108 鬼の見る夢、神の見る夢 前編
富士雄は、妹のオリガを寝かしつける。もう人外として十分成熟した年齢だが、いくつになっても妹は妹だった。感情的で少しだけ寂しがり屋なのところは昔と全然変わっていない。
あの少女のことを気に入っているらしい妹は、自分が父に頼むことを反対するだろう。ずいぶん昔、妹の夫たる男が死を望んだ時もそうだった。
今度はどれくらい泣き続けるかわからない。
だが、納得できないままで、終わりの見えない寿命で生き続けることは、明かりもないトンネルの中を歩き続けるようなものだ。いつか精神の歯車を狂わせる原因となる。
父は体の様子がおかしいらしく、部屋で横たわっていた。不死王たるものがそのような状況になるというのは、いささか変な話だが要は身体でなく、頭の中らしい。なにか奇妙な感じがして仕方ないのだという。
理由は、先日まで父の身体を使っていた人格である。同じ自分のはずなのに、不思議とまじりあわないのだ。だが、時間が経てば自然と解決するだろう。
富士雄は、額をおさえた。
なんで一緒にならないのだろう、と富士雄は思う。みんな仲良く一緒になってしまえばいいと思うのに。
もう一人のフジオはひたすら黙っている。いや、眠っているのだろうか。なにか大切なものを抱きかかえるように眠っている。それこそ、富士雄と一体化するのを拒絶するように。
『身体をちょうだい』
そう言われたのはいつだっただろうか。
「はい」と言ってやればよかっただろうか。
でも、それは富士雄にはできなかった。
富士雄にはまだやることが残っていた。それがある限り生き続けなければなかった。たとえ、身体のほとんどが食い尽くされようとも。
妹の部屋からでて、リビングに向かう。
もう九月の終わりだというのに、まだ暑さが残る。末の弟はこらえ性がない性格で、家じゅうの窓を閉め切り、冷房をかけていた。
富士雄は外の風が浴びたいと、窓を開ける。生ぬるいが心地よい風が吹いてくるはずだった。
血なまぐさい匂いが流れてきた。匂いの濃さから致死量をこえているだろうか。
どくん、と心臓がはねる音がした。
富士雄は首を傾げる。致死量をこえる血の量など山田家では珍しくない。鼻の良い富士雄はその匂いが不死王の眷属であることを嗅ぎ分けていた。おそらく若い男、恭太郎の血の匂いだろうか。
珍しいな、と富士雄は思った。働く働かないは別として、ヒトの社会に一番うまく溶け込んでいるのは末の弟である。うっかりして大怪我をする羽目はしないはずだ。あるとすれば、オリガの機嫌を損ねて折檻を受けるときくらいしか考えられない。
心臓の音はさらに大きくなる。なぜだろう、これは、と胸をおさえた。
家を出ると、匂いが濃いほうへと向かう。家の前にある小さな道をたどっていくと、おびただしい血糊がまき散らされていた。
そして、そこには眼鏡をかけた男が立っていた。もう一人の弟である。
「アヒム、どうしたんだい?」
富士雄は落ち着いて状況説明を求めた。その声とは裏腹に心臓だけはどくどくと大きな音をたてている。
弟は苛立たしげな顔で、富士雄を見つめる。
「僕にもわかりません。今、来たばかりです」
道の脇には、まだエンジンがついたままの車があった。急いで降りてきたらしい。
「これはどういうことですか?」
「恭太郎だろうね」
血糊の匂いは、やはり末の弟のものだった。それと、あと二つ覚えのある匂いが残っている。
その一つに、富士雄は頭をおさえる。なにか、大切なものが思い出せない気がする。
そして、もう一つの匂いに、心臓はどくどくと大きな音をたてる。
「こんなものが落ちてました」
眉間にしわを寄せたまま、アヒムの差し出すそれは、片方だけのスニーカーと刃がこぼれ、ぼろぼろになった刀だった。刀の柄は紋が入っている。記憶の片隅にあるようなないような、花を模した紋だった。
スニーカーは、お隣のお嬢ちゃんがよく履いているものだった。
アヒムの顔には、なにか富士雄に訴えかけるような顔をしていた。
「兄さん、僕はあなたとあの鬼との間になにがあったのかよく知りません。兄さんがそんな態度をとるというのなら、それなりの理由があることは重々承知です。でも、それに巻き込まれる側のことも考えてください。自分も言えた義理ではありませんが、貴方にも自覚してもらいたいんです」
