええっと、取り換えた中身は?」
「今日は、燃えるごみの日なのです」
と、言った。
打ちひしがれる恭太郎は、両ひざ両手をつき四つん這いになる。
しかし、何かを思い出したようで即座に立ち上がる。
「ちなみに洗濯機はもう回してるから」
一縷の望みを姉に踏み砕かれ、恭太郎はへたり落ちる。
「何も履かないのも健康にいいぞ?」
と、父が提案をするが聞くはずもない。それはまずかろう。
オリガはブリオッシュを食べ終わると、
「恭太郎は今の彼女とは健全なおつきあいをしているようだし、問題はないでしょ?」
と、笑いかける。自分でも素敵な笑顔を弟に向けている自信がある。
「……そうですね」
とぼとぼと、タオルが半分ずり下がった状態で出ていく恭太郎に、
「ちょっと待って」
と、オリガが自分のハンドバッグから封筒を取り出す。
「はい、お小遣いあったほうがいいでしょ」
「……姉貴」
じんわりと涙を浮かべる恭太郎。封筒の中身を確認する。
「なんか端数多くないか?」
「ええ、キャンセルって手数料は取られちゃうのね」
と、ネット予約の明細を渡す。
年末年始、長期休暇に賑わう某テーマパークのオフィシャルホテルのものだ。まあ、恋人たちの記念日には適当な場所だろう。
「お泊りはだ・め・よ。明日は私もアヒムも、仕事なんだから」
へたり込む弟に、封筒の中身に色をつけてあげたのは内緒である。
「お姉ちゃん、ちょっとお買いもの行ってきていいかしら」
母が大きな籠を二つ抱えている。
「どこまで?」
「由紀ちゃんのおうち。パパったら、ホウレンソウ気に入っちゃって」
そういえば朝食べていたのもホウレンソウだった。
別に母一人であれば、そこまで危険性はないし、ご近所なので問題ないだろう。
「いってらっしゃい」
「パパも行っていいかい?」
「お父様は駄目」
しゅんとなる父を無視する。
ご近所をお散歩するだけで、父はダンプに轢かれたり、空から鉄骨が落ちてきたりするので困ったものだ。マンホールに落ちたこともあった。
先日も、道路を飛び出して挽肉になったばかりだというのに。
おかげで、その翌日は不死男も含めて、アヒムと交通安全集会を開く羽目になった。
現行の日本の法律では、たとえ飛び出しでも車側に過失が問われるのだと理解していただきたい。運転手さんに悪いと思わないのか。
「由紀子ちゃんちのおはぎ、美味しいのに」
父が到底、ミレニアム二回分生きたとは思えない発言をしてくれる。
由紀子母は、畑の他に講師の仕事を行っており、それ以外にも駅前のマンションと駐車場の家賃収入があると調べでわかっている。祖父母は、税金対策として近場に茶房を開いているくらいだ。気が向いたら開く趣味の店で、ご近所さんのたまり場となっている。
先日、貝殻にまみれた『特製飼料』を食べさせられ続けた父が、由紀子祖母におはぎをいただいてからはまっているらしい。現在は、オリガとアヒムが母を説得し、貝殻入りご飯は中止となっているが、父のお小遣いは、そういうわけで日高家特製おはぎにつぎ込んでいる。
日高家は、母子家庭であるにも関わらず、収入はかなりある。十年で一億の慰謝料を提示しても、片眉を動かす程度しか、由紀子母は反応しなかった。
それでいて、生活は華美でなく、汚れる泥仕事を好んでやっている。
由紀子は年齢の割にしっかりしていると思っていたが、そんな家族構成を考えると納得できる気がした。
「おはぎも買ってきて」
「わかったわ」
母は、可愛らしいエプロンをつけたまま出て行った。
「パパはつまらないぞ。おでかけしたいぞ」
「はいはい、テレビでも見ていて」
オリガは時代劇の再放送にチャンネルを変える。父は目を輝かせて、テレビにかじりつく。テレビの下段には、父用の時代劇、不死男用の特撮が用意され、並べられている。
時代劇が終わったら、すぐ自動再生して新しい番組が見れるようにセットしておく。
