15 勇気と無謀は別物です その参
いまさらですが、ショッキングな描写があります。
由紀子は、道路沿いに出ると、携帯を取り出した。
「彩香ちゃんと神崎くんはそれぞれ、この番号にかけて。それから警察にもお願い」
由紀子は山田家の電話帳を見せる。山田姉と山田家自宅の番号が登録されている。
「わかった」
「お、おう」
(警察が先のほうがいい? ああ、もうどうでもいい)
由紀子は何をすべきか、混乱しつつ選択する。
「私、山田くん見てくるから。二人はここで待ってて」
「日高が行くなら俺も行くぞ」
「由紀ちゃん、私も」
二人は怯えた目をしながらも、そんなことを言った。電話はまだつながらず、プルルと音を出している。
麗しい友情であるが、正直、おとなしく待ってもらいたい。迷惑だ。由紀子と違って、二人は一回死んだらそれで終わりなのだから。
「彩香ちゃんの百メートルのタイムは十七秒だったよね」
「うん」
「神崎くんは?」
「俺は十三秒台」
少し得意げに話す神崎。
「私、こう見えて八秒台なんだ。だから、私が行くね。誰か来たら、場所を教えてあげて。ってか、動いたらわかんなくなっちゃうから」
と、由紀子は走って行った。
「そんなタイム、人間じゃねえだろ!」
と、神崎が叫んだ気がしたが気にしない。
(だって人間じゃないもの)
由紀子は廃屋に向かって全力疾走した。
廃屋の中は惨憺たる有様だった。
由紀子は思わず、口を押え、声が漏れないように気を付けた。瞳孔が開き、目が乾く。
血の匂いであふれていた。床が真っ赤に染まり、錆の匂いを空気中に飛散させている。
山田は床に転がっていた。四肢を切断され、心臓に鉈を突き立てられていた。鉈が邪魔らしく上手く再生できないようだ。心臓に流れた血液が逆流しているが、鉈が床にまで貫通しているらしく、押しのけるのが難しいらしい。
父親似の琥珀色の目は焦点が合っておらず、ぼんやりと天井を眺めていた。
扉を壊すのに使われた斧は、壁に突き刺さったままである。
(生きているけど)
部屋の隅には、汚れた男がいた。裾の破れたトレンチコートを着た男。床に座り込み、なにかを貪るように食っている。床に散らばった包装紙から、由紀子が山田に持たせていたリュックの中身だとわかった。
男は飢えていた。由紀子の存在に気付かないくらいに。
由紀子は今にも壊れそうなくらい早鐘を打つ心臓を押さえこみ、男に気付かれないように山田のもとに近づく。
由紀子は顔を歪めながら、山田の前に立つと血で汚れた薄汚い鉈を掴む。力を入れて引き抜こうとすると、
「……だ、……め」
かすれる声で山田が言った。肺もつぶれているらしく、うまく言葉がでないようだ。
「はやく、……逃げて」
「あんたも逃げるの」
山田はいつもどおり笑いながら、首を振る。
「だって、……僕が食べられる間は、時間が稼げるでしょ」
(食べられる?)
由紀子は聞き間違えかと思ったが、確かに山田はそう言った。
「あいつは食人鬼だから」
(食人鬼? 殺人鬼でなくて)
では、風呂場で解体したものは食事のためで、ごみ袋の中身は食べ残しということか。
「他に、食べるものがなくなったら、……なんでも食べる。そういう生き物なんだよ」
由紀子は素直に鉈を引き抜けない自分を嫌悪した。
恐怖が全身をまわり、震えが止まらない。
山田の言うとおり、山田をおとりにさっさと逃げるか、それとも、鉈を引き抜き、山田とともに逃げるか、その天秤をはかる自分がいた。
その思考は、どれくらい続いたかわからない。
気が付けば、山田が慌てて自分になにか言っているようだったが、聞き取れなかった。次の瞬間ふっとばされていたからだ。
壁に打ち付けられ、顔を上げると、そこには恐ろしい様相の男がいた。垢と汗でまみれた身体は、近くにいるだけで鼻が曲がりそうになる。伸ばしっぱなしの髪と髭、そしてやたら長い眉毛に覆われた顔は、大きな鼻と血走った目とよだれのつたう乱杭歯がのぞいていた。節くれだった手には血管が浮いており、ひび割れた爪の垢は赤黒い血の色をしていた。
絵物語で見た、鬼という存在がそこにいた。
由紀子の視野はなぜか白黒に見えた。その代り、なにもかもゆっくり動いているように見える。
山田がなにか叫んでいるようだが、なにも聞こえない。必死にもがいているが、床に縫い付けられた身体は自由がきかない。
(ああ。さっさと鉈を抜いておけばよかった)
由紀子がそんなことを思っていると、右腕を鬼につかまれた。
鬼は、由紀子の右手を口元まで持っていくと、そのまま大きく口を開けた。
咀嚼音がする。
痛みは不思議となかった。
ただ、自分が食べられているさまを由紀子は観察していた。
「やめろ!」
鬼の身体になにかが当たる。山田の体当たりで、鬼はよろけて床に這いつくばった。
まだ、腕がまともにくっついていない状態で、山田が立ちはだかる。筋線維が再生し、薄皮を作っている最中だった。
「僕だけ食べればいいだろ? 僕のほうがおいしいよ」
(なんか。某菓子パンヒーローみたいだ)
緊張感のないことを考えてしまう由紀子。右手の指は、親指を残しすべて食べられていた。なにごともなかったかのように見ている自分が怖い。
山田の言葉に、倒れた男は長い舌をだらんと下げる。
『おまえら、不死者か』
二重にだぶった声が聞こえる。
鬼は山田と由紀子を見比べる。
『不死者の再生力と、不死者の血肉の味。いいなあ。おまえら』
羨望の眼差しで由紀子たちを見る。
『なんで、俺が呪われて、おまえらは祝福されてんだよ』
汚れた手が伸びてくる。山田は由紀子をかばうように立っている。
『だから、おまえらの血肉をわけてくれよ』
掴みかかろうとする手は、二人には届かなかった。
なにが起こったのかわからなかった。
一瞬で、鬼は真っ二つになった。
その後ろには、巻き髪のゴージャス美人こと山田姉が立っていた。
「……大丈夫、だった?」
お洒落なスーツにハイヒールを履いたその姿には、不似合な大きな斧が携えられていた。
(バトルアックス?)