「由紀子ちゃんのことか」
彼女には何度も迷惑をかけてきた、と富士雄は思っている。不死男の中で見た断片的な記憶の中で、彼女は何度も不死男を助けてきた。彼女は「面倒だ」とか「付き合いきれない」と言いながらも、結局不死男に付き合ってきた奇特な少女である。
状況証拠から考えると、恭太郎は何者かに切り刻まれたのだろう。残った血液がアメーバのように動いていた。肉体はどこか別の場所に移動させられたと考えられる。
そして、一緒にいた由紀子はその恭太郎を斬ったものに連れ去られた、そういうことだろうか。
とうにアヒムもたどり着いただろう推理を富士雄は額をおさえながら口にだす。
アヒムは父に少し似た冷たい視線を富士雄に向けた。
「兄さん、それだけわかっていながら、なにかないんですか?」
なにか、と言われても、こういう場合、助けだそうとするのが普通だろうか。もちろん、そのように考える。でも、富士雄にはその行動にすぐさま移れないなにかがあった。頭の中のもやもやした部分があらわになるようで、吐き気に似た気持ち悪さがこみあげてくる。
なぜだろう、と自分でも不思議に思う。
一方で、心臓の音はもっと大きくなる。はちきれそうなほど大きな音で鳴る心臓は、早く行動にうつそうと焦っているようだ。
「兄さん、僕はずっと兄さんが元に戻ったら幸せになれると思っていました。姉さんもそうです。でも、想像と現実は違っていた。兄さんは以前と変わらないはずなのに、違っていました」
「そうかい」
弟の言葉を素直に受け入れる富士雄。そういうこともあるものだ、とわかっている。弟の言葉に怒りなど覚えない。
だが、アヒムはその様子に目をひきつらせた。
気が付けば、富士雄はアヒムに馬乗りにされていた。襟を両手でつかむ弟は、怒りながらも目には涙であふれていた。眼鏡がずれていき、がちゃんと地面に落ちる。
アヒムも昔は泣き虫だったなあ、と富士雄は思う。泣かなくなったのは元服を過ぎたころだったろうか、と懐かしむ。撫でれば昔のように泣き止むだろうか、と考える。
「どうしてなんですか? 勝手にあなたを偶像化し、勝手に失望する僕らに怒りを覚えないんですか? 僕らは、あなたにとってすべてを包み込めるほど小さな存在なんですか?その他大勢とまったく同じ存在なんですか?」
弟の問に富士雄は答えられなかった。伸ばそうとした手をおしとどめる。
かわりにどくんと心臓がはねる。
「あなたにとって、特別なんてものはあるんですか? なになら兄さんの心を大きく突き動かすんですか?」
質問とも詰問ともいえないそれを富士雄は答えようとした。だが、口に出そうとして出てこない。
「あ……」
何とか言いかけようとしたとき、背中を思い切り押されるような衝撃を受けた。心臓が今までで一番大きく鼓動した。
『あるよ』
ようやく質問に答えたというのに、アヒムは目を丸くしていた。
富士雄はアヒムの胸をおして、自分の上からどかすと汚れた背中を叩いた。富士雄は自分でも荒っぽい仕草だと思った。
『今はそれどころじゃない。由紀ちゃん、探さなきゃ。兄さん、目星はつくの?』
富士雄は自分の言葉に首を傾げながら、弟の車の助手席のドアを開ける。サイドミラーに自分の顔がうつる。
なんだかバランスの悪い顔だった。
よく見ると、その目はちぐはぐな瞳孔の開き方をしていた。その左眼は、昼間のネコのように細い瞳孔をしていた。
〇●〇
しゃり、しゃりっと耳触りな音がする。
由紀子はゆっくり目を開ける。壊れた照明がまず目についた。それから、破れた視力検査のポスターに、古びた机、壊れた聴診器もある。もう使われていない診療所か何かだろうか。外から、虫の声が聞こえる。
由紀子は首筋に違和感を覚え、手を伸ばそうとするが動かない。その両手は強固な革ベルトでしめつけられており、足もまた同じである。長椅子か何かの上で寝かされており、あまった足ははみ出ていた。
恭太郎が目の前で切り刻まれたあと、由紀子はすぐさま逃げようとした。冷たいようだがそれが一番賢明な策だと思った。でも、鬼である茨木から逃げ切ることなどできず、背中を見せた瞬間に首筋にぶすりとなにかが刺さった。
(あれだろうか?)
