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悪夢  作者: 冴木凜子
5/5

牢獄

※差別用語が、使われています。

「お前達の抜けた髪の毛が気持ち悪いね。一日、五十本抜けるだって。臭いし、汚いし。いるだけで、うるさいよ」


 女に嫌がられて、家の中で、髪の毛を拾って歩くようになった。


「しわくちゃよ。干す前に、しわ伸ばしているの? 何にも知らないんだね。色移りしちゃってんじゃないの。弁償しなさいよ」


 何をやっても、女に、怒られる。ときに、無理なことも言われる。


「皿がまだ汚れてんじゃない。目つぶれてんじゃないの。黙ってつっ立ているだけで、なんにもしゃべられないんだね。知恵おくれ。聞こえないのかよ。そんなんじゃ、変質者に誘拐されるよ。男に連れて行かれても、黙っていそうだね。あんたみたいなのは誘拐されて殺されるんだよ。気を付けな」


 自分は何もできない犬のようだと、絶望感でいっぱいになる。犬だったら、飼い主に飼ってもらえばいいけど、私はこの先、生きていけるのだろうか。女に頼るしか、生きられない。生まれ付きの知的障害者なのだから。家を追い出されたら、おしまいだ。


 ここ何日かで、ものすごくたくさん、女にひどいことを言われた気がする。一つ、一つ、反省して、改めないといけないと思うけど、追い付かない。


 女からひどい言葉しか言われない。だから、慣れた。ドッジボールでボールが当たったときと同じ。そのときは傷付くけど、すぐに忘れる。歩きにくい砂浜でも歩き続けていると慣れるように、気にならなくなった。傷付いたことすらすぐに忘れるから、私はバカだ。


 学校から、家庭科の道具を持って帰った。黒い糸で、お兄ちゃんの学ランをぬった。家庭科はいつも成績がよい。課題が終わらないペンギンちゃんに泣きつかれて、自分の提出しおわった課題を貸してあげたら、ペンギンちゃんもAをもらっていたくらい。


「おお、いいじゃん」


 お兄ちゃんは、ぬわれた学ランを受け取って、両手でかかげる。その反応が物足りない。ペンギンちゃんくらい飛び跳ねて喜んでくれてほめてくれたら、やってあげがいがある。お兄ちゃんはやってもらって当たり前、もらって当たり前なとこがある。


 お兄ちゃんは、だいぶやせた。女に食べさせてもらえないせいだ。元々、体が大きい方じゃないから、ちっちゃくてやせていて、恵まれない国の子供みたい。


 お祖母ちゃんに買ってもらった、可愛いキャラクターもののノートを見せる。


「いる?」

「いる」


 ノートを三冊あげた。


「教科書は? どうにかなっているの?」


 お兄ちゃんは、ああ、うんといった、どっちなのかわからない返事。


「お兄ちゃんとかお姉ちゃんがいる友達にくれるか、聞いてあげようか」

「自分で聞くからいい」


 お兄ちゃんはきっと、私が言ったからそのアイデアを思い付いたのに、自分が良い事を思い付いたようにうなずいている。


「宿題は?」


 お兄ちゃんは、ほいほいとプリントを出す。今までは代わりにやってあげるときお兄ちゃんの教科書のその部分を読んで、書き写していた。教科書が切り刻まれてないが、勉強の貯金があるからできると思った。でも、少しも、わからない。問題文が理解すらできない。教科書がないから難しいと、私は誤魔化した。お兄ちゃんは私ができないことに、首を傾げる。


 ショックだった。私は馬鹿になってしまった。生理がくるようになったせいかもしれない。


 朝起きて、台所に行ったら、私がお兄ちゃんにあげたノート、ぬった学ランが、ぎたぎたの、めためたになって、見ろというように展示されていた。あの夜を、お兄ちゃんのかばん、教科書、ゲーム機の残がいが並べられていた光景を思い出す。女が壊しながら笑っている顔が見える気がした。


 起きて来て、台所を見たお兄ちゃんはどうせそうだったのだからと、気にしていない風。普段着で家を出ていく。せっかくぬったのが意味なかったと、私の方がショックだった。お兄ちゃんに、何をあげても、女にすぐに壊されるから、無駄だと痛感した。

 

 ランドセルを背負って、登校する。体がくたくたで年中、眠かった。担任が来るまで、机に突っ伏していた。


「くせえよ。お前、なんか臭う」


 隣の席のみやしが、机を離す。

 委員長がみやしに、ひどいと注意する。

 昨日、頭を洗うのを忘れたことを、思い出す。歯磨きするのもだ。

 洗濯、掃除などの家の仕事、宿題、学校の準備、着替え、食べ物にありつく、女の怒りを買わないなど、することが多過ぎて、全部が全部ちゃんとできなかった。自分に関することはおろそかにしてしまう。


