96 そうだ、海へ行こう
青い空、白い雲、輝く水面、月並みな表現であるがこれがどこを示しているのか大体わかるだろう。
「うーーみーーーだーーーー」
人一倍はしゃいでいるのは岩佐で、サーフボードとシュノーケルというなんだか由紀子にも変だと思う組み合わせのものを持っている。もぐりながらサーフィンはできないだろう。
服の下に水着を着ていたらしく、その場で服を脱ぎだして女子の反感を買った。織部はそれ、脱ぎ捨てられた服をため息をつきながら片付ける。本当によい山羊さんだが、ビキニタイプの水着の上にボクサータイプの下着をつけていたらしく、それに気が付くと駐車場から道路に投げ捨てた。
「あっ、織部! なにしやがる!」
「こっちの台詞だ!」
ひらひらと飛んでいく下着を追いかけるシュノーケルをつけた海パン男、今が夏で場所が海でなければ通報されていただろう。
女子たちのざまーみろといわんばかりの中で、犬山だけははらはらと狼狽えている。やさしい女の子だ。
「去ね」
言い放つ織部のハーフパンツからもさもさあんよが見えて由紀子はちょっとどきどきしていたら、横から山田がにゅっと顔を出してきた。びっくりしてのけぞると、山田は、
「由紀ちゃん、はしたないよ」
と、少しすねた顔をする。
「な、なんのことかな?」
由紀子はしらばっくれるが、かな美も呆れた顔をするのでばればれのようである。由紀子は所在なさそうに小石を蹴る。
「それにしても、想像した通りすごいヒトゴミ」
「まあね、シーズンな上にこんなにいい天気なんだもん」
砂浜は人ばっかり、周りの道路は渋滞で、由紀子たちはかなり早く出たつもりだったがあいている駐車場を探すのに三十分もかかってしまった。
由紀子たちの他に岩佐が誘ったのは犬山を含めて三人、みんな高校生なので車の免許は持っていない。なので今回は運転手兼保護者として大人が一人ついてきている。
「おい、置いてくぞ」
ワゴン車の鍵を人差し指で回しながら言うのは恭太郎だ。まぶしいのかサングラスをし、いかにも若者らしい格好をした恭太郎は絵に描いたようなリアル充実者だ。
どうして彼が一緒に来ているかというと。
「荷物持ってバスや電車に乗るの面倒だよね」
と、誰かが言ったことで、交通手段は公共交通機関から誰か保護者に車で運んでもらうこととなった。
だが問題は車とその連れて行ってくれる保護者である。
夏休みとはいえ平日にお休みがとれる大人、かつ皆が乗れる車があるかどうかである。
すると、山田少年が言うのだ。
「うちにちょうどいいのがいるよ。車もあるし」
ちょうどいいのが恭太郎である。年中有休であるからして。
出かける前に恭太郎がお財布を嬉しそうになでていたところを見ると、どうやって説得したのか言わなくとも想像がつく。
(そういえば、前に夜会に行ったときワゴンがあったなあ)
由紀子はてっきりレンタカーだと思っていたが、ちゃんとした山田家所在の車だったらしい。普段は、別の駐車場にとめているという。良く考えてみると、流血がデフォの山田父が乗るものをレンタルなどできるわけがなかった。
おかげで多少渋滞に巻き込まれることはあっても、それほど苦なく到着することができた。
「この先に、兄さんの知り合いの店があるから、そこで着替えできるよ」
山田が指さす先にはいかにも若者が好みそうな店が並んでいた。普段は喫茶店のようだが、この時期は海の家としての機能のほうが大きいようだ。
「うん、なんとなく色の黒そうなおにいさんたちと仲よさそうだよね」
山田の言葉に由紀子は正直な感想を述べる。由紀子にとって恭太郎のイメージは、土下座、無職、チャラ男の三つである。
かな美はそのいかにもな容貌の恭太郎に近づいていく。かな美が唾を吐き捨てながら睨みつけるような人種に。
由紀子はちょっとはらはらしながら足早にかな美に近づくと、
「ありがとうございます。山田くんのおにいさん、おにいさんがお手すきで助かりました。それにしても平日にお休みなんて、学生かサービス業ですか?」
満面の笑みでかな美が言っていた。かな美も社交辞令くらい言えるが、それが地雷だと由紀子はわかっていた。どこまでわかっていっているのだろう。
それに対し、恭太郎は、
「う、うん、まあそんなところかな」
曖昧に答えるがどう聞いても嘘である。本人もどうやらニートであることを気にしているらしい。
「気にしてるなら働けばいいのに」
思わずつぶやいてしまう。
「それが、兄さんのアイデンティティなんだよ」
山田が「困った兄さんだよね」と言わんばかりに言う。
「……よくわかんないけど、嫌なアイデンティティだね」
「うん、ああ見えて還暦こえてるし、折れたくても折れられないものがあるんじゃないかな」
山田がしみじみという。
由紀子はなんとなくじっと山田のほうを見る。
「なに? 由紀ちゃん?」
山田がどこか嬉しそうに言う。
「いや、なんとなく、山田くんもそのうちあんな風になりそうかなって」
今の山田がまともに職に就いている姿など想像できない。山田姉と兄は、山田少年には甘いので無職でも許していそうな気がする。
山田は目をぱちぱちさせる。
由紀子はさらに続ける。
「山田くんが真面目に働く姿とか想像できないし」
山田はちょっと眉間にしわをよせた。さすがに少し気分を害しただろうか。
「由紀ちゃん、無職は嫌いですか?」
