新しい暮らし
日中、暑くて汗をいっぱいかいたのに、お風呂に入られなくて、体がべたべたしていて気持ち悪かった。トイレに行って、ついでに水を飲もうと思って、階段を下りて行った。
お風呂場の辺りから、プールみたいな、鼻が痛くなる臭いがしていた。お風呂場のガラス戸は木枠と木の縁に、金属の留め金がかかって南京錠がはまり開かなくなっていた。
おばあちゃんがまだいたりして。
お風呂場の隣にあるトイレに入った。ポケットからナプキンを出して、付け替えた。
洗面所で手を洗って、水を手ですくって飲んだ。
台所に入ると、女が寝そべっていた。目を閉じているのを確認して、私はほっとする。テーブルに、うどんかすが残る鍋がある。お腹が鳴った。台所に行って、冷蔵庫をそっと開けた。
「どろぼう。勝手に、冷蔵庫を開けるな。勝手に、食べるんじゃないよ」
女の意地悪い声がした。私は急いで、冷蔵庫のドアを閉めた。泥棒なんかじゃない。昔話に、人のものを盗んで地獄に落ちる悪いやつが出てきた、その泥棒と一緒にされて、ショックだった。
「さっき、トイレで水を流していたの、いちいち流していたら、水がもったいないでしょう? 水道代がかかるのよ。あと、電気を点けないでも、トイレに入れるでしょう。電気代がかかるから、部屋の電気も点けるなよ。扇風機も切っておけよ。あんたたちが生きているだけで、金がかかるのよ」
トイレでおしっこをして、水を流さなかったことがない。
そんなことしていいの? 次に入る人が嫌だし、臭くないの?
でも、女は、私とお兄ちゃんがじゃまで、いつ追い出すかも、殺すかもわからない。女の言うことを聞いて、少しでも迷惑がかからないようにしないと。
「この金喰い虫が」
台所を出て行くとき、背中にぶつけられた。
お金を食べる虫なんていない。意味不明だったが、女が傷付けようとして、虫にたとえてひどいことを言ったのがわかった。
とても、生理のナプキンが欲しいなんて言えない。
二階に上がって、布団に横になった。
女は電気をつけて寝ていたし、扇風機をつけているけれど、大人は良くて、子供はいけないのかな。
お腹と背中がくっつきそうできりきりしていた。扇風機をつけていないと暑苦しくて、なかなか眠れない。これから先ずっと、女が家にいる生活になるのかと思ったら、見慣れた天井の暗闇がとても恐ろしく感じられて、目がさえる一方だった。
「昨日、お風呂に入った?」
休み時間に、優等生で明るいクラス委員長が心配そうに声をかけてきた。
お風呂に入っていないなんて言えない。登校してきて、挨拶するとき、クラスメイト達が変な顔をするのに、私は気付いていた。臭うんだろう。恥ずかしかった。
「女の子の日で、体調が悪いの?」
「うん、そう」
「ナプキンもっている? あげようか?」
「ありがとう」
ちょうどいい感じに、彼女が勘違いしてくれて、欲しい物をくれると言ってくれて、私はうんうんとうなずいた。彼女にトイレに誘われて、そこでナプキンをもらった。
私は個室に入って、下着を下ろすとき、昨晩、下着を履き替えていないことに気付いた。前までは、おばあちゃんが何も言わずに着替えを用意してくれていたから、意識していなかった。髪も短いから、いつも頭を洗って、そのままだった。鏡の前に立って、ぼさぼさの髪を見て、急いで手ぐしで整えた。手を洗うついでに、せっけんの泡を腕と脇につけて、洗い流した。せっけんで顔も洗う。ハンカチで拭いた。歯を磨いてないことを思い出して、何度も口をゆすいだ。今日、家に帰ったら、全身を綺麗にしよう。
給食のグリーンピースの入ったカレーを前にして、胃が固くなってしまったみたいに、受け付けそうになかった。さっきまで胃が痛いくらいに、お腹がすいていたのに。給食のカレーは大好きなのに。
