ある夜中
下の階で、すんごい音がした。
目を覚まして、隣の布団を見たら、薄いかけ布がめくれていて、お祖母ちゃんがいなかった。
体を起こして、耳をすました。
ガタン。ドンッ。ガッガッガーン。
今までに、聞いたことがない音。雷が落ちたときも、地震で家が揺れたときも、こんな音はしなかった。
畳をはって行って、ふすま扉に耳を寄せた。
家具がたおれる音? 人が壁にぶつかった音?
泣きそうになるのをこらえて、ふすまをそうっと開けた。すき間に首を入れて、階段下の様子を探った。
お兄ちゃんが階段から落ちた?
泥棒に、お祖母ちゃんが襲われているのかもしれない。
お祖母ちゃんが付けてくれた金属製の扇風機から、弱い風が吹いている。
怖くて、息がよくできなくて、手の先がふるえていた。
黒い大きな人影が、背中を向けて、立っている。足元に、おなじく大きな塊が丸まっている。私は息をのんだ。誰、あの人……。お兄ちゃんじゃない。床の塊を、人影がひきずっていくのが見えた。
やばい。事件だ。
お祖母ちゃんが、何者かにやられた!
私はふすまの中に戻って、布団に入った。頭をもぐりこませる。
助けなきゃ。早く……!
でも、怖くて、まともに考えられない。息ができない。
お祖母ちゃんが今頃、どうなっているかを思い浮かべる。大変だ。なんとかしなきゃ。
私は息を深く吸って整えて、自分に言い聞かせて、自分を励まして、布団から起き上がった。畳に手をついて、ふすまに行く。すき間が空く度に、息をとめて、耳を集中して、少しずつずらしていった。がくがくする膝に頑張って力を入れて、立つと、ふすまから出た。階段の手すりをつかみ、一段、一段、下りていった。一段ずつ、目をつむり、一段ずつ、息とつばをのんだ。心臓が腰から上全体で鳴っているかのようだった。
階段下から目だけを出してのぞく。窓から外の明かりが入っているけれど、暗い。
壁に背中をつけて、ろう下をそうっと、音がする方へ近付いていく。いつでも逃げられるように、注意を玄関の方にも向けていた。
壁のきわから、片目だけで見た。
女がいる。
すぐに私は壁に隠れる。
もう一回、見る。大きな女が浴そうの中に立っていた。
大きなガラス窓からの明かりで、女の暗い顔がなんとかわかる。女が腰をかがめて、両腕で抑え込んでいる。浴そうの縁に、つかむ手がある。
あれは、枯れた枝のような、お祖母ちゃんの指だ。
女が、お祖母ちゃんを沈めている。
私はかけ出した。廊下を戻って、階段を、段を飛ばしてかけ上がった。
木の扉を開けて、飛びこんだ勢いで、お兄ちゃんの布団にしがみついた。
「おばあちゃんが、だれかに、知らない人に、やられている」
「うるさいな」
「ほら。音がするでしょう? 見てきたんだって。女がいたんだって」
必死に、お兄ちゃんを揺する。
お兄ちゃんは目を開けて、動きを止める。聞いているようだ。しかしお兄ちゃんは私の腕を払って、寝返りを打って背中を向けた。
「夢だよ。早く寝ろ」
お兄ちゃんが聞こえなかったはずがない。お兄ちゃんが人よりバカなのは、小学五年生の私でも、気付いている。
さっき見た光景が、頭に浮かぶ。
お祖母ちゃんが、知らない女に、浴そうに沈められていた。
お祖母ちゃんは声も出せないでいた。
お祖母ちゃんが殺されてしまう。死んでしまう。年寄りだから、きっとすぐに、死んじゃう。
交番だ。こういうとき、交番に行って、おまわりさんに言えばいいんだ。
交差点の角にある。入ったことも、話したこともないけれど、なんとかしてくれるはず。
