受験生の苦難
「うーーーん」
由紀子は薄っぺらい紙切れとにらみあっていた。そこには、五段階評価のアルファベットが並んでいる。上からD、C、B、B、A。まだ、高校三年生の夏、巻き返しは可能なものの、少しへこんでしまう。
由紀子の前にはへらへらした顔があった。隠す様子もない模試の結果には、うらやましい判定が並んでいる。
由紀子はそれと自分の結果を見比べる。第一志望から第五志望まですべて同じだ。由紀子は半眼で、端正な顔の主を見る。
「ねえ、山田くん。志望校のランクあげなよ」
「えー、なんで?」
余裕の笑みが実に憎たらしい。しかし、学力というものはそれぞれの努力の結果だ。カンニングをしたわけでもないのに、それをひがもうというのは、理不尽な話だ。由紀子は自分にそう言い聞かせて、平和な方法でライバルを減らそうとする。
「山田くん、せっかく頭がいいんだもん。もっと上の大学目指さないともったいないよ。ここの大学とかどう? 家からでも通学圏内だしさ」
由紀子は、志望校ランキングなんたらという本を取りだし、山田に見せる。
「ここなんて、都内だしいいんじゃない? 私だったら、山田くんの成績なら受けようと思うけど」
山田はのぞきこんでくるが、特に興味ないといった感じだ。
「由紀ちゃんと同じとこがいいから」
ぼそっと言う山田であるが、由紀子としては迷惑だ。由紀子の第一志望の学科人数は定員五十名である。貴重な一枠をこんな中学生女子の「一緒に彼氏作ろうね」のノリで潰されたくない。
「いいから、志望校変えなよ。そんな理由で志望校決めると後悔するよ」
(おもに私が)
由紀子の思惑とは裏腹に山田は、いやだと一点張りだ。やめてくれ。倍率を上げないでくれ。
「山田くん、将来何になりたいの? そういうのはちゃんと将来を見定めてから決めたほうがいいよ。山田くんのおねえさんもおにいさんもちゃんとしっかりした職を持ってるじゃない?」
「……恭太郎兄さんは?」
「……」
(そういや、ニートがいたな)
山田家で一番普通なのは恭太郎だ。だが無職だ。
「それはともかく、ちゃんと食べていく術を持ってないといろいろ駄目なんだから。いつまでも養ってもらおうなんてすごくかっこ悪いよ!」
由紀子は、ニートをとりあえず余所へ置いて山田に言い聞かせた。山田は、そんな由紀子の前に鞄を置く。山田は四次元空間につながっていると言われる鞄から、冊子を何冊か取り出した。
「なにこれ?」
「学生の内は、これくらいが無難だと思って」
山田が見せるのは資格の本だった。ファイナンシャルプランナーとか、会計士とか税理士とかその手のものである。
「別に専門の学校に行かなくても、会計士やFPなら取ろうと思えばとれるし、会計士とれば税理士の受験資格もできるでしょ。学科としてもそれほど離れたところじゃないからね」
山田にしては考えているほうだろう。由紀子はぽかんとなる。
「山田くんが会計士とか意外だね」
由紀子が正直な感想を述べると、山田は珍しくもやもやした表情を見せた。
「……由紀ちゃんって、たまに自分の発言に責任を持たないよね」
「なにそれ? どういう意味?」
「別に……」
山田は、資格書を鞄に入れる。由紀子は、山田の模試の結果を羨ましそうに眺めながら、スケジュール帳を確認する。
受験生に休日はなく、休みごとに模試の予定が入っている。
「ふう、こうも毎回だと義務になってくるよね」
「やる気ない?」
「ちょっと、滅入ってくる」
由紀子の様子を見て、山田が首を傾げて見せる。
「ねえ、由紀ちゃん。賭けしない?」
「賭け?」
「モチベーション上げるためには、いいんじゃない?」
山田がにやにやと頬杖をついて笑う。
なんだか胡散臭い気もするけど、面白そうな気がしないでもない。
「どんな賭け?」
「別に大したことないよ。由紀ちゃんの一番よかったテストの成績と僕の一番悪かった成績のどちらがいい点だったかっていうのはどう?」
「……」
かなりむかつく発言だが、由紀子と山田の成績の差はその程度開きがある。賭けとしては五分五分といえる。
「もし、由紀ちゃんが勝ったら、僕はもっと勉強が必要だと思うので、志望校のランク上げようと思う」
山田の発言に由紀子はぴくりと耳を大きくする。
(合格枠が一つ増える)
由紀子の頭に実に腹黒い考えがよぎる。しかし、山田である。そんなことで簡単に志望校を変えるものだろうか。少し疑いの目をかけて、由紀子は彼を見る。
「じゃあ、それで私が負けた場合はどうすればいいの?」
もしかして無理難題を押し付けるかもしれない。少しどきどきしながら、彼の顔を見る。
「由紀ちゃんが負けたら、そうだなあ。僕の言うことを一日、いや半日聞いてもらえるかな?」
(半日?)
なんだろう、その微妙な時間は。
「そんなんでいいの?」
由紀子は首を傾げながら山田に言った。
「うん、いいよ」
(なんだか胡散臭い)
山田はにこにこと笑っている。しかし、半日といえば十二時間。由紀子としては、結構面倒くさいことになるかもしれない。もし、山田家に関わることだったら、半日で一か月分の苦労に当たる。
「半日かあ、やっぱ長いかも」
由紀子は、ちょっともったいぶるように言ってみる。
山田は髪を揺らし、首を傾けている。
「そうかあ、いきなり半日はハードかもしれないね。うーん。じゃあ、三時間はどお?」
「三時間」
うむ、それくらいなら、と思いつつ、もう少し、時間を短縮できないものかと由紀子は考える。受験生は、一時間でも多くお勉強の時間が欲しいものである。
「それってさあ、どのくらいの時間でできるものなの? すぱって終わるものなら、すぱって終わらせるからさ」
「すぱっと言われてもなあ。まあ、やろうと思えば十分でも五分でも終わるものだけど、趣がないというか、なにより由紀ちゃんのために言っているんだけどなあ」
「私のため?」
首を傾げる由紀子に対して、山田は指先をもじもじさせる。
「うん。いきなりだと多分よさってわからないものだと思うんだ。負担ってのもあるし」
「疲れるの?」
「疲れるといえば疲れるよ。スポーツみたいなもんだし。こういうのはやはり、最初が肝心でゆっくりと順序良くすべきだと僕は……」
山田の言葉は遮られた。顔を真っ赤にしたかな美が、山田の側頭部を椅子でどついていた。椅子の足に血痕がついている。
「かな美ちゃん、学校の備品を壊しちゃだめだよ」
由紀子がいつものことだが、かな美のバイオレンスを注意すると、かな美は由紀子を睨み付けた。
「由紀子ちゃん、山田と変な約束はしないで!」
「……ええっと、なんで?」
「なんででもよ!」
かな美が目を逆三角にして怒るものだから、由紀子は頷くしかない。
「三十分でもいいのに……」
山田は脳髄をちょろちょろ垂らしながら、残念そうに床に転がっていた。
由紀子の志望大学の合格枠に余裕はできそうになかった。