でも、私は頑張って、スプーンで一口、一口、食べた。味があまりしなくって、食べる度に吐きそうになったけれど、家でまた食べさせてもらえないかもしれないから、無理して食べた。
一日中、全身が怠かった。暑くて、ばてているのか。それに昨日、あまり眠れなかったからか。まぶたが重くって、頭が働かなかった。
保健室に行って、保健の先生に、ナプキンを忘れたと言って、二個もらった。先生は昨日来た生徒だと覚えていたけれど、私の脇腹がけられて赤くなっていることについて何も言わなかった。忘れてしまったのだろう。家の怖いおばさんが言ったのと同じ考えでたいしたことないと、先生も判断したのだろう。
ペンギンちゃんと一緒に帰った。ペンギンちゃんは私がだるくて歩くペースが遅くても、お風呂に入ってなくって汗臭くても、なんにも言わない。話題も歩くのも、私に合わせてくれる。帰りたくなくて、公園に寄ろうと言うと、彼女はうなずいた。
ペンギンちゃんは運動神経が悪いから、公園の遊具で遊べない。私と同じクラスになる前はペンギンちゃんでなくて、ばあやと呼ばれていた。彼女は嫌がっていなかったが、悪い気がして呼びづらかったので、私があだ名を変えた。彼女がペンギンが好きだと言ったのと歩き方がペンギンのようだから、そう名付けた。
ランドセルを下ろして、ベンチに座って、おしゃべりしていた。
夕焼け小焼けのチャイムが鳴った。お祖母ちゃんに帰ってきなさいと言われていた時間だ。ペンギンちゃんちの門限でもある。観念した私は、ベンチを立った。
公園を出て、十字路ところで、私はばいばいと手を小さく振って、ペンギンちゃんとさよならした。
家に帰ると、カギが閉まっていた。ドアノブを回すが、かたい。帰るのが遅かったから、閉め出されたのかな。チャイムを鳴らした。返答がない。うるさくしたら、女はますます怒って、カギを開けないだろう。昨日のお兄ちゃんを思い出した。庭に回って、大声で窓を叩かないと入れてもらえないのかもしれない。そうするのは、近所の人や通行人がいるので、恥ずかしくて、とてもできない。
私は、追い出されたのか。一人で、今日から、外で生きていくのだろうか。どこに行こう。そういえば、親戚の人とか知らない。会ったことがない。お父さんもお母さんも、いないものとして育った。訪ねて行こうにも、できない。
空が、だんだん、寂しい色になっている。
不安で、心細い。
庭は土だから汚いし、家の壁と塀の間が狭いから、座れもしない。
もう一回、チャイムを押した。女が留守なのかと思ったが、家の中から足音や水の音がしている。
玄関の前で立っているのは、道を通る人がみんな、見て行くので、恥ずかしい。どこかで時間をつぶして来ようか。学校に戻るのは、先生や警備員さんに見つかって、怒られるに違いない。図書館はどうだろう。本を読んでいれば、へっちゃらだ。良いことを思い付いたと思って、門扉を出ようとしたところで、お兄ちゃんと出くわした。
「おかえり、お兄ちゃん」
「おう。何してんだよ?」
私は、ドアにカギがかかっていて、閉め出されたと言った。昨日のようにさわがしくするのは良くないとも言って、お兄ちゃんを止めた。
お兄ちゃんも、お風呂に入っていないから、臭う。
お兄ちゃんはそれでも、ドアに手をかけて回した。
「お兄ちゃんの部屋の窓が開いているよ」
私は二階を指差した。お兄ちゃんはバカだけれど、運動神経はいい。ひさしに上って、窓から部屋に入れるんじゃないかと教えると、お兄ちゃんは少しも考えずに学生鞄を放り投げると、塀によじのぼった。庇から一階の屋根を伝って、ひょいっと窓の中に消えた。階段を下りる足音がして、玄関扉が開かれた。お兄ちゃんは学生鞄を拾うと、私に何も声をかけずにまた扉の中に入る。私は、ありがとうと言うタイミングを逃した。女がいるのだから、足音を立てないでくれと、助かったのにお兄ちゃんに内心、文句をつぶやきながら、いそいそと玄関に入った。