お兄ちゃんの部屋を出て、両壁に手を付いてバランスをとって、階段をかけ下りた。交番に行くのをやめようか、女に捕まるんじゃないか、お兄ちゃんを逃がさないといけないんじゃないか、そんな考えが頭を巡っている。けどそんなひまはない。階段下に女が待ちかまえていないか、それだけが恐ろしかった。台所とお風呂場がある方にちらっと視線をやって、玄関に走りこんだ。スニーカーに足を入れて、扉のノブにつくカギを回して飛び出た。
スニーカーがはけていなくて、数段のアプローチをこけそうになる。
やわらかい夜風を感じて、一瞬、外に出られたことに喜びを感じる。そんな自分に腹が立つ。お祖母ちゃんを助けなくては、やばいんだから。
パジャマだけど、しょうがない。
女が追いかけて来ていないか、何度も、後ろを振り返って走った。うまくたどり着けるはずがない、そんな不安が背後から迫ってくるようだ。人っ子一人いない。家々の電気は消えている。誰も起きていないだろう。よく遊ぶ公園が、昼だとおいでと招くようなのに、来るなと拒むようにひっそりとしている。見たことのない別の公園のようで、怖くて目をそらして過ぎる。
息がつまりそうだけど、それでも手足をがむしゃらに動かす。走るのが遅い気がする。遅い気がする分だけ焦る。背中のシャツが肌に張り付く。
全力でかけているせいの汗でない、恐怖心から来る汗が、額からたれている。
夢かもしれない。逃げていて、足が思うように動かせなくて、うなされて目を覚ます、あの何回か見た事のある夢なんじゃないか。さっき見た恐ろしい出来事は、悪い夢。そうであってほしい。
良かった。交番に明かりが点いている。赤信号なんか待っていらない。車道の向こうの方を見る。車のライトが遠い。ごめんなさいと心で謝りながら、白線の縞々をかけ抜けた。
小さい二階建ての交番。ガラス戸を叩いて、引いて開けようとする。
机に向かう、おじさんが顔を上げてくれた。
扉の中に飛びこんだ。息が苦しいのを押して、声をはき出す。
「助けて。知らないおばさんが、お祖母ちゃんを殺そうとしているの。すぐにうちに来て。早く」
おまわりさんの手をつかんで、引っ張った。おじさんがのろのろ椅子から立つものだから、いらいらした。
私は急がせるつもりでその場でかけ足をしてみせた。太っているから、動きが遅いのかな?
「お嬢ちゃん、お母さんは?」
「いない。家、こっち」
青い服からのびる腕をつかんで、ガラス戸を指差す。
「お名前は?」いいから、早く。
「宮本」
「下のお名前は?」
そんなことに答えている場合じゃない。
このおまわりさんは、頭がどうかしているの?
「お祖母ちゃんがお風呂場で、怖い女におそわれているの」
「お母さんとお祖母ちゃんが喧嘩をしているのかな」
「違う。お母さんはいない。お祖母ちゃんだけ。あと、お兄ちゃんもいる」
「ここに座って、お話、聞かせてくれるかな」
早くしないと、お兄ちゃんも、殺されてしまう。
あっ、もしかして、あの女の仲間なの?
「住所と電話番号は言える?」
言うことを聞かないと、言うことを聞いてくれないのかな。家に電話して、あの女に私がここに来て、人を殺したと言っていると教えるんじゃないか。二人は仲間で、女がつかまえに来て、私をどうにかする気じゃないんだろうか。
「警察を呼んで。ひゃくとうばんして」
机を両手でばんばん叩いた。
ここがけーさつなんじゃなかったっけ。おまわりさんは誰でも助けてくれるんじゃなかったっけ。頭がこんがらがって、どうしていいか、わからなくなる。
「早く来て。ついて来てってば。死んじゃう」
おじさんは面倒くさそうな顔。どうして、そんな顔が出来るの? 家でお祖母ちゃんが殺されそうになっていて、こんな子供の私が、必死に助けてと言っているのに。おじさんは私の言うことを信じていないって顔。どうしたらいいの?
