110 乙女の寝所は神聖です
気が付けばそこは靄の中だった。
由紀子はぼんやりとしたまま、きょろきょろする。
(あれ? なんで私こんなところにいるんだろう?)
以前、見たことがあるような無いような空間を歩き続けていると、見知った顔を見つけた。
「おや? ずいぶん、大きくなったね」
冴えない中年が何もない空間に立っていた。それは死んだ父と同じ姿でありながらまったくの別人であることを由紀子は知っていた。
(お久しぶりでいきなり失礼なんですけど、なんでいるんですか?)
口に出さずとも、彼には由紀子の考えが聞こえているはずだ。中年の男は、苦笑いを浮かべた。
以前、山田が眠り続けていた際、山田を起こしにやってきた夢魔である。仮の姿ではあるが、以前とかわらない物腰の柔らかい人物だ。
「いやはや、自分もこの世界にはかなり通じているものだと思っていたけど、あんな人外は初めてだよ。まさか夢魔の夢に他人があがりこんでくるなんてさ。いくら一度接触があったとはいえ、そんなことやすやすとできるもんじゃないのに」
夢魔の言うには、その客人はお別れの挨拶がしたいから夢を渡り歩かせろ、だそうだ。横暴な輩もいるものだよ、とやれやれと首を振る。
(じゃあ、私、また巻き込まれちゃったのかな?)
由紀子の問に夢魔は首を振る。
「今回、君はその客人に呼ばれたんだよ。さて、そろそろ君の出番だろうね。本当にもう、どういう頭の中しているんだろう。自分の仕事に自信が持てなくなってくるよ」
と、夢魔は哀愁を漂わせた背中を見せ、靄の中に消えて行った。
代わりに現れたのは、直衣を着、髪をゆるく後ろで縛った美青年だった。
(……山田青年)
それは、以前由紀子が見た千年前の山田そのものだった。
なるほど、と由紀子は思う。夢魔は安心していい、山田青年の頭の中など誰がわかると思うだろうか。由紀子ですらその脳みその容量の一シーシー分すら理解できないのである。きっとナマケモノがティラノサウルスの考えを読み取るより難しいかもしれない。それだけわけがわからない奴だ。
「挨拶に来たよ」
(いえ、こちらとしては別に)
由紀子は面倒くさそうに目をそらす。いい人悪い人それなりの人がいるけれど、山田青年がどんな人物であろうと、なんとなく気が合わない人ってかならず出てくる。由紀子にとってそれが山田青年なのだ。
山田青年はそれでも朗らかに笑う。
(ある意味、茨木ってすごい奴だったんだな)
虫も殺さないような人物に、自分のとどめを刺させるなんて、たとえ山田少年の意識が混じっていたとしてもすごいことだった。
(……山田少年)
由紀子は、たしかにあの場にいた、山田青年と身体を共有していた少年を確認した。だけど、その後まだ完全に山田青年に戻ってしまった。
(あいつはどこ?)
由紀子の心の声が山田青年に届いたのか、青年はにっこりする。
「安心して。『彼』はもうすぐ起きるから」
『彼』と山田青年は、少年のことを形容した。まるで他人のような扱いであり、由紀子は首を傾げる。
山田青年は余裕たっぷりの笑みで由紀子を見る。本当に腹が立つなあ、と由紀子は思う。
「ちょっとわがままを聞いてもらえないかな?」
(断る!)
由紀子は声に出さずに目で訴える。正直、これまで散々迷惑をかけられ続けたのだ、その上なにがわがままだ、付き合っていられない。
「そこまで即答されると、すごく困るけど、用件は言っておくね」
(いや、聞きたくないし)
なんだか、前に比べてちょっとちゃっかりした性格になったのではないか、と由紀子は思った。なんとなくティラノサウルスからブラキオサウルスにくらいまでナマケモノと近づいた気がする。それでも理解しがたいことには変わりなく、由紀子が付き合いたくない相手としては十分だった。
「私はちょっと旅に出ようと思うんだ。せっかく探し物が見つかったのに、彼女はどこかへ行ってしまったからね。今度は私が追いかける番だと思う」
由紀子の主張も虚しく、山田青年は自分の意見を述べ始める。
しかし、その内容は、なんだか理にかなっているようで不条理な話である。灰になって消えてしまった、その茨木を追いかけるという。
まったく理解しがたい。
「別に前と同じ立場じゃなくていい。親子でも、兄弟でも、友人でもいい。向こうは気づかなくてもそれでもいい。追いかけるのは私の意思であって、気づいたり立ち止まったりするのはあの子の意思だから」
(だから何なんですか? さっさと行ってしまえばいいんじゃないですか?)
由紀子はやさぐれた顔で腕を組んでいる。由紀子のつま先は苛立たしげに足元を打ち鳴らしていた。
「けっこう毒舌だね」
ほんの少し山田青年は苦笑を浮かべながら言葉を続ける。この時点で、由紀子はあることに気が付く。夢魔と同じく、山田青年にも由紀子の思考は筒抜けのようだ。
うわあ、と気まずそうに額をおさえる。さっきから悪態しかついてない気がする。
「いっそ気が楽だ。父上にも母上にもオリガにもアヒムにも反対された。恭太郎には、よくわからないけど『兄貴のせいで前科持ちになった』とか、わけのわからないことをいわれたけど」
前科持ちとな、恭太郎は何をやったのだろうか。
由紀子がそんなことを考えている間も山田青年は話を続ける。
「だから約束した。そのうち戻ってくるから、そのときは会いに行くって。ただ、そのとき気づける人物がいるかどうかが問題なんだ。姿かたち、まったく違う姿で、記憶もまた残っているか曖昧である私に気づけそうなのは君くらいじゃないかな、って思うんだよ。無駄に勘がいいとか言われないかい?」
(自分でもそう思いますが何か?)