兄がよくやっているゲーム武器の名前を思い出す。山田姉の身長の半分はあるそれは、鬼を一刀両断したものだった。
「ふざけてるとしか言えないわね。お父様たちが、出向いたと思ったら、こんなところにいるなんて」
山田姉は、乱暴に鬼の髪を掴むと、半分になった身体を持ち上げた。その内臓はだらりと垂れ、蠢いている。落ちた下半身もびくびくと痙攣している。
(再生しようとしている?)
しかし、その動きは由紀子が知っている不死者の再生速度とは比べ物にならないくらい遅かった。そして、男の顔には滝のように汗が流れていた。
(痛いの?)
不死者ではなく食人鬼で、でも少なからず再生能力がある。一体、なんなのだろう、と由紀子は思う。
いつのまに現れたのだろうか、黒服の男たちが寝袋のようなものを持って現れた。
山田姉は、業務事項を片付けるように寝袋を受け取り、それに男の上半身を突っ込む。下半身は黒服の男が違う寝袋に突っ込む。
一仕事終えた山田姉は、由紀子たちのもとに向かう。
「由紀子ちゃん、その手」
「……かじられました」
(これじゃ、筆記用具が持てないな)
なぜだろう、いつもより再生速度が遅い気がする。唾液がこびりついている気がして気持ち悪い、早く手を洗いたい。
山田姉は悲痛な顔で、由紀子の手を取る。ハンカチを取りだして、優しく包む。
「もったいないですよ」
「もったいなくないわ」
手触りからシルクだろうか。きれいな刺繍も入っているのに、血で染めるのは本当にもったいない。もう使えなくなる。
「あの、友だちがいたと思ったんですけど」
由紀子は、彩香たちのことを聞く。
「ええ。電話に出られなくてごめんなさい。二人なら、ちゃんと家に送り届けたわ。反省してたわよ。『私が悪いんです』って」
由紀子はほっと息を吐く。
山田は再生で疲れているらしく、床に寝そべっていた。黒服の男に差し出されたバターを丸かじりしている。
由紀子にもすすめられたが、丁重にお断りした。すると、「ですよね」と、チョコレートをくれた。
バターはやはり、山田姉の指示のようだ。
由紀子は、あの二等分にされた男のことを山田姉に聞くと、
「あれは、しかるべきところで処分されるわ。このまま滅してもよかったんだけど」
山田姉は、黒服の男たちを見る。少しだけ煩わしげに見えた。
「由紀子ちゃんには悪いんだけど、指の再生は遅くなるわ」
「どうしてですか?」
(宿題ができない)
由紀子は、至極真面目にそんなことを考えた。
「由紀子ちゃんは自分の血肉を与えるのではなく、奪われた。説明するのは難しいんだけど、その場合、奪われた部分は再生しないのよ」
「それって……」
「大丈夫、それについては考えがあるから。とりあえず今からうちに来てくれれば、明日にはなんとかするわ。今日は泊まるって由紀子ちゃんの家には伝えとくから。明日は日曜だし」
「……はい」
(正直、抵抗あるんですけど)
彩香の家にもお泊りしたことないのに、と由紀子は思った。
(片手って不便)
由紀子は風呂に入り、服を着替えた。山田姉の見立てだろうか、フリルの多い服である。
山田少年と山田姉をのぞく家族は皆留守で、夕食は出前をとった。山田姉のはからいでピザや寿司といった素手で食べられるものばかりだった。
用意された寝室は、以前、山田父のレバーを食べたときに泊まった部屋だった。あらためて見ると、本当にお姫様のような部屋だった。
一日、あったことをぼんやりと考えていると、ノックの音が聞こえる。
ドアを開けると、山田少年がいた。
「入っていい?」
「どうぞ」
寝間着だったら、断っただろうが、まだ着替えてなかったので招き入れる。
「何の用?」
由紀子がたずねると、山田は大きく手を広げた。
「抱擁する?」
いつもどおりほんわかした笑顔を見せながら言った。
由紀子は、一瞬ぽかんとなったが、ふと笑みがこぼれた。ついでに、涙腺がゆるみはじめた。
「ちょっとだけ」
由紀子は山田少年の胸に額をつけると、嗚咽をもらした。とめどなく流れる涙は、くっついたシャツにしみこんでいく。
どのあたりから麻痺していたのだろう。押さえこまれていたものが堰をきりあふれだしていく。
涙が枯れるまで、声が枯れるまで、山田は何をすることもなくなすがままになっていた。いつも抱っこしているクマのぬいぐるみみたいだった。
ようやく落ち着いた由紀子は、回していた手をゆるめた。
「……ありがとう」
由紀子が落ち着いたのを確認すると、山田は屈託ない笑みを浮かべる。
「ついでに、一緒に寝る?」
調子づいた声に、由紀子は思わずそのまま力をこめた。
ぼきぼきと何かが砕ける音が部屋中に響いた。