真面目な顔をして聞いてくる。
「嫌いというか、仕方ない場合もあるけど、動けるなら働こうよ、っていう教育方針だもん、うち」
農繁期になれば問答無用で手伝わせるのが日高家の大人たちだ。兄がさぼってゲームをしているのを見るとものすごく腹が立ってくる。
山田はあんぐりと口を開けたかと思うと、また真面目な顔に戻る。
「公務員と弁護士とお医者さん、由紀ちゃんどれが好き?」
「税理士かファイナンシャルプランナー」
そんな会話をしているうちに目的地に到着したのだった。
南欧風の洒落た喫茶店のマスターは、たしかに色の黒い男だったが髪の毛は白髪交じりだった。祖父ほどではないが、六十にはなっているだろう。ガタイがよく動きもきびきびしているので、とても若々しく見えるが。
「久しぶりだな。悪いな、無理言って」
恭太郎がカウンターに座ると、マスターはアイスコーヒーを恭太郎の前に置く。
「悪いなんて思うんなら、オリガさん連れてこいや。可愛い子いっぱい連れてきたのはいいけど、ちょっと若すぎるだろ」
「姉貴はやめとけって前から言ってんだろ」
恭太郎との会話を聞く限りまだまだお若いようだ。外のテラス席にはバイトが走り回っており、「マスター仕事しろ」と視線を向けている。
「ほれ、そこに鍵あるから、二階の二部屋使ってくれ。今回だけ特別な」
カウンターの上にある鍵と、吹き抜けの二階の部屋を指さす。
「っつうことだ、おまえら勝手にやってろ」
じゃあ、おかまいなく、と由紀子たちは二階へあがり、鍵を開けてはいるが何気に、海パンの変態ときりりとした顔の残念美少年が一緒に入ろうとしたので、かな美に蹴りだされた。
織部が追い出された二人を引き取ろうとするが、山田が重くて運べず、しかたなく由紀子が山田の襟首をつかんで隣の部屋に入れた。
今日一日、まったく気苦労が絶えなさそうだ。
「今年は由紀ちゃん、がんばってるね」
かな美がなんだか不安そうな顔をする。「そう?」と他の女子たちが聞き返す。岩佐が追加メンバーに入れたのは、犬山と仲の良い女子二人だった。野郎を増やそうとしないのがまったく彼らしい。
「そ、そうかな?」
由紀子はたじたじになりながら返事をする。なにががんばっているかといえば、水着だったりする。
実は由紀子の水着選びは大変なのだ。
デザインもそうだが、素材がどれだけ丈夫か、というのは大きな課題である。由紀子の筋力は無駄に高いので、ちょっと力をいれるとはじけるような素材ではいけない。スクール水着なら問題なかったが、縫製の甘いものを着てしまうとかなり不安になる。それは、普通の服にも言えることである。
(無難なツーピースが良かったんだけど、でなきゃワンピースタイプ)
身長が高くなったのが裏目にでた。少しサイズの大きなものを買っておけば問題はないのだが、由紀子は身長でフリーサイズでもぎりぎりなので着れず、上下がつながったワンピースタイプは特に危険である。ツーピースタイプも縫製が甘いものが多くて着れそうになかった。高校生のお小遣いでは、予算はバーゲンの均一ものに毛が生えたものくらいしか買えない。
どう妥協するか、いくつか候補を選んでにらんでいたら、しびれを切らしたのは買い物に付き合ってくれていた彩香だった。よりによって、候補としてあげながらも「これはちょっとないだろう」と思っていたものをレジに持って行ったのだ。
それが今の水着である。
下はショートパンツのビキニタイプだ。上はスポーツブラの形状だが、お腹と背中がほとんど見えてしまうのは、由紀子にとって冒険である。
(やっぱ恥ずかしいかな)
由紀子は一応持ってきたパーカーを着るか、着ないか迷っていると、部屋のドアをノックする音が聞こえた。女子の着替えが遅いのでしびれを切らした男どもである。
「うっさいわね」
かな美が面倒くさそうに開ける。みんな着替え終わっているのでその点は問題ない。
ドアの正面にいたのは山田だけで、サーフパンツにパーカーを羽織っていた。良く似合っている。
「他の二人は?」
「下でカレー食べてる、おかわりは三杯までだって」
「三杯までかあ」
由紀子はちょっとがっかりした声で言う。
「食べ放題だとお店、潰れちゃう……」
消え入りそうな声で犬山さんがつっこみを入れた。元クラスメイトだけに、由紀子の食欲は重々承知である。
(うん、わかっている)
かきいれ時に部屋を貸してくれるだけでもありがたいのに贅沢を言ってはいけない。
由紀子は部屋から出ようとすると、山田が手のひらを見せて制止した。
「なに?」
由紀子が真面目な顔をする山田に言う。山田は顎を撫でながら、「うむ」と満足げに頷いた後、着ていたパーカーを脱ぐとそのまま由紀子にかけて、ファスナーを閉めた。
山田はそのまま階段をぱたぱたと降りて行った。
「恭太郎兄さん、大盛りお願い」
「うっせー、自分でつげ」
恭太郎はいつのまにか、前掛けをして頭にタオルを巻いて、段々増えてきた客の応対をしていた。
「なんで、俺がこんなこと」
恭太郎がぼそぼそ言ってると、地獄耳らしいマスターが、
「おまえがオリガさん連れてこねえのが悪い。しっかり働け」
と、蹴りを入れた。
(ご愁傷様)
とりあえず一時的でも、無職じゃなくなったのだからよかったのでは、と他人事と思い、由紀子は皿に盛るだけ盛ったカレーをいただくことにした。