誰もいなくなって久しい診療所の中に似つかわしくないブランド物のバッグが置いてある。その中から、小瓶がいくつかと大きな注射器がはみでていた。
(あんなもの刺さったんだ)
痛みは鈍くなったとはいえ、生理的に注射器は苦手なものだ。数か月に一度の検査で血液検査が行われるのが由紀子にとって一番苦痛であったくらいに。
しゃり、しゃりっ、音は隣から聞こえてくる。ドアはほんの少し開いており、そこから茨木の姿が見える。その手には、出刃包丁を持っていた。
(リアル鬼婆……)
緊迫しているはずなのに、ついそんなことを考えてしまうのが由紀子の悪い癖だ。でも、くだらないことを考えないとやっていけないときもある。
(どうしよう、どうしよう、どうしよう)
由紀子は身体がねじろうとするがうまく動かない。さっき刺されたものは、やはり薬物のようで由紀子の全身はしびれていた。歯医者で打たれる麻酔の感覚が、全身に残っている。
(関節外したら、抜けないか?)
ぎっちりしまった革ベルトは、手首の先を粉々に砕かない限りすり抜けそうになかった。
しかし、手首を揺らすとかちゃかちゃと音がする。ベルトからのびた鎖を固定している金具は、床に取り付けられている。急ごしらえなのか、ネジが緩まっているらしい。
(いけるか)
由紀子があがいているうちに、半開きのドアが完全に開いた。
「もうちょっとゆっくり眠っていればいいのに」
着物の袖をまくりあげた茨木がいた。その手には、よくとがれた包丁があったが、由紀子がそれ以上に注目したのは、それを持っている手だった。無数の注射針とメスの痕、そしてみみず腫れのようなものがびっしりと彼女の両腕には残っていた。みみず腫れは古傷のようで、それ以外はここ最近できたものがまだ治りきっていないようだった。
(どうして?)
茨木ならそのような傷すぐに治ってしまうのでは、と由紀子は考える。
そんな由紀子のわずかな表情の変化を読み取ったのか、茨木はくすくす笑う。
「醜い身体でしょ? 最近は、傷の治りも遅いし、昔の傷も浮かび上がってくるのよ」
そう言って由紀子に一歩ずつ近づいてくる。
「だからなのよね、あの人が私を見てくれないのも。きっと、この身体がいけないのよね」
包丁を自分の腕に付けるとそのまま赤い傷跡をつける。
血がだらだらと床に落ちる。
「あっ、いけない。これを脱ぐのは新しい皮を用意してからじゃないと」
(ええっと、新しい皮って?)
とても恐ろしい発言をさらりと言った。茨木はものすごく恐ろしい発言をした。物事を強調したい場合、重複して言ってしまうものである。
「きっと、今の私の姿だからだめなのよ。新しい、もっと若い姿に、肌になればきっと見てくれるわ」
ぶつぶつと茨木は言う。その目は狂気に彩られていた。
由紀子のこういうときにかなり回転の速い頭は、茨木が何をするのか導き出してくれる。由紀子の皮をはぎ、自分がそれを被ろうというのだ。
(無理、無理、無理、無理!!)
そんな衣替えでもするような簡単なことではない。もちろん、そんなことできるわけがない。
「適合性とか考えてる? 大丈夫。あなたも私も不死者だもの。同じ血が流れているわ。きれいに剥げばちゃんとくっつくわよ」
違う、違う。皮膚がちゃんと定着するかしないかの問題ではない。
ヒツジの皮をかぶろうがオオカミはオオカミで、由紀子の皮を被ろうが茨木は茨木だ。
そして、そんなことをしても出来上がるのはただの化け物だ。
茨木は由紀子が声を出そうと口を開けた瞬間に、布を突っ込まれる。麻痺した身体はうまく吐き出すことができず、一瞬息が止まってしまった。
狂気にまみれた茨木は今更気をかえる様子はない。
由紀子のそばに立ち、包丁を構える。
すぐさま振り下ろされるかと思われたそれは、由紀子の喉元で刃は止まる。
「あっ、そうだ。忘れてた」
茨木は鞄からがさごそと何かを取り出す。大きな注射器と小瓶、小瓶に針をさし液体を入れる。空になった瓶を床に転がすと、由紀子の首に突き刺した。液体が身体の中に押し込まれる感覚がする。
「ええっと、あともう一本どれだったかな? 車に置いてたほうの鞄かしら? 面倒くさいわね」
茨木が鞄の中をひっくり返している間、由紀子は首筋の感覚が変わってきたことに気が付いた。麻痺した身体がじんわりとだが動いている。
薬の副作用だろうか、由紀子の身体が先ほどより動きやすくなった。
茨木は着物の裾を滑らせながら診療所を出る。
由紀子はがちゃがちゃと手を振ってみる。ネジが少しずつ緩まり、左手が大きく振れた。
(とれた!)
