異世界に逃げたのに、元いた会社が支社を作ってきた
異世界に来た時、彼は思った。
――これでもう、会社はない。
そう思っていた。
一年後。
元いた会社が、その異世界に支社を作った。
これは、剣と魔法ではなく、
スーツとネクタイと七つの月の話。
過労で死んだ。
目が覚めた時、彼は異世界にいた。
最初に思ったのは、魔法でもドラゴンでもなかった。
――これでもう、会社はない。
上司もいない。
報告書もない。
飲み会もない。
それだけで十分だった。
彼に最初に与えられた仕事は、鋼を作るための鉱石集めだった。
山肌にへばりついた鉄鉱石を砕き、背負って、王都まで運ぶ。
報酬は安かった。
腰も痛くなった。
だが、日が沈めば終わった。
誰かに進捗を聞かれることもない。
明日の予定を勝手に決められることもない。
疲れてはいたが、その疲れは自分のものだった。
夜になると、七つの月が空に浮かんだ。
草の上に寝転びながら、それを見上げる時間があった。
地球では、そんな時間はなかった。
一年が過ぎた。
彼は勇者にはならなかった。
冒険者としては、上の下くらいだった。
ドラゴンの巣を調査し、巣の周囲に積もった排泄物を回収する仕事もした。
王国ではそれが高級肥料になる。
夢はなかった。
だが、生活はあった。
王都で、たまに彼女を見かけた。
王国の英雄。
誰もが知る勇者だった。
遠くからでも目を引く。
完璧な存在だった。
もちろん、彼女が彼を知ることはなかった。
それでよかった。
同じ空の下にいる。それだけで十分だった。
変化が訪れたのは、その年の秋だった。
異世界と日本の正式な通商が始まった。
王都は祭りのようだった。
新しい精錬技術。
輸送効率の改善。
採掘の大幅な最適化。
それは本当に、良いことだった。
だから最初、誰も気づかなかった。
彼が異変を感じたのは、その翌朝だった。
ギルドの前に、何人もの冒険者が立っていた。
だが、誰も革鎧を着ていなかった。
黒いスーツ。
白いシャツ。
細いネクタイ。
その光景を見た瞬間、彼は理解した。
――ああ、来てしまった。
あの世界が。
数週間後、彼もその会社に入った。
現場を知る人間が必要だった。
どの山に鉱脈があるか。
どの冒険者が信頼できるか。
どのルートが安全か。
そういうことを知る人間は少なかった。
最初は、手伝いのつもりだった。
だが気づけば、机の上に書類が積まれていた。
以前は、好きな時に、好きなやり方で鉱石を運んでいた。
今は、決められた形式で、決められた時間に報告書を書く。
以前は、日が沈めば終わった。
今は、誰かが終わりと言うまで終わらない。
ある日、会議室に入った彼は足を止めた。
そこに、彼女がいた。
王国の英雄。
今は、紺色のOLスーツを着ていた。
王国と会社の連絡役になったのだと、後で聞いた。
合理的だった。
彼女は現場を知っている。
王国からの信頼もある。
誰もそれを不自然とは思わなかった。
彼もそうするしかなかった。
その夜、初めて同じ飲み会に出た。
社長が笑う。
上司が笑う。
みんな笑う。
グラスがぶつかる。
にぎやかだった。
だが、どこにも本当の会話はなかった。
その時だった。
彼女が、一瞬だけ目を閉じた。
ほんの一瞬だった。
誰も気づかなかった。
だが彼は見てしまった。
王国の英雄ではなく、ただ少し疲れている一人の人間として。
それから何度か、同じ飲み会があった。
最初は会釈だけだった。
次は、短い一言。
「お疲れさまです」
その次は、同じテーブルになった。
彼は、彼女がビールをあまり好きではないことを知った。
彼女は、彼が飲み会の最後に少しだけ黙ることを知った。
劇的なことは何もなかった。
ただ、少しずつ、お互いが役職ではなくなっていった。
ある朝、前夜の飲み会でほとんど眠れないまま出社した。
中央集積所には、夜明けから大量の資源が運び込まれていた。
鉄鉱石。
ドラゴン肥料。
魔力結晶。
荷車の音が、朝の空気を震わせていた。
彼は眠い目でそれを見た。
隣で、彼女が小さく目をこすった。
その瞬間だけ、妙に安心した。
ああ、この人も同じなのだと思った。
決定的だったのは、その冬の飲み会だった。
社長が立ち上がった。
「皆さんに、大きな報告があります」
部屋が静かになる。
「我が社は、日本企業とこの異世界の多元的協働の次なる大きな一歩として、来春より他王国への新規支社展開を開始します」
拍手が起きた。
グラスが上がる。
笑顔が広がる。
その瞬間、彼の背中に小さな痛みが走った。
反射的に横を見る。
彼女も、ほんのわずかに背筋を固くしていた。
言葉はなかった。
けれど、その時、確かに通じた気がした。
また忙しくなる。
また眠れなくなる。
また、この世界は前へ進む。
飲み会が終わるころには、夜風が冷たくなっていた。
二人は、なんとなく同じ方向へ歩いた。
少し酔っていた。
しばらく何も話さなかった。
やがて彼女が、小さく笑った。
「昔は魔物を斬っていたのに、今は書類ばかりですね」
彼も笑った。
「前は鉱石を運んでました。今は報告書です」
彼女も笑った。
今度は、会社の中で見せる笑い方ではなかった。
七つの月が、静かに空に浮かんでいた。
足を止めたのは、どちらが先だったのか分からない。
ただ、その夜だけは、何かを演じる必要がなかった。
彼女の顔が近づいた。
唇が触れた。
それは恋に落ちたというより、ようやく誰かがここにいると確かめるためのものだった。
明日も仕事はある。
会社も消えない。
新しい支社もできる。
世界はきっと、もっと便利になる。
それでも、その夜だけは違った。
七つの月の下で、彼は初めて、この世界でひとりではないと思った。
ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
人は本当に疲れている時、休みたいのではなく、
ただ「同じ痛みを知っている誰か」が欲しくなるのかもしれません。
異世界がどれだけ便利になっても、
そのことだけは、きっと変わらないのだと思います。
感想をいただけると嬉しいです。