女に怒られるに違いない、女が玄関に現れる前に、お兄ちゃんを急き立てて階段を上がった。
「ご飯よ」
女の声がして、ごはんがもらえるのだと喜んで、私は階段を下りた。お兄ちゃんが後ろからさわがしくおりてくる。
テーブルに、鍋が乗っていた。具なしのインスタントラーメン。夕飯がこれ? びっくりしたが、文句などとても言えない。
私は食器棚からおわんを二つ出して、取り分けた。そうしないと、お兄ちゃんに全部、食べられると思ったからだ。
おわんの一つを、お兄ちゃんの前に置いた。はしを握って、お兄ちゃんはおわんにかじり付くように食べ出したと思ったら、おわんが引っくり返した。めんと汁が飛び散らかった。
「なにしてんのよ、この馬鹿。ちゃんと食べることもできないの? あんた、いくつよ? どうしようもない、父親とそっくりね。男は馬鹿だけど、あんたも馬鹿なのは間違いないね。あんたみたいな大馬鹿は、この先、生きていかれないよ。社会に出たら、相手にされないよ。路上で生活するホームレスが、あんたの末路だよ。野垂れ死にだよ」
お兄ちゃんは、汁がかかった学生服を脱いで、下着姿になる。
お兄ちゃんはばかだから、女が言うように、社会で生きていけないに違いない。お兄ちゃんは乱暴者だし、会話ができないし、普段、私が子守りをしているようだ。
でも、そこまで怒ることでないとも思う。お兄ちゃんはわざとでないし、誰でもやりかねない。それに、女は子供に向けて言う言い方じゃない。
私はそう言い返したくなったが、女の剣幕のせいか、自分もじっとだまって、女に、最後まで怒られていないといけない気がしていた。
お兄ちゃんは、目を真っ赤にさせている。
お兄ちゃんがテーブルを引っくり返して、鍋をけった。
「うるせい」怒鳴って、二階に足音を響かせて上がってしまった。
そうしたら、女が一気に、興奮を爆発させた。
爆弾とか噴火って、きっとこんな感じだろう。
まるで、動物園のおりの前で見たことのある、ゴリラのようだ。ゴリラが胸を叩いて、歯をむいて威かくするように、女は大きな前歯をむいている。形と色が変な差し歯のせいで、余計に迫力がある。
私は小鹿のごとく逃げて、階段をかけ上がった。
短気で、性格が悪いところが、お兄ちゃんと女は似ていると思った。
敷かれたままの布団に突っ伏した。体をまた、洗えなかったな。下の階で、暴れている音を聞いて、お祖母ちゃんがいなくなった夜を思い出して、私は涙があふれてきた。
目を覚まして、私は、そっと階段を下りた。窓は真っ暗だった。
台所に入ろうとして、私の足が止まった。
お兄ちゃんの学生服、学生鞄、教科書、ノート、テレビゲーム機だっただろう残骸が、見せしめのように展示されていた。
私はながめて、感心すらした。
お兄ちゃんの大切なものが見事、容しゃなく、ぎたぎたの粉々に破壊されていた。包丁やとんかちでやられたのだろう。私だったら、心が折れて死にたくなるに違いない。だって、学校に行けない。好きなたった一つの趣味であるテレビゲームが二度と遊べない。
女はいない。隣の和室で寝ているようだ。ほっとする。今のうち、頭と体を洗ってしまおう。私は洗面所で裸になって、体をせっけんで洗ってから、せっけんで髪を洗った。
お兄ちゃんが階段を下りてくる音がして、私は体にバスタオルを巻いた。
お兄ちゃんは自分の持ち物だったらしき、破片たちを泣きもせず、怒らず、困りもせず、あっさり諦めたかのように、一目見ると二度は見なかった。蛇口の下に口を入れて、水を飲んで、トイレに入って出ると二階に上がった。
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