やっぱり、夢だったのかな。あんなこと、あるわけないもんな。
「家を出て来ちゃったの? 帰れなくなったのかな。親御さんを呼んであげるから、電話番号と名前を教えて」
お祖母ちゃんは、電話に出られない。そんな状態じゃない。
このおじさんが家に電話をかけたら、女が逃げていくかもしれない。
お祖母ちゃんを、病院に連れていかないといけない。
「救急車、呼んで」
「怪我しているの?」
「お祖母ちゃんが、怪我をしているの。女が、こうやって、こうしていたの」
私は危険なのをなんとか伝えようと、女の動きを真似て、両手をそろえて、押し込めてみせる。
おじさんは、「へぇっ」と言って、半笑いをしている。
信じていない。バカにしている。
もういいや。
でも、このまま、大人しく帰ったら、私が殺されちゃう。このおじさんを家に連れて帰って、お風呂場を見せれば、なんとかしてくれるはず。
「すぐだから、来て」
おじさんは狭い交番内をうろうろし出す。首をひねったり、腰から上をうねうね動かしたりしている。何をしているのよ? おじさんは机の引き出しを引いて、中を指ではじきながらなにかを探している。用事があるっていうの?
「いいよ、送るよ」
おじさんはカギを手につかんでいる。
ああ、戸じまりね。良かった。家に来てくれる。
ペースを合わせて、私はガラス戸をおじさんと一緒に出て、カギをしめるのをそばで待っていた。
話が通じなくて、えばっている、大人ってほとんど、こんな感じだから仕方がない。急かしたり、言う事をきかそうとしたりするとすぐ怒り出しそうだ。私はおじさんの気を悪くさせないように、素直な子供のふりをすることにする。
「こっち、こっち」
交差点を指差して、飛び跳ねる。
あぁあ、赤信号をちゃんと待たないといけない。ちょっとでも、早くしてほしいのに。
先を小走りで行って急いでほしいことを伝える。おじさんを走らせないスピードで、こっち、こっちと小声で言う。
とうとう、やっと家に着いた。
わざと大きな音が立てて、門扉を開けて、扉を開けた。
「おまわりさん、こっちです」
私は、家の奥に向かって、大声を上げた。
「どうされました?」
玄関の照明が、ぱちぱちまたたいて点いた。
女が、腰を屈めて現れた。同級生のお母さんぐらいの歳だろう、玉虫のように光った半袖の服に、ロングスカートを着ている。お祖母ちゃんの服だ。
急に、おじさんは態度を引きしめた。
「この子が、交番にやってきたので、送り届けました」
「この子ったら、寝ぼけていたの。ご迷惑をおかけして、すいません」
女は、きれいな声を出す。
私は女の顔をよくよく見上げた。パーマがかかる肩くらいの髪。太っていない。
お祖母ちゃんを襲っていた女と、同じ人なのか。
背の大きさや体格は同じようだけれど、雰囲気が違う。
でも、知らない、人が家にいて、お客を迎えているなんて、おかしい。
「おまわりさん、私、この女の人、知らないの。でも、お祖母ちゃんが、この人に、お風呂場で沈められているのを見たの」
女の目が、一瞬、光ったように見えた。
「お風呂場に来てよ。ねぇ、おまわりさん」
「祖母とは暮らしていません。すいませんね。この子、物語が好きだから。寝る前に、そんな童話を読み聞かせたんです。山姥っていう」
私は、おじさんの手を引っ張って、家に上がらせようとした。
玄関に、お祖母ちゃんの履き物がない。私は急に涙が込み上げた。お祖母ちゃんがどうにかされちゃったんだ。悲しくて、怖くて、大声で泣きたくなった。
「おばあちゃん」
私は大声で呼びかけた。
「何時だと思っているの? こんな夜中に」
女はまるで、私の母親のようなしゃべり方だ。
「おにいちゃん」
二階に向かって、声を張り上げる。お兄ちゃんも、殺されてしまったかもしれない。女は私の腕をつかんで、家の中に引っ張り上げようとする。
いやだ、いやだ、こわい。
「おまわりさん、いや、こわい」
私は泣きながら、助けてとおじさんに手をのばす。
「お母さんの言うことをよく聞くんだよ」
女とおじさんは、おんなじ困ったような表情をして、うなずき合う。
やっぱり、仲間だったのか。
おまわりさんは帰ってしまいそう。なんで女をつかまえてくれないの?「え?」の連続が頭にぐるぐる回って、ぱんぱんになって破れつしそうだった。
「お世話になりました。ご迷惑、おかけしました」
女は言葉を短く切って、おまわりさんを見送ろうとする。
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