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エピソード3:「ビリジアンは深森の夢を見るか」

 中庭に降り立つと、その「死」の質量に圧倒された。

 上空から見た時とは比べ物にならない。目の前にそびえる『恵みの樹』は、高さ三十メートルはある巨木だ。しかし、その幹は干からびた骨のように白く、枝は苦悶の表情を浮かべた指先のように空を掻いている。

 根元の土さえも灰色に砂化しており、風が吹くたびにサラサラと崩れていく。

 完全なる死。生命活動の停止。

「……これを、生き返らせろと?」

「そうだ。この樹は王都の結界のかなめ。枯れたままでは、今夜の『無色』の襲撃で城ごと呑み込まれる」

 クロードは腕を組み、さも当然のように言う。

 周囲には、武装した兵士たちが遠巻きに私たちを見守っていた。彼らの視線は冷たい。

 無理もない。突然、王子が連れてきた異界の女。しかも、武器の代わりに汚れたナイフと絵具を持っているだけ。

 期待というよりは、「処刑前の見世物」を見るような目だ。

「おい、クロード様がご乱心だぞ」

「あんな小娘に何ができる。魔力も感じないじゃないか」

 ひそひそ話が聞こえる。

 私は唇を噛んだ。現代日本でも散々味わってきた視線だ。「わけのわからない絵を描く変人」を見る目。

 腹の底で、ドロリとした反骨心が熱を持つ。

(やってやろうじゃないの)

 私はポケットから、唯一残った絵具『ビリジアン』を取り出した。

 深く、暗く、少し人工的な緑色。自然界の柔らかな緑とは違う、毒々しささえ孕んだ色だ。

 これ一本で、この巨木を?

 写実画家なら「緑色が足りない」「茶色がないから幹が描けない」と絶望するだろう。

 でも、私は抽象画家だ。

 形なんてどうでもいい。イメージさえあれば、世界は再構築できる。

「クロード、一つだけ条件がある」

「なんだ? 遺言か?」

「キャンバスがデカすぎるのよ。私が描き終わるまで、誰にも邪魔させるな。……あと、私の絵を見て『わけがわからない』って言うな」

「……善処する」

 私は樹の前に立った。

 筆はない。パレットもない。あるのはペインティングナイフ一本。

 私はキャップを開け、中身を左の手のひらに直接ぶちまけた。

 冷たくてヌルリとした感触。独特の匂いが鼻孔をくすぐる。

 深呼吸。

 イメージしろ。ただの「緑」じゃない。これは「生命の奔流」だ。

「――構成コンポジション、開始」

 私は走り出した。

 樹の幹に向かって、緑色に染まった左手を叩きつける。

 ベチャッ! という音が響く。

 兵士たちがざわめく。「樹を汚したぞ!」という怒声が飛ぶ。

 うるさい。聞こえない。

 私はナイフを振るった。

 幹に塗りつけた絵具を、ナイフのエッジで強引に引き伸ばす。

 物理的な接触だけではない。

 私の体内で何かが弾けた。エピソード1で炎を出した時と同じ感覚。私の「想像力」が、腕を通ってナイフの先から溢れ出し、現実の空間に干渉していく。

(育て。育て。私の緑!)

 私は踊るようにナイフを走らせた。

 幹を駆け上がり、絵具を擦り付ける。

 足りない? いいや、足りる。私の『概念描画』において、絵具はただの触媒トリガーだ。一滴の緑があれば、そこから無限の森を生み出せる。

 シュッ、バッ、ギギギッ!

 ナイフが樹皮を削り、そこに光る緑のラインが刻まれる。

 私は葉の形など描かない。

 ただ、生命が爆発するような「螺旋」と「飛沫スプラッシュ」を描く。

 暴力的なまでの緑の嵐。

「な、なんだあれは!?」

「落書きだ! 止めろ!」

 兵士の一人が槍を構えて飛び出そうとした。

 しかし、それを鋭い金属音が制する。

 クロードがサーベルを抜き、兵士の足元に氷の杭を打ち込んでいた。

「動くなと言ったはずだ」

「し、しかし殿下! あれでは聖なる樹が!」

「見ろ。……目が腐っていなければ、わかるはずだ」

 クロードの声には、微かな震えが混じっていた。

 私の視界は、もう緑一色だった。

 描いた「線」が、ひとりでに動き出す。

 幹に刻んだ緑の螺旋が脈打ち、ドクン、ドクンと鼓動を始めたのだ。

 灰色の樹皮が、パリパリと音を立てて剥がれ落ちていく。その下から現れたのは、茶色の木肌ではない。

 翡翠ひすいのように輝く、半透明の幹。

「喚べ! 深森の記憶!」

 私は最後の一滴を指先ですくい、空中に放り投げた。

 ナイフでその飛沫を弾く。

 散らばった緑の点が、空中で光の粒子となり、枯れ枝に吸い込まれていく。

 ボォォォォンッ!!

