107 世の中、加算もあれば減算もある
「お前はもっと上の大学狙えると思うんだけどな」
進路調査票を机の上に置きながら担任は言った。あまりにお約束すぎる言葉に由紀子が苦笑いしてしまう。
たとえ由紀子の周りで何が起ころうと周りは受験色に染まっており、由紀子は受験生なのだ。
本当は、家業を継ぐと書きたかった。でも、二年になってこのがちがちな担任になってしまい、つい進路調査では家から一番近い大学を書いてしまう。あまり家から離れたくなかった。
「模擬テストで書いてあった大学じゃだめなのか? C判定なら今からでも十分だろう」
「……今回、たまたま良かっただけです。安全なほうを選びたいので」
由紀子の返事に担任は眉をしかめたままだが、とりあえず面談は終わった。由紀子は深く息を吐きながら職員室をでる。
(特になりたいものなんてない)
由紀子の言葉に嘘はない。ただ気になる大学の科はあった。祖父の影響か、株とか面白いと思うし、それに影響を与える社会の構造も案外楽しかった。模擬テストの志望校はそれに関係する大学と学科を選んだ。
自分が優柔不断な生き物だと思う。由紀子はけじめがつかないことを不甲斐なく思いながら、中庭を眺めた。中庭の真ん中で岩佐を中心とする男どもがどでかい木の棒に誰かをくくりつけている気がしたが無視する。由紀子の視線は、中庭の隅に向いた。
ヒガンバナが真っ赤な花を咲かせていた。毒々しい墓場に咲く花だと祖母は言うが、由紀子はこの花が好きだ。秋にのうのうと花だけを咲かせて、冬に葉だけだしてほかの植物を出し抜いて光合成をする。見た目の割にずいぶんタフでちゃっかりした花なのだ。
墓場の花というか、元々、土葬をしていた時代にネズミが墓を荒らさないために球根に毒のあるヒガンバナを植えたという。墓を守るために植えられた花なのだ。
由紀子は渡り廊下にでて上履きのまま中庭にでた。ヒガンバナの赤い花弁を見てある人物を思い出す。昔見た誰かの絵に般若の面に添えられてこの花があった。
(あの人外は一体どうなっただろう)
由紀子は地下牢で気絶し、気が付けば山田家の客室にいたのだ。夜会がどうなったのかも知らない。山田姉たちは、由紀子になにかを話していたがよく覚えていない。
(嫁入り前にもみじおろしするなんてなんて人外だ)
由紀子は頬をさする。そこには、すべすべとした肌があった。以前はニキビにも悩まされたが、今は逆に「どんなケアしているの?」とクラスの女子に聞かれるくらいだ。
確かに怒りや理不尽さはあの人外、鬼の茨木に対して感じてしまう。好きか嫌いかでいえばどう考えても嫌いだ。でも、それとは別に憐れみを感じてしまうのは気のせいだろうか。千年も思い続けている人外に相手にされない、死にたくても死ねない、忘れたくても忘れられない。由紀子の脳裏に、あのかまってもらいたくて仕方ない小さな子どもだった茨木を思い出した。純粋なまま大人になって、だからこそ曲げられないものがあるのだろうか。
(あれ?)
