不死王と山田父
どうやら自分は甘いものが食べたいらしい。
不死王はぼんやりとフィルターのかかった視界を眺める。現在、自分には己が身体の主導権はなく、ぼんやりと見える風景を眺めていた。
場所は家の近くの農道であり、その道をまっすぐ行くと、自分が求める場所がある。自分は自分であるが、自分とは違う副人格であり、完全に自分というわけではない。もう一人の自分はよく自分のことを『パパ』と呼ぶので、そういう呼称を使っておこう。
パパはオルトロスとケルベロスの手綱を持っている。散歩へ行くにもなにかしらの監視が付きまとうのが、この人格の特徴だ。服の襟には、隠すつもりもない発信器がついており、首から老人がぶら下げるような携帯電話がある。
自分は天気がどうだろうか、と思い上を見ようとした。その瞬間足がもつれ地面に額からぶつかった。しまった、と思ったがいつものことだった。パパに主導権を渡しているものの、何かの拍子で自分の意思が身体に反映されることが多い。なので、天気が見たいと空をふと見上げてしまったため、身体のバランスが崩れてしまいこけてしまった。けっこうよくあることだ。
パパはにこにこと笑いながら、どくどくと流れる血が逆流し、傷が治るまで待つ。
笑顔とはこういう風にすればよいのか、と自分は思うが、おそらくパパのように自分が笑っても自然な笑みにはならないだろう。感情とは、不完全な生き物がそれを補うためにできたものであり、生物の中ではおそらくもっとも完全に近い自分には不要のものといえる。しかし完全にないわけでなく、それゆえに同族を作るという戯れも行うし、それが消えていくことに何も感じないわけではない。
元々、パパができた理由もまた、己に一番近い生き物を見るに堪えない姿にされたための、怒りという感情でできあがったものだった。不要であるはずのものが、これほど己の行動を左右されるものなのだとわかったとき、次にやった行動は、それをおさえることだった。怒りという不要なはずの感情にまかせ、周りのものをひたすら破壊する行動をおさえるためにパパは生まれたのだ。
それに付き従ったのは、千年来の同族である撫子である。もとはヒトでありながらこれだけ長い時間をともに生きた同族は初めてであった。あるものは驕り、あるものは発狂し、幾度と同族を灰に返さねばならない中、ついてきたものである。その理由には、撫子が自分の最後を見るという望みもあるだろうし、自分との間に子をもうけたということもあるだろう。
その後者の理由である富士雄が耐え難い苦痛を受けたことによって、彼女もまた、人格にひびが入る起因になった。完全に壊れる前に、自分と同じく副人格を作り半世紀以上生きてきた。
それにしても不思議なものだ。望まぬ形で、自分とは違う自分を作ったというのに、今の破天荒な自分に間借りする生活を気に入るとは。
まあ、それもこれも本来の自分であれば、できるのにできないことが簡単でできるからかもしれない。
パパは、五回ほど転び、二回ほど用水路に落ちながらようやく目的地に着いた。茶房と書かれたそこは、小さな蔵のような様相をしている。大きさはそれほどでもなく、店の外のテラスにテーブルが一つ、中は座敷にテーブルが二つとカウンターがあるのみだ。せいぜい客の人数は二十をこえてはいることはできない。
「おや、山田さん。今日はあんまり怪我してないね」
と、言いながらもぼろぼろの服を着たパパに着替えを渡すのは茶房のおかみだ。気の良い老女は、いつもこうして着替えを渡してくれる。たまに、帰り道でも歩けないほど服が摩耗した状態になるため、こうして着替えはこの茶房に置いてある。
「こんにちは、おはぎください」
上着を着替えながら、パパは注文する。何気に、おかみが着替えているパパを当たり前のように携帯におさめている。いつの時代からだろうか、老女がこのようなことを普通にする時代になったのは。
「はい、これもおまけにつけておくからね」
おはぎの他に草餅とみたらし団子をつけてもらった。みたらしはいい、と思う。あのとろりとしたタレがいいと思う。
自分が表にでると、あまり甘いものがだされず、肉ばかりだされるので困る。肉は正直あまり好きではない。昔は、摂取する熱量を得るために食べなくては足りないものであったが、現代、飽食と呼ばれる時代では肉を食わずとも違うもので補うことができる。
