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異世界に逃げたのに、元いた会社が支社を作ってきた

作者: アラベ幻灯
掲載日:2026/05/09

異世界に来た時、彼は思った。


――これでもう、会社はない。


そう思っていた。


一年後。


元いた会社が、その異世界に支社を作った。


これは、剣と魔法ではなく、

スーツとネクタイと七つの月の話。

過労で死んだ。


目が覚めた時、彼は異世界にいた。


最初に思ったのは、魔法でもドラゴンでもなかった。


――これでもう、会社はない。


上司もいない。

報告書もない。

飲み会もない。


それだけで十分だった。


彼に最初に与えられた仕事は、鋼を作るための鉱石集めだった。


山肌にへばりついた鉄鉱石を砕き、背負って、王都まで運ぶ。


報酬は安かった。

腰も痛くなった。


だが、日が沈めば終わった。


誰かに進捗を聞かれることもない。

明日の予定を勝手に決められることもない。


疲れてはいたが、その疲れは自分のものだった。


夜になると、七つの月が空に浮かんだ。


草の上に寝転びながら、それを見上げる時間があった。


地球では、そんな時間はなかった。


一年が過ぎた。


彼は勇者にはならなかった。


冒険者としては、上の下くらいだった。


ドラゴンの巣を調査し、巣の周囲に積もった排泄物を回収する仕事もした。

王国ではそれが高級肥料になる。


夢はなかった。


だが、生活はあった。


王都で、たまに彼女を見かけた。


王国の英雄。


誰もが知る勇者だった。


遠くからでも目を引く。

完璧な存在だった。


もちろん、彼女が彼を知ることはなかった。


それでよかった。


同じ空の下にいる。それだけで十分だった。


変化が訪れたのは、その年の秋だった。


異世界と日本の正式な通商が始まった。


王都は祭りのようだった。


新しい精錬技術。

輸送効率の改善。

採掘の大幅な最適化。


それは本当に、良いことだった。


だから最初、誰も気づかなかった。


彼が異変を感じたのは、その翌朝だった。


ギルドの前に、何人もの冒険者が立っていた。


だが、誰も革鎧を着ていなかった。


黒いスーツ。

白いシャツ。

細いネクタイ。


その光景を見た瞬間、彼は理解した。


――ああ、来てしまった。


あの世界が。


数週間後、彼もその会社に入った。


現場を知る人間が必要だった。


どの山に鉱脈があるか。

どの冒険者が信頼できるか。

どのルートが安全か。


そういうことを知る人間は少なかった。


最初は、手伝いのつもりだった。


だが気づけば、机の上に書類が積まれていた。


以前は、好きな時に、好きなやり方で鉱石を運んでいた。


今は、決められた形式で、決められた時間に報告書を書く。


以前は、日が沈めば終わった。


今は、誰かが終わりと言うまで終わらない。


ある日、会議室に入った彼は足を止めた。


そこに、彼女がいた。


王国の英雄。


今は、紺色のOLスーツを着ていた。


王国と会社の連絡役になったのだと、後で聞いた。


合理的だった。


彼女は現場を知っている。

王国からの信頼もある。


誰もそれを不自然とは思わなかった。


彼もそうするしかなかった。


その夜、初めて同じ飲み会に出た。


社長が笑う。

上司が笑う。

みんな笑う。


グラスがぶつかる。


にぎやかだった。


だが、どこにも本当の会話はなかった。


その時だった。


彼女が、一瞬だけ目を閉じた。


ほんの一瞬だった。


誰も気づかなかった。


だが彼は見てしまった。


王国の英雄ではなく、ただ少し疲れている一人の人間として。


それから何度か、同じ飲み会があった。


最初は会釈だけだった。


次は、短い一言。


「お疲れさまです」


その次は、同じテーブルになった。


彼は、彼女がビールをあまり好きではないことを知った。


彼女は、彼が飲み会の最後に少しだけ黙ることを知った。


劇的なことは何もなかった。


ただ、少しずつ、お互いが役職ではなくなっていった。


ある朝、前夜の飲み会でほとんど眠れないまま出社した。


中央集積所には、夜明けから大量の資源が運び込まれていた。


鉄鉱石。

ドラゴン肥料。

魔力結晶。


荷車の音が、朝の空気を震わせていた。


彼は眠い目でそれを見た。


隣で、彼女が小さく目をこすった。


その瞬間だけ、妙に安心した。


ああ、この人も同じなのだと思った。


決定的だったのは、その冬の飲み会だった。


社長が立ち上がった。


「皆さんに、大きな報告があります」


部屋が静かになる。


「我が社は、日本企業とこの異世界の多元的協働の次なる大きな一歩として、来春より他王国への新規支社展開を開始します」


拍手が起きた。


グラスが上がる。


笑顔が広がる。


その瞬間、彼の背中に小さな痛みが走った。


反射的に横を見る。


彼女も、ほんのわずかに背筋を固くしていた。


言葉はなかった。


けれど、その時、確かに通じた気がした。


また忙しくなる。


また眠れなくなる。


また、この世界は前へ進む。


飲み会が終わるころには、夜風が冷たくなっていた。


二人は、なんとなく同じ方向へ歩いた。


少し酔っていた。


しばらく何も話さなかった。


やがて彼女が、小さく笑った。


「昔は魔物を斬っていたのに、今は書類ばかりですね」


彼も笑った。


「前は鉱石を運んでました。今は報告書です」


彼女も笑った。


今度は、会社の中で見せる笑い方ではなかった。


七つの月が、静かに空に浮かんでいた。


足を止めたのは、どちらが先だったのか分からない。


ただ、その夜だけは、何かを演じる必要がなかった。


彼女の顔が近づいた。


唇が触れた。


それは恋に落ちたというより、ようやく誰かがここにいると確かめるためのものだった。


明日も仕事はある。


会社も消えない。


新しい支社もできる。


世界はきっと、もっと便利になる。


それでも、その夜だけは違った。


七つの月の下で、彼は初めて、この世界でひとりではないと思った。

挿絵(By みてみん)

ここまで読んでくださって、ありがとうございました。


人は本当に疲れている時、休みたいのではなく、

ただ「同じ痛みを知っている誰か」が欲しくなるのかもしれません。


異世界がどれだけ便利になっても、

そのことだけは、きっと変わらないのだと思います。


感想をいただけると嬉しいです。

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