 半日、無視をしたら、みやしは言わなくなった。


 委員長も、ペンギンちゃんと一緒で、なんにも言わなくなった。

 担任の先生は、私が落ち込んでいて暗くても、三日に一度しか体を洗えていなくて服を着替えていなくても、何も言わない。前と比べものにならないほど宿題をやらなくなって忘れ物が多くなったけど、他の忘れ物をした男子たちと一緒にしかってくる。保健室の先生は、ろう下ですれちがっても、何も言ってこない。交番のおまわりさんはあれから一回もパトロールをしに家に来てくれない。


 大人は、誰も私の言うことを聞いてくれない。助けてくれない。そういうものだ。


死ねばいい。殺したい。帰ってくんな。


 女は基本、お兄ちゃんを無視しているが、顔を見ると、ひどい言葉をぶつける。

 まるで、お兄ちゃんへのいじめだ。

 それなのに、私はまだお兄ちゃんよりましだと、ほっとしている。お兄ちゃんより嫌われていない。お兄ちゃんより、どうしようもなくない。障害者でない。お兄ちゃんは女が言うように障害者なのだろう。間違いない。


 お兄ちゃんはどんなにひどい目にあっても、毎回、怒鳴り返して、暴れる。お兄ちゃんの言い返す言葉は、くそばばあと死ねだけだけど。


脳たりん、生きている意味ない、価値ない、最低なクズ、嘘吐き、死ね。


 女にどんなことを言われても、お兄ちゃんは傷付いた顔をしない。すごいな。

 でも、何度でも歯向かって学習能力がない。やっぱりバカだな。

 女から「お前も、兄貴みたいにならないように気を付けな」のときは、まだ救われる思いがする。

「お前も、きちがいの兄貴にそっくりだ」と言われると、目の前が真っ暗になる。

 私はお兄ちゃんと違って、女の言うことをよく聞くんだと、心にちかう。


 お兄ちゃんは笑わなくなった。顔の力がなくなったみたいだ。目も暗い。それに元からだけど、もっともっとだらしなくなった。部屋はほこりとごみだらけ。雑誌とか、プリント、プラスチックの小物、ユーフォーキャッチャーの景品とかで、足の踏み場もない。茶色い小さなごきぶりがたくさんいる。豆くらいの大きさの黒いくもを何匹も、カメラのフィルムケースに入れて、飼い出した。私はたまに、洗濯するため汚れた服を取りに行く。同じ人間かってくらい、お兄ちゃんの服は脂で汚れているし、臭い。部屋に入るだけで臭い。汚い、だらしない、勉強しない、家事をやらない。服と靴は脱ぎちらかす。女の言うとおり、たしかに、お兄ちゃんはいない方がいいかもしれない。でも、お兄ちゃんは学校だけは毎日行く。


「あんたは、ここにいなさい」


 女は、お兄ちゃんは近くにいるのも嫌がって追い払うが、私のことはいさせたがる。嫌なのに、テレビを見る女のそばの台所の床に座っていることが増えた。怖くって、女から意識を離せない。まったく楽しくない。嫌だ。私もお兄ちゃんみたいに、自分の部屋に行きたい。


 女は、怒っていなくても、とても怖い顔をしている。顔の色は、灰色に近くって、目はくぼんでいて、こめかみとほおの骨が浮き出ている。まゆの間と額に傷みたいな深いしわがある。かなりおばさんのように見えて、そんなでもないようにも見える。きれいとかみにくいとか言いようがない。人の顔じゃないみたい。担任の先生の前で見たときは、きれいに見えたけど。


 もしかしたら、全部、悪い夢なのかもしれない。早く目を覚まして、お祖母ちゃんとお話ししたい。いや、違う。お祖母ちゃんはいなくって、昔から女とお兄ちゃんと暮らしていたんじゃないか。


「前の暮らし、お祖母ちゃんとの暮らしに戻りたいな」

「過去に戻りたいなどと、無理な事を言って、どんながきなのよ。末恐ろしいね。人を困らせて、喜んでいて、性格が悪いね」


 体がこおっていくように、固まっていく。

 将来が恐ろしい、性格の悪い子。そう記された札が体に貼りついていくみたい。


「あんたたちは親に捨てられた、みなしごなんだよ。あんたたちはいらなかったの。産まれてこなきゃよかったの。やっかいものなの。ごみなのよ。ごみは捨てるでしょ? 子供を捨てたどうしようもない親の遺伝子を、あんたたちは受け継いでいるんだよ。将来、ろくなもんにならないのよ。責任をとらなくて、すぐに放棄して、捨てて逃げる、そんな人間になるんだよ」

読んでくださり、ありがとうございます。


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