小話 2DK
「やる気のない子どもね」
小さなころから言われ続けてきた言葉だ。
それを言うのは親戚のおばさんたちで、他の子どもたちが外で大騒ぎする中、自分だけは縁側に座ってぼんやりと空や地面を眺めていた。
子どもは元気で好奇心旺盛なほうがよい、それが親戚一同の考え方で、可愛げのない自分は、自然とつまはじきされていた。
いや、つまはじきされた理由はもうひとつあった。
自分には妹がいるが、そいつとはあまり似ていない。理由は片親が違うからだ。
自分を産んだ母親は、自分が五歳のときにいなくなった。死んだのではない。いなくなったのだ。
元々、その母、自分の祖母も母が幼い頃にいなくなっている。これは、祖父が死んだときに家から出て行ったとのことだ、幼い母をおいて。
真実は違うことをなんとなく新之助は知っている。閉鎖的な社会に生きている母の実家が、どこぞの馬の骨かもわからないよそ者の女をいつまでも家に置いておかなかったのだろう。
母は一応長男の娘として育てられたが、家を継ぐことはなく高校卒業のち父と結婚してさっさと家を出た。
その母も結婚生活が十年も続かないうちに失踪した。
父は、再婚した後も特に自分をないがしろにすることも、気をつかうこともなかった。ある意味、理想の父だったろう。
継母も淡泊な性格で、過剰に気を使われることはなかった。他人に干渉されることが苦手な自分にとって、何も言わず学校に通わせ、食事をくれる保護者は、これまた理想的な母であった。
ぼんやりした子どもと言われて、何を考えているのか、とよく言われたが、自分からすると見てわからないほうが不思議だった。
雲の流れは風の流れを目視することができる、それが面白かった。
無数のアリがトカゲの死骸にたかり骨だけにしていく、それが面白かった。
何かの流れや動きを見たり感じたり、その構造を観察するのが楽しかった。
おかげで理科の授業はいつも百点だった。
より面白い授業を受けるために、より難しい学校に通う必要があった。過干渉はしない親たちだったが、教育費をけちるような真似はしなかった。
順調に進学校に通ううち、担任に薦められるまま医学部を目指すようになった。
予備校に通い始めたころ、妙な友人ができた。
今まで、友人関係といえば、学校生活に支障がない程度の群れで過ごしていたのだが、個人的に仲良くなったのはそいつがはじめてだったろうか。
同じ大学、同じ学部を目指すいわば蹴落とすべき相手だが、妙に気が合ったのは、その性質ともいえる。
二つ年上の奴は、変わり者だが騒がしさがなく、それが無口な自分にとって落ち着く奴だった。
そいつ、いや彼女は物事を分析することを趣味としていた。
暇さえあれば、壊れた電化製品を分解していた。
自分との出会いも、時計が壊れたからいじっていたら、「貸して」と言われて貸した。てっきり直してくれるものかと思ったら、歯車になって返された。
呆れたを通り越して笑ってしまった。あまり人前では笑わなかったのに、ついツボに入りまさに身をよじってしまった。
ともに構造を理解することに興味を持っていた、それだけだった。
話といえば、常人には首を傾げるような内容だったろう。あるときは、化学式について、あるときは料理について。化学式は物の構造を端的に表したものであるし、料理は材料と調味料をいかに組み合わせることによって「うまく」なることを考えれば、十分分析対象になる。原料の肉はニワトリを丸ごと買ってきて構造を確認しながらさばいていた。
若さゆえか、異性同士であれば友情なのか愛情なのかわからなくもなっていく。
流される形で付き合うようになり、大学生活が始まったら同棲することにしていた。
受験は無事終わり、合格通知はともに来ていた。アパートは大学から少し遠いが広めの部屋を選んでいた。
どちらがより美味しい料理を『構造』できるか、食べた方はどんなものを使ったか『解析』できるか、真っ白な息を吐く中、二人で語った。
だが、そんな現実は二度と来なかった。
彼女は死んだ。
昨日まで元気にしていたのに、いきなり倒れて死んだ。
死因は脳溢血だった。
数日前、転んで頭をぶつけたと言っていた。
ちょっとくらくらするけどなんでもないと言っていた。
たかだかそれが原因だった。
あまりの出来事になにもかもわけがわからなかった。