由紀子は自由になった左手で、近くの机に置いてある包丁に手を伸ばす。そのまま革ベルトを引き裂くと、まだ麻痺の残る下半身をひきずりながら出口へと向かう。
匍匐前進をしていると、腰のあたりに違和感を覚える。
ポケットに手を入れると携帯電話があった。
(とりあげられてなかったのか)
ポケットには二つ、由紀子のものと山田家に渡されたものがあった。
由紀子は携帯を山田兄と姉にかけた状態にする。先ほど、不死者でなくなる選択を山田姉にしたばかりなのに早速頼ってしまう自分が嫌になる。由紀子はそれでも、死ぬよりマシだと割り切って考える。こういうしたたかなところは、由紀子は自分でも長所だと思っている。
あとは少しでも長い時間を稼がなくては。
(てけてけみたいだな)
ずいぶん昔に感じられる思い出を掘り返しながら、由紀子は両手を動かす。麻痺が両足までとれるのはもう少し時間がかかりそうである。茨木が出た出口とは反対方向の勝手口を開くと、外は緑が茂る森の中だった。
真っ暗で、電灯すらない。木の隙間からずいぶん遠くに民家らしき灯りが見える。過疎化した村だろうか。
由紀子は光とは反対方向を目指す。民家まで行くには拓けた田圃道を通らなくてはならず茨木は由紀子がいないことに気づけばすぐ見つかるだろう。ならば、真っ暗でも森の中のほうが見つかるリスクが低い気がした。
(それに、もし助けを求めたとしても)
ごくごく普通のヒトに助けを求めても、犠牲者が増えるだけだろう。狂った鬼は一般人など関係なく切り刻むかもしれない。
(少しでも、少しでも時間を稼がなくては)
由紀子が前へ前へと進んでいると、携帯がようやく誰かにつながったようだ。
由紀子は携帯電話を取りだしながら、そばにある木の影へと隠れる。
『由紀子さん、大丈夫ですか!?』
心配する声は山田兄のほうだ。
由紀子は声を出そうとするが、舌先にしびれが残っているのか、不明瞭な言葉をアヒルのように吐き出すことしかできなかった。
それでも、由紀子がまだ無事であることはわかったのだろう。
『いま、その付近にいます。すぐに見つけ出しま……』
山田兄の声は途中で途切れてしまった。
由紀子が電話を思わず落としてしまった。
「みいつけたあ」
にやりと笑う茨木、その手には大きな注射器を持っていた。
『……由紀子さん! 由紀子さん! あっ……、にい……』
転がった電話から山田兄の音声が響く。茨木は笑ったまま、草履でそれを踏みつぶした。
「大丈夫、これは痛くないから。少しずつ、少しずつあなたが消えていくものなの。だって、せっかく私の外見があなたになっても、あなたが不死身な限り、元の姿に戻るじゃない? 同じ人物が二人いると変でしょ?」
がんばって研究に協力したの、大変だったのよ、と傷痕を見せる。
たとえ不死者でも殺す薬、それが茨木の持つ注射器の正体らしい。それを由紀子に投薬し、由紀子が呪いをかけられなくなったところで、茨木は由紀子の生皮をはぐのだろう。
(やめて!)
口を開くが不明瞭な発音がもれるだけだ。茨木はゆっくりと由紀子の頭を押さえつける。由紀子は茨木に手を伸ばすが、力自体彼女が上で万力に締め付けられたような頭は動かない。
ゆっくり注射器の針が近づいてくる。
「私はずっとあなたがうらやましかった」
茨木が由紀子を見る。
「ずっと見てもらえるあなたがうらやましかった」
冷たい針の先が触れる感覚がして、由紀子は思わず目を瞑ってしまった。
一、二、三、四……、何秒たっただろうか。ほんのコンマ何秒だったかもしれないし、もしかした数分かもしれない。そんな曖昧な時間が過ぎた。
冷たい針の感触がなくなった。がちゃんと地面にガラスが割れる音がした。薬剤がこぼれ、地面に黒いしみを作る。
由紀子は恐る恐る視点を地面から上に移動した。
『待たせてごめん』
声が二重になって聞こえた。だが、その声の主は一人で茨木を挟んで由紀子の目の前にいた。
「しゅてん?」
茨木は目を見開いたまま後ろを振り返る。その口の端から、血が流れていた。
由紀子の横腹すれすれに長い刀身が木の幹に突き刺さっていた。そして、その根元を見ると、茨木の胸から突き出ていた。
『待たせてごめん』
それは、由紀子に対してでもあり、茨木に対してでもあった。
山田のその琥珀色の目は、片側は怒りに満ち、片側は悲しみに満ちていた。
茨木は満足そうな安らかな目をして、自分を傷つけたものを見ている。
まるでなくして大切な宝物を見つけた子どものような顔だった。