由紀子は、夢の中で見た山田の記憶を思い出しながら、首を傾げた。
(確か酒呑童子の首は……)
茨木童子が取り返したのではなかったか。
それに、事件のあとに生まれた山田姉や兄が、茨木のことを知っているということは、たまに山田青年の元に彼女が現れたことを示している。
でも、事件のあとの記憶には彼女はいただろうか。
たまたま見過ごしただけだろうか。
それとも。
「おーい、そこの生徒。上履きで外に出るんじゃない!」
先生が由紀子に対して注意した。
「す、すみません」
由紀子はびっくりして、水場に向かうと、上履きの砂を洗い流した。
「よろしい」
先生は満足した顔で去っていくが、由紀子は何とも言えない。
「あっちのほうなんで注意しないのかな」
由紀子は不服そうに、教祖かな美のもと邪教徒と化した岩佐たちと、サバトの生贄となったものを見るのだった。どんどこ太鼓をたたいているのでうるさくて迷惑なはずなのに。
前ならきっと中に入ってやめさせていただろうが、由紀子は見慣れたようで見慣れない生贄の顔を見ると、何事もなかったかのように通り過ぎて行った。
由紀子は母からいつもの配達する野菜を受け取ると山田家に届けるのが日課だ。
由紀子は呼び鈴を鳴らして玄関に誰か出てくるのを待つ。前なら、中庭にそのまま回って入っていくこともしばしばだったが、今はどうも慣れ親しんだ山田家ではない。
「由紀子ちゃん、いらっしゃい。お茶でもいかが?」
山田姉がお茶に誘ってきたが由紀子は首をふる。いつもならお言葉に甘えるのだが。
「すみません、受験勉強があるので」
「……そうなの、残念ね」
山田姉の顔はなんだかさみしそうだった。そういえば、由紀子よりも山田家の変化に動揺しているのは、その家族のほうだろうか。
「お勉強がんばってね」
本当はそんなことなかった。
勉強を理由に断るくらいなら、家の手伝いなんかやらないだろう。でも、由紀子が行かなければ、日高家の他のものが行くだろう。あまりに変わってしまった山田家の面々を見たらどう思うだろうか。
由紀子は中庭を見た。中庭、テラスの向かい側にある大きな木だ。まるで子どもが描くリンゴの木のような姿をしていたそれは、かわり果てた姿になっていた。
由紀子は思わず中庭に入ると、その木を眺めて視線を地面に落とす。赤く熟れた実もあれば緑色の実もある。落ちたトマトは潰れてひしゃげていた。枯れた葉っぱが枝にくっついたままで、無駄に増えすぎた葉が日光を遮り、実が赤く色づくのをさまたげているようだった。トマトの木を世話するものは、今の山田家にいないようだ。
撫子は不死王にずっと付き従っているらしい。それこそ、対等の立場でなく主従のように。
山田青年は、外を散歩しているという。念のため、ポチとハチがついている。
懐かしい田園風景を愛でる様子は由紀子も何回か見たことがある。それは、以前の山田父そっくりで誰も息子のほうだと気が付かないみたいだ。
彼はなにごとにも等しい愛を与えようとする。何気ない田園風景も空もなにもかもが愛おしいものだろう。
(ああ、そうだ)
由紀子は落ちた葉っぱを一枚つまんだ。
山田少年は丁寧にトマトの木を世話していた。おいしい実をつけるために、邪魔な葉や花を摘んでいたのだろう。でなければ、トマトの枝は自重で倒れてしまうのだ。
歪に曲がり、栄養を求めるトマトの木は、今年は越冬できないかもしれない。せっかく伸びた枝も葉もすべて枯れてしまうと思うと寂しかった。
山田少年はすべてを受け入れることはできない。自分が興味をもったものしか積極的に触れようとしなかった。
でも、山田青年は違う。すべてを等しく受け入れようとするからこそ、自分が特別に興味を持つものがない。
だから、山田少年が育てていたトマトが少しずつ荒れていこうが、自然のものとして受け入れるのだろう。山田青年にとってトマトの木も雑草も同じものなのだろうから。
由紀子は手を伸ばすと収穫されないまま実が割れてしまったトマトをとり、口に含んだ。ざらざらした感触は口触りが悪いが、噛み潰すとじゅわっとした甘みが広がっていく。
(もったいないよ)
せっかく美味しい実がついているのに、誰も食べようとしない、世話をしようとしない。
(なんで世話しないの、あの馬鹿は)
由紀子はトマトを飲み込むと上を向いた。今更、いないことに実感がわくなんてやめてもらいたい。勝手に消えてしまうなんて本当にだめな奴だ。