いい時代になった。昔のように、飢饉や天災のたびに生贄としてヒトを差し出される心配もない。別に食らいたくないものなのに、目の前で舌を噛み切られたらどうすればよいのだろうか。その本懐を遂げさせるしかないだろう。
まずい肉を残さずに食べた。そして、仕方なしに自分の血を水源に流した。それによって、地はうるおい、それを飲んだものは病にかからなかった。ゆえにさらなる欲をだしたものは、また生贄を差し出すのだ。
その連鎖がいやで住んでいた土地を転々とした。ある場所では神と、ある場所では悪魔と呼ばれながらやってきたのがこの国であり、そこで出会ったのが撫子だった。
撫子はあまり和菓子が好きではないらしく、茶房には付き合わない。撫子もまた、古い水田の神の名を与えられて生きてきたものである。それゆえか、米を使った料理があまり好きではなく、パン作りを覚えてからはまったく米を炊かなくなってしまった。撫子のこともあるが、米の触感が気に入っている自分としては少しさみしい気がしてならない。最近、米粉を使った菓子くらいは作るが、米のつぶつぶを楽しむ料理が食べたいのである。
おかみはおはぎを竹の皮で包み、さらにラップに包んで、タオルを巻く。その上で、風呂敷に包んで渡す。その包装はパパの性質を十分に熟知したものであるが、それでも三回に一度は道路に落ちたおはぎに三秒ルールを発動させなくてはならなくなる。自分の身体でありながらこの狂った確率変動を起こす性質を不思議に思う。
パパは手をぶんぶん振りながら茶房をあとにする。早速よそ見のため、こけてしまう。べちゃりと風呂敷がつぶれるが、中身がこぼれていないのでセーフだ。
オルトロスはひらひらと舞う羽虫を追いかけては戻ってくる。ケルベロスは、パパがこけるたびに襟をつかんで起こしたり、水路から引っ張りあげたりする。こけすぎて服のあらぬ場所がやぶけた際には、茶房まで戻り服を持ってきてくれることもある。時折、パパの知能は、ケルベロス未満なのではないかと思う。
パパはこけながらもにこにこと笑いながら家路につく。手には潰れた風呂敷を持っている。
「お父様、また服を汚してきて」
玄関前で仕事帰りの娘が近づいてくる。早く家に入りなさい、と手を引っ張る。
「お姉さま、お小遣いください」
家に入るなり、アクロバティックな着地をして土下座をする息子がいた。
「働け!」
ハイヒールの踵で娘は息子を足蹴にする。こんな面もあったのだな、と気が付いたのは、パパという人格が生まれてからだった。それまでは、寡黙な大人しい娘だとずっと思っていた。
「うわあ、お願いだあ。頼む、頼みます、お姉さま」
情けない声で、娘の足にすがり付く息子は、自分よりパパと長く過ごしているためだろうか、非常にのびのびと育ってしまった。のびのびすぎて、ニートと呼ばれるものになっているらしい。
「恭太郎、パパが貸そうか?」
パパがすがりつく息子に視線を合わせて言う。息子は目を潤ませながら、パパを見るが、パパがぎゅっと握った拳を開くと同時に落胆に変わった。そこには、明日の分のおはぎ代が入っていた。価値としては、おはぎ三つ分である。
「親父……。ありが……」
落胆しながらも手を伸ばそうとする息子に娘の蹴りが飛ぶ。
「あんたは、お父様のお小遣い巻き上げる気!」
「親父がくれるって言ったじゃないか!」
ぎゃんぎゃんわめく子どもたち二人だ。
誰も自分の前ではそのような行動はしない。
「ええっと。あげるとは言ってないよ……」
もじもじとパパが言うが、パパはじゃれあう二人を仲良しと認識したらしく、顔に笑みを浮かべる。最初の息子、今はもういない、先に次の世界に旅立った息子と同じ笑顔を浮かべる。
無用なはずの感情、その一つである笑みをパパはする。そう、自分に次ぐ完全なものであるはずの息子とそっくりの笑みを。
もういなくなった息子に代わり、もう一人別の息子がいる。今は末の息子になるだろうか。その息子もまたよく笑う。ヒトにより近い笑みを。
富士雄とともに旅立つのも悪くなかった。撫子も自分の最後を見れば、同じく追いかけてくるだろう。
でも、それはまだ先でいいだろう。
この無意味でわけがわからない、笑顔というものを理解するまではいても悪くない。
パパは仲良しと見なした二人の横を通り、リビングに向かう。潰れてはいるが大好物を早く食べたくて仕方ないのである。