どうして姿かたちが全く違って記憶も曖昧になる、それってどういうことだ。話の文脈は相手に伝わるように言ってもらいたい。
(まるで別人に生まれ変わるみたいじゃないか)
由紀子の考えに、山田青年はそれが正解だ、と言わんばかりに微笑みかける。
「父上と母上にも一緒にでかけないか、と誘ってみたんだが、今の生活が気に入っているみたいだ。ゆっくり眠りながら外を傍観するのが楽しいようで、表に出ていると逆に疲れるとか言っていたな」
由紀子の顔に疑問符しか浮かばない。
言葉のキャッチボールすら難しいのか、この男は、と思う。
「なにが言いたいかといえば、君の将来の選択の一つに、山田家の一員になることを考えてもらいたいということだ。無理強いはしないけれど、悪い選択じゃないと思うよ」
(……)
由紀子は無言で山田青年に近づくと、その脛を蹴った。蹴りによる痛みはまったくなかろうが、バランスを崩して無様に転んだので少しだけ気が晴れた。
青年はわざとらしく片足で飛び跳ねながら手を振る。
「じゃあ、数年後か、数十年後か、数百年後に」
(誰が再会するか!)
靄の中で消えていく青年の後姿に由紀子は唾でも吐き出さんばかりに思った。
本当に理解しがたい。
(輪廻転生なんてあるわけないじゃないか)
どちらかと言えば理系の由紀子にとって、そんなナンセンスなものを信じるわけにはいかない。死んでもまた次の人生がある、なんて言ったらまるで今の人生が次の人生までの踏み台みたいじゃないか。たった一度と思えばこそ、生に執着し今を大事に生きることができるのだ。
最後まで理解できなかった、と由紀子はため息をついた。
「挨拶は終えたようだね」
何もないところから突然夢魔が現れた。今更、驚く由紀子ではなく、
(どっと疲れました)
と、呆れた顔を見せた。
「ははは、自分と思考の離れた相手を理解するのは難しいよ、それだけ面白いけどね」
(それほど大人じゃありません)
「大人でも難しいものは難しく、わからないものはわからないさ。いろんな選択を迫られて間違ったものを選ぶこともある」
夢魔はしみじみという。
(選択のひとつかあ)
由紀子はここの所忘れかけていた進路の問題を思い出す。
場違いだと思うが、夢魔に聞いてみることにした。
「世の中、どの道筋を選んでもその経験が無駄になることはないよ。ただ、それがより自分にとってよいものか、という差はあるだろうけどね」
夢魔はそれだけを言った。
(要は好きなものを選べってこと?)
由紀子が首を傾げると、夢魔はにこりと由紀子に笑いかける。
「さあて、そろそろおはようの時間だね。ただ働きは終わりにするよ」
夢魔は、まるでピエロが行うようなかしこまったお辞儀をすると、靄の中に消えて行った。
由紀子もまた、真っ白になっていく視界の中で、自分に選択できる道がいくつあっただろうか、と思った。
目を開けると、そこには見知った顔があった。女の子が嫉妬しそうな長いまつげが伏せられて、穏やかな寝息が聞こえる。もう成熟した身体に戻ったはずなのに、その寝顔はずいぶん幼く見えた。
由紀子はぼやけた視界でそれをとらえると、手を伸ばす。くせ毛の前髪を撫でると、子犬が身震いするような動きでくすぐったがる。
周りは見慣れた場所で、由紀子が定期検査を受ける研究所の一室だった。
(あれ?)
由紀子は身体が固定されていることに気づく。視線をたどると腕には点滴がされていた。点滴の溶液はブドウ糖ではなく真っ赤な液体がぴちょん、ぴちょんと落ちている。
(血かな?)
ちゃんと血液型あってるのかな、と当たり前のことを考えながら容器を見ると、血液型は書いておらず、ローマ字で「FUJIO YAMADA」と書かれていた。
輸血って点滴でやるもんだったのかな、とか思いながら血液提供者の顔をもう一度見る。そこで由紀子は気づいた。左腕はともかく、何で身体全体が固定されているのだろうかと。
その答えは、自分をぬいぐるみのように扱う誰かがいるからだった。
今更ながら気が付いた。なぜ目覚めたら、すぐそばに奴の顔があるのかを。
由紀子は呆れたような恥かしいような表情をすると、首をこきことと鳴らす。首の運動を十分にしたあとで、思い切り後ろにそると前に振り下げた。
ごつん、と鈍い音がしてベッドから落ちるものは、
「ひどいよ、由紀ちゃん」
あいかわらず悪びれもなく言ってのける山田は、たしかに山田少年だった。
由紀子はこみ上げる何かがあふれだしそうになったが、自分の上半身の下着がゆるめられているのに気が付いた。
とりあえず乙女の寝所に忍び込むことがどんなに不届きなことか、それを教えるために床に正座させることにした。
本編はあと残り二話です。