「何を泣いているんだい?」
聞きなれた、それでいて少し低い声が聞こえた。
由紀子は流れ出そうとするなにかを必死で目に留めながらゆっくりとその声の主に向いた。
「なんでもありません」
思わず冷たい声で反応してしまう。
「それよりも勝手に食べてしまってすみません」
「いいよ、気にしないから」
誰よりも柔和な笑みを向けるが、由紀子の顔はさらに堅くなる。青年は、それでも由紀子に向ける慈愛の表情は変わらない。
わかっている、由紀子は実に理不尽な反応をしている。本来、彼のものであるはずの肉体に彼が戻ってきてなにが悪い、そのはずだ。でも、由紀子はこの穏やかで優しすぎる青年が邪魔で仕方なかった。
「ゆっくり話す時間もなかったけど、『私』が世話になった」
「別にあなたのお世話なんてしたことありません」
由紀子は冷たく言い放ち、家に帰ろうと山田青年の隣を通り過ぎようとする。
「君はずっと私に不満を持っているようだけど、私がなにをすれば君は嬉しいんだい?」
首を傾げる彼は本当にわからないようだった。
(君なんて言い方はしない)
由紀子は「そんなものありません」と言い返そうと思ったが、動きを止めて山田青年を見る。
「山田くん、不死男くんはどこへ行ったか教えてください」
「富士雄は私だよ?」
悪びれることなく彼は言ってのける。当たり前のことだけれど、由紀子はそれが不愉快だった。
「……」
(あなたじゃありません)
喉元に引っかかった言葉を無理やり押し込める。かわりに我慢していた涙がぽろぽろと流れ落ちた。
彼にとって皆が皆平等だ。だから、皆が皆同じなのだろう。それは、自分自身も例外でないのだろう。中にどんな考えの人格がいてもそれは自分で同じものだという。
由紀子は、思わず笑いたくなった。
(そうだ、そうだよね)
周りに神のごとく扱われながら、その特別な存在である彼は自分を何者とも思わなかった。自分自身が皆と同じ、変わらぬものと思っていたからだ。
「あなたには大切なものとか、執着するものってあるんですか」
そんなものあるわけない、由紀子が言ったのは単なる嫌味だった。そのつもりだった。
でも、山田青年の口からきけたのは意外な言葉だった。
「どこかにあるはずだけど、見つからないんだ」
少しだけ落ち込んだ顔を見せた山田青年だが、その表情はすぐ元の笑顔に戻る。
由紀子は山田青年を見、次にリビングにいる山田姉を見る。山田姉は由紀子と山田青年が話しているところを聞いているようだったが、知らないわ、と言わんばかりにお茶をすすっている。お茶といっても中身は溶かしバターだろう。
にこにこと家事をするはずの山田母はいない。にこにこと虐殺される山田父もいない。
由紀子は、ずっと考えていた言葉を言うことにした。
「私をヒトにもどしていただけませんか」
迷惑なおとぼけ三人組がいなければ、ご近所に迷惑をかけることもないだろう。由紀子が、山田家のことに首をつっこむ必要はない。
別に茨木がヒトに戻れる方法を教えてくれるといってついて行ったのは、ヒトに戻りたいという確固たる意志があったためではない。自分の進む道を他人ではなく自分で選びとって進んでいきたかったから、その選択肢を知っておきたかったに過ぎない。
「君が望むなら、父に頼んでみるよ」
由紀子の頼みごとが聞けて満足そうな顔をする山田青年。
「ゆ、由紀子ちゃん!」
山田姉がテラスから飛び出してきた。やはり聞いていたらしい。裸足のまま由紀子に駆け寄る。その後ろには、いつのまにか帰ってきた恭太郎がいた。
「それが、どういうことかわかっているの?」
「決めたことです」
由紀子は言いきると山田姉の顔を見た。ここ最近、あまり顔を合わせずにいたが、彼女の顔はやつれているようだった。
「ねえ、由紀子ちゃん。それが……」
すがりつく山田姉は、とても成人した、しかも実年齢は何百歳という人外に見えなかった。
由紀子は山田姉がひどく不安定で危なげな様子に見えて声をかけそうになったが、それを遮ったのは山田青年だった。
「オリガ、わがままは言ってはいけないよ」
慈愛に満ちた青年は由紀子から山田姉を受け取ると優しく頭を撫でるのだ。幼子のような山田姉はネイルの施された爪を己の兄に突き立てるとそのまま顔を伏せていた。