もう一眠りするか、とオリガはあくびをする。
念のため、父のシャツに発信器を付けておく。携帯電話は持たせてあるが、よく忘れてどっかにやってしまうのだ。
簡単に歯磨きし、自室に戻るとそのまま寝台に横になった。
「寝過ぎたかな」
オリガはぼんやりと、時計を眺める。
もう五時を回っていた。寝過ぎどころではなく、休日は惰眠で終わってしまった。
食卓では、不死男が帰ってきており、夕飯前のおやつを食べている。チョコを練り込んだパウンドケーキである。
父はまだ、時代劇に没頭していた。食べ散らかしたおはぎのごみが落ちている。
昼食をとっていない腹が急激に食料を求める。
「ひとつ頂戴」
「一本だけね」
オリガは置いてあった切り分ける前のケーキをつかむ。
洋酒が効いていておいしい。
浅い睡眠は、懐かしい夢を見せてくれた。
その昔、オリガにも恭太郎のように色恋に夢中になる時代があった。このヒトなら、添い遂げられると何度も信じていた時代があった。
現実はきびしく、オリガが不死者であると知り逃げるもの、逆に不老不死に憧れすがりつくもの、時に悪魔祓師をけしかけるものさえいた。
それでも、オリガが一生を遂げてくれると信じた男もいた。父に頼み、同じ不死者にしてもらい、ヒトと違った時間の流れを生きてもらった。
結果、オリガの伴侶は自死を選んだ。
誰よりも優しいその男は、自分だけ年齢をとらず、周りだけが老いていくさまに、死んでいくさまに耐えきれなくなった。忘れるという器用なことができなかったのだ。
何度も手首を切り、首を刎ね、重りを持ったまま海へと飛び込んだ。結局、死ねないまま、オリガの元に戻ってきた。
精神が壊れ、別人となるその前に、男はオリガに頼んだ。「殺してくれ」と。
泣きながらできないと言い続けるオリガに、男が何度も懇願する。結果、折れたのはオリガのほうだった。
父であり、主たる不死王は、伴侶の祝福をといた。男は笑いながら、灰になって消えた。
まだ、不死者として年若い恭太郎は、その苦しみがわからない。だから、ヒトの女と付き合うことができるのだ。
傷口は浅いほうがいい。
付き合うならヒトよりも寿命の長い人外を選べばいいのに。
その点を考えると、予期せぬ由紀子の不死化は、好都合だったのかもしれない。彼女にはすまなく思うが、それがオリガの本音だった。
まだ年若く、柔軟性のある彼女に、不死者としての常識を教えていけば、彼の二の舞となることはないだろう。
成長が止まるまでにまだ猶予があるのだから。
今はまだ子どもであるが、不死者の寿命は長い。数百年という寿命は、不死王の血肉を新たに受ければ、何百年でも伸ばすことができる。
大人になるまでの十年や二十年、たいした時間ではない。
長い時間を生きるため、伴侶を求める不死者やその他の人外は、いくらでもいるのだから。
できれば、キープしておきたい、とオリガは考えるが、それは由紀子の意思に任せるしかない。ただ、それまでに外堀を埋めるくらいはやっておくが。
打算的なことを考えているうちに、パウンドケーキはすべて腹に収まった。べたついた指先を舐めていると、
「お姉ちゃん、お行儀が悪いわ」
と、母が隣に座る。夕食の仕込みが終わったらしい。
シチューの匂いがする。寸胴で煮込んでいるところだろう。
不死男は、父の隣に座り、時代劇を一緒に見ていた。
「ねえ、お母様」
「なにかしら?」
「いい男って、どこかに落ちてないかしら」
差し出されたティッシュを手に取り、指先をぬぐいながら言った。
「いい男は落ちてません。育てるものです」
案外、まともな答えにオリガは驚きながらも納得する。丸めたティッシュをごみ箱に投げる。
「どっかに美少年落ちてないかしら」
言葉を訂正すると、
「姉さん、犯罪はやめてください」
異物を見る目でアヒムが隣に立っていた。今帰宅したところらしい。
母は、いつのまに台所に戻って、シチューをかき混ぜていた。