何も考えることはできなかった。しかし、今更大学をやめることもできずだらだらと新生活が始まった。
学生の一人暮らしには少々贅沢な2DKの部屋。
ぼんやりと流されるまま新生活を送った。
国立とはいえ、医学部の授業料は安くなく、親の仕送りだけでは生活できないものがあった。
なので、家庭教師といったバイトをし、生活費を稼いでいたが、より効率のよいバイトをいつも探していた。
そこで舞い込んできたのは、まさに医学部らしいバイトだった。
死体の洗浄作業。
献体された遺体を洗ってホルマリンに漬け込むのだ。
時給の高さに目がくらんでやったのは偶然だった。
そして、見たことがある名前を見つけたのも偶然だった。
彼女は献体同意書にサインしていた。
彼女の墓には彼女の肉体はない。髪がひと房、遺灰の代わりに入っているだけだ。
骸骨のようなミイラのような骨と皮だけの肉体は、髪の毛すらなかった。たまに気にしていたぷにぷにした二の腕も、弾力のある肌もない。
そこにあるのは遺体、ただの魂の抜け殻だった。
彼女はそこにいない。
それはわかっている。
そこにあるのは彼女が入っていた抜け殻で、今は似ても似つかぬ姿だ。
わかっている、わかっているのだけれど。
「いつか、私は私がどんなものか知りたいの」
生前の言葉を思い出した。
ものの構造を何でも知りたがる彼女は、その中に己の肉体も含まれていた。
献体などという手続きを成人してすぐ行ったのも、それが理由だろう。
ふと、目からなにかが零れ落ちた。
「……俺だって、知りたいよ」
もっともっと彼女のことを知るはずで、もっともっと自分のことを知ってもらうはずだった。
それなのに、もうそれが叶うことはない。
ただ、知りたい。知りたいだけだ。
執着という名の知識欲に飲まれた頭は、いつのまに具体的な計画を練りだしていた。
誰もいなくなるのを狙って、彼女と二人きりになるように。
道具も用意しなくては。
手ぶらでは何もできない。
「綺麗に研がれたものを準備しないとな」
彼女をきれいに切り刻むメスが必要だった。
「おい、ババア」
新之助は半眼で、自分よりも若々しい祖母を見る。
「なんだ? 愚孫よ。ババアは忙しいんだが」
ババアは無駄にシルバーアクセサリーがついた服を着ている。新之助の記憶が正しければ、初めて見るデザインだ。
「今月の食費がもうないんだけど」
「そうか。おまえはまだ食べ盛りだからな」
「一世紀半生きてきて毎朝パン一斤食べるババアに言われたくねえ」
少なくともヒトの三倍は食べるのだ、このババアは。その上、肉体の密度もヒトの比重よりずっと重い。どうなっているか気になるので、早く死んでくれないかと思う。
「用件は簡潔に。バイトがあるんだ」
「いや、昨日まであった食費が今はなくて、なんでこんなものがあるんだ?」
と、新之助は代金引き換えの紙を見せる。どこぞのネットオークションの出品者らしく、品名は『衣料品』となっている。
そして、その引換金額はちょうど消えた食費とぴったり合うのだ。
「なーにそんなもんに金払ってんだよ」
「おお、最近の若者は恐ろしいな。ババアに代金踏み倒せというのか、そちもワルよのう。だが、ババアは貧しくともそんな世間に顔向けできないことはしないぞ」
なぜか威張るババア。
「孫が飢えても問題ないのか?」
「大丈夫だ、私も小さいころは蛇や蛙を食べて幼少期を過ごした。慣れたらけっこういけるぞ」
「いつの時代を言ってんだ!」
ババアはのらりくらりと新之助の言葉をかわして、さっさと出かけてしまった。残ったのは、散らかったままの段ボールと脱ぎ散らかした服である。
「くそババアめ」
新之助は段ボールをたたみ、服を洗濯籠に投げ入れる。
だるそうな顔でそのままベランダに出て乾いた洗濯物を片付ける。
「夜勤があんだけど、飯無しってきつくねえか?」
思わず独り言をもらしてしまう。冷蔵庫の中は空だ。財布に五千円札が入っているが、光熱費のために取っておきたい。近所の大衆食堂でつけにしてもらって牛丼でも食べようか。
洗濯物の八割は、ババアのもので邪魔なくらいごてごてしたデザインの服ばかりだ。
新之助は部屋の三分の一をしめるババアの衣装ケースを見る。
「けっこう狭いんだな、2DKって」
新之助は取り込んだ洗濯物をたたみもせずに、衣装ケースに投げた。