早くおかえり、と山田青年は視線を由紀子に送り、由紀子は唇を噛みながら山田家を出た。
「おい、ちょっと待ってくれ!」
追いかけてきたのは、意外な人物だった。
由紀子は鼻をすすると、振り返った。そこには、ニートもとい恭太郎がいた。由紀子が恭太郎に興味がないように、恭太郎もこちらに興味がない。話しかけることなど稀なのに。
「どうしたんですか?」
由紀子は声が上ずらないように気をつけながら言った。正直、さっさと一人にしてもらいたかった。泣き顔のまま家に帰ることはできず、納屋で時間を潰そうと思っていた。
「……ヒトに戻るって本気なのか?」
「はい。元は事故みたいなものでしたから」
レバ刺しを食べて不死身になったなんてどんな冗談だろうか。
由紀子の言葉に恭太郎は眉を歪めながら言った。
「姉貴たちが、ヒトに戻れる方法を隠していたこと怒ってんのか?」
「最低限のルールだと思ってました」
信頼していたからこそ騙された気分にもなる。たとえ、それが由紀子を思ってやったことだったとしても。
恭太郎は気まずそうに頭をかく。その顔には、由紀子の気持ちもわからなくもない、という同情がでていた。
でも、彼は山田家の一員であり、由紀子よりも山田家の事情を知る人物である。
「フジオがああいう風になった理由について知ってるか?」
「なんとなくですが」
恭太郎に珍しく考えながら言葉を選んでいるようだった。
「姉ちゃんは怖かったんだよ、あんな女王みたいな偉そうな奴だけど、あれでけっこう小心者なところあるし、長女だからって気ぃはりすぎてるところもあるんだ。だから、うちの家族が変になったことも、自分がなんとかしなきゃって思いつめて、それで、あんたにゃあ悪いけど、兄貴、つまりアヒム兄のほうじゃなくて富士雄兄が戻ったことをすごく喜んだんだよ」
だけどな、と恭太郎は首の裏をかく。
「姉貴は考えなかったんだ。元のまともな、まああんまりまともじゃないけど、そんな家族に戻れると思ってたんだ。馬鹿で餓鬼な不死男や底抜けに明るいおふくろ、迷惑だけど怖くない親父、それがどこへ行くかなんて考えなかったんだ。何事もプラスされるだけじゃなくてマイナスにされることがあるなんて当たり前のことだったのによ。兄貴も同じなんだよ、頭はいいけどどっか融通が利かない、そんな奴なんだよ」
それは知っている。山田姉も兄もしっかりしているようでずれている。由紀子が山田姉たちに怒りを感じるのはもっともな感情だと思うが、山田姉のやつれ方を見ると彼女もまた悩んでいたのだ。
対して、まともに働かず女の子のおしり、いや胸ばかり追いかけている恭太郎が冷静な判断ができるのが不思議だった。山田姉たちと違って、こういう状況になることを予想していたのだろうか。
(まともな話もできるんだ)
由紀子は場違いと思いつつ感心した。意外なことを言う恭太郎は、さらに続ける。
「だから、もう少しだけ待ってくれないか? ヒトに戻ろうとかいうのも。あんたの身の安全のためにも」
「身の安全?」
由紀子が語尾にクエスチョンマークをつけると、恭太郎は慌てた様子で聞き返した。
「もしかして、姉貴たち、あんたがあの鬼女に襲われる可能性もあること、教えてなかったのか?」
「……それって茨木さん」
由紀子は、山田姉たちの話を自然と聞き流していた。脳の許容量いっぱいいっぱいの由紀子には、どんな情報も頭に入れたくなかったからだ。
「ああ、そうだよ。夜会の日から姿をくらましているんだ。やべーぜ。ああいう女は追い詰めると何をするかわか……」
恭太郎の言葉は最後まで聞き取れなかった。
それまで恭太郎の胴にくっついていた首は地面に転がった。切断面から勢いよく血液があふれだし、由紀子の目の前を真っ赤に染めた。
胴体も見えない速さで二つ三つに分解されていく。どれも均等な大きさになったところで、それは次々と投げ捨てられる。首は特に遠くに投げ飛ばされた。
「おひさしぶり、というほど別れていないかしら」
薄汚れた和服を着た角の生えた女がいた。その手には、日本刀が握られている。恭太郎の血が刀身から地面へと伝っていく。
(ああ、この着物)
由紀子は夜会のときにも着ていたその着物の名前を思い出した。時代劇で出てくるような着物、打掛だ。角隠しを被ったらそれは現代でも結構馴染み深い衣装となる。
花嫁衣裳、それを着て茨木は由紀子の前に再び立つのだった。




