お兄ちゃん
※差別用語が使われてます。そのような意図はありません。
ガチャガチャ、ガンッ、ガチャガチャ。
お兄ちゃんが、ノブを思いっきりねじって、力いっぱい引く音がした。インターフォンを力強く何度も鳴らす。おばあちゃんにしかられても、お兄ちゃんはずっと直さなかった、帰ったときのうるさい習慣。私はお兄ちゃんが帰ってくると、毎回、心臓がびっくりする。
でも今日は、お兄ちゃんが無事だったんだと思って、嬉しくなる。
「うるっさいわね」
女が、にくにくしげに言い放った。
私がカギを開けに行こうとすると、「ほっときなさい」と女が止めた。
ガンガン。
扉をける音がする。ドンドン。叩いている音がする。ピポピポポピンポーン。インターフォンが連打される。ガチャガチャガチャ。ノブが何回も回される。
「あいつ、たりないんじゃないの? 父親にそっくり」
女は嫌いだというように顔をしかめた。
父親? 女は私のお父さんを知っているの? 身内なら、そうか。
たりないっていうのは、頭のことか。お兄ちゃんはばかだもんな。
お兄ちゃんを止めさせないと。
お兄ちゃんを早く家に上げてあげないと。
私は気が気じゃなくて、女と玄関の方を何度も見た。
「二人とも、出て行かないかしら。邪魔だわ」
自分がじゃまだと思ったこともなかったから、ショックだった。家から追い出される。胸の不安がふくれ上がって、息が苦しくなる。
お兄ちゃんはさわがしい音を鳴らし続ける。
「近所迷惑な糞がきが」
女は吐き捨てた。
カギを開けてあげれば、おさまるのに。そうせず意地悪をしているのに、腹を立てるなんて、おかしい。お兄ちゃん、諦めて、どこかに遊びに行ってくれないかな。お兄ちゃんがかわいそうだし、これ以上、女を怒らせないでほしい。
すぐ近くの窓から大きな音がした。お兄ちゃんが両手で窓を叩いていた。お兄ちゃんが庭に回り込んできたのだ。
私はびっくりして、悲鳴を上げた。
「開けろよ、開けろよ」
お兄ちゃんは、半分、泣いている。
女は舌打ちをして、窓のカギを回した。お兄ちゃんが勢いよく窓を開けて、靴を脱いで入ってこようとする。女がお兄ちゃんの頭を思いっきり叩いた。
この女は、すぐに殴るんだ。お兄ちゃんもすぐに手が出るけれど、大人でもそんな人がいるなんて。
お兄ちゃんは頭を両手で押さえている。お兄ちゃんの目のあたりが赤くなっている。その目も朝に、女に殴られたんじゃないか。
「きちがい。うるさいのがわからないのかよ。どんな教育されてきたんだ、糞がきが。死ねよ」
死ね?
心臓が縮みあがる。
お兄ちゃんも、殺されてしまう。
私も、殺されてしまうかもしれない。ありえることだ。
女がお風呂場を、顎をしゃくって指し示した。
「お風呂場は入っちゃだめだから。近付いてもだめ。頭と体は流しでタオルを使って、洗いなさい。そんで週に一回、銭湯に行きなさい」
どうして? と、女は聞かせない雰囲気があった。
おばあちゃんがいるからでしょ。
おばあちゃんが、そこで、死んでいるからでしょ。そう考えそうになるのを、私は否定する。おばあちゃんはどこかで元気にいると思わないと、自分を保っていられそうになかった。
女はダイニングテーブルの椅子に座って、テレビをつけた。女は腕と足を組んで、ふんぞり返って見ている。
私とお兄ちゃんはじゅうたんに座り込んでいた。そうしろと言われたわけではないけれど、そうしていないといけない気がしていた。
ちらちらと、女の顔を盗み見る。怖い顔をしている。私の担任の先生と話していた顔とまったく違う。同じ人なのに不思議。
もう暗い。
電灯は、女が点けなければ、勝手に点けてはいけないと思っていた。
女は立って、腕を伸ばして、電灯の紐を引っ張った。
白く照らされた女の太い二の腕が、妙にまぶしかった。
女は冷蔵庫を開けて、食材を出して、流し台に向かって立った。
この家に女は慣れている。初めて来たんじゃないのかもしれない。
夕飯は抜きよ。自分のしたことを悪いと思っていないわけ?
よく食べようと思えるわよね。あさましい。
私は、あさましいの? 食べすぎで、欲深いってこと? お腹すいたとも言っていないのに。お赤飯なんて、とてもねだれない。
女は鍋からネギと肉の入ったうどんをすする。
食べられないのに、見ていられなくって、私は二階に行こうとランドセルを持って立った。歩き出して女に止められなかったことに、ほっとする。お兄ちゃんも、ついてくる。お兄ちゃんは妹よりバカなのを自覚していて、昔から私の真似をする。私が先に階段をのぼる。
「あの人、誰だか、知っている?」
お兄ちゃんは首を振る。
「私が昨日の夜、言ったでしょう? あの女がお風呂場でお祖母ちゃんを沈めていたって」
私はお兄ちゃんの耳の近くで小声で言った。
お兄ちゃんは首をかしげる。
お兄ちゃんはバカだから、女が何者かも疑問に思わないようだ。女にお風呂場に行くなと禁じられたことと関係があると思いもしていない。
「身内なんだってよ」
「へー」と、お兄ちゃんは驚いた声を出す。
「それ、どうしたの?」
私は、お兄ちゃんの右目を指差す。お兄ちゃんは、ばつが悪そうに、赤い右目の周りを手で払う。女にやられたんじゃなく学校で喧嘩したか、転んだのかな。理由を言わずにごまかす意味がわからなかったが、お兄ちゃんの意味のわからない行動は今に始まったことじゃない。男のプライドみたいなものだろう。
私はお兄ちゃんの部屋を指差して、私の部屋までついて来るなと指示を出した。お兄ちゃんはうなずいて、自分の部屋に入る。
お祖母ちゃんの布団が消えている。押入れにもない。女がどこかにやってしまったのだろう。
私は障子を開けて、ベランダに通じる窓を開けて、扇風機をつけた。
ランドセルから、保健の先生にもらったナプキンの入ったビニール袋を引っ張り出す。良かった、もらっていて。お祖母ちゃんは使っていなかったから、ナプキンのありかを知らない。これを使うのはもったいないな。
明日、学校で保健の先生に言って、もっともらおうか。でも、また家に連絡されたら、女に怒られてしまいかねない。友達にもらおうか。お小遣いで、自分で買おうか。
血を洗い流したいけれど、お風呂場に行けない。
女にそうしろと言われたけれど、女のいる流しに行って頭と体を洗うのは、あきらめていた。
女は聞いたことのない汚い言葉をたくさん知っていて、すごいな。お腹がすかない。お水は女のいる下の階に、何回も行かないでいいように、大きな容器で運んでおこう。
隣の部屋から、派手な音楽が大きな音で聞こえてくる。
私は慌てて、お兄ちゃんの部屋に行って扉を叩いた。
「お兄ちゃん、静かにして。怒られちゃうよ。また、あの人になぐられるよ」
音が小さくなった。
どうして、そんなこともわからないのよ。
お兄ちゃんに腹が立ち、扉を大きく一回叩いて、自分の部屋に戻った。
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