 突風が吹いた。

 次の瞬間、枯れ木から一斉に「葉」が芽吹いた。

 だが、それは普通の葉ではない。

 私の画風そのままに、四角や三角、不定形の光るプレートが、葉のように重なり合って輝いている。

 前衛的すぎる。ピカソもびっくりだ。

 けれど、そこから溢れる生命エネルギーは本物だった。

 周囲の灰色の土が、みるみるうちに黒い肥沃な土へと変わり、名もなき草花がポコポコと顔を出す。

「はぁ、はぁ、はぁ……」

 描ききった。

 私はナイフを握りしめたまま、よろめいた。

 全身から力が抜ける。頭が割れるように痛い。

 足がもつれ、地面に倒れ込む――その寸前。

 ふわり、と冷たい匂いに包まれた。

「……無茶苦茶だ。本当に、君は」

 硬い腕が、私の体を支えていた。

 見上げると、クロードが呆れたような、それでいてどこか熱っぽい瞳で私を見下ろしている。

 彼の氷のような仮面が、少しだけひび割れていた。

「言ったでしょう。私の絵は、すごいんだから」

「ああ。認めるしかないな」

 クロードは私の手から、空になった絵具チューブとナイフを取り上げ、ハンカチで私の汚れた手を拭った。

 その手つきが、驚くほど丁寧だった。

 さっきまで「道具」扱いしていたくせに、今はまるで、壊れ物を扱うようだ。

「……美しい」

 誰かが呟いた。

 見ると、先ほどまで敵意を向けていた兵士たちが、帽子を脱ぎ、呆然と樹を見上げていた。

 極彩色に輝く幾何学的な樹木。それは異様だが、圧倒的な「生」の美しさを放っていた。

 中庭に満ちる温かい光。灰色だった世界に、色彩が戻ったのだ。

「殿下! これは一体……!」

 そこへ、騒ぎを聞きつけたのか、鎧をガチャガチャと鳴らして大柄な男が駆け寄ってきた。

 燃えるような赤い髪に、熊のような体躯。背中には身の丈ほどの巨大な戦斧を背負っている。

 騎士団長らしきその男は、私とクロード、そして変貌した樹を交互に見て、目を丸くした。

「おいおい、嘘だろ? あの枯れ木が……宝石になっちまったぞ?」

「遅いぞ、ゲイル。ショーはもう終わりだ」

 クロードは私を抱きかかえたまま(またお姫様抱っこだ!)、その大男――ゲイルに向き直った。

「紹介しよう、騎士団長ゲイル。彼女は一之瀬彩葉。私が直々に契約した『筆頭宮廷画家』だ」

「画家? この嬢ちゃんが?」

「ああ。そして、私の命の恩人でもある」

 えっ?

 私は驚いてクロードの顔を見た。命の恩人? そこまで言われるようなことはしていないはずだ。

「これを見ろ」

 クロードは、私の視界を遮るように立ち、ゲイルに自分の左手を見せた。

 そこには、うっすらと黒い痣のようなものが浮かんでいたが、樹から降り注ぐ緑の光を浴びて、霧散するように消えていった。

「『無色』の呪いが、退いた……?」

「彼女の描く色は、ただの視覚情報ではない。概念そのものを上書きする力があるようだ。……私の凍りついた魔力回路さえも、な」

 クロードは私の方を見ずに、ボソッと言った。

 耳が少し赤い。

「……温かいな。君の色は」

 その声はあまりに小さく、風の音にかき消されそうだった。

 でも、私には聞こえた。

 胸の奥が、トクンと跳ねる。

 こいつ、性格最悪の氷人間かと思っていたけれど。

 私の絵を見て「温かい」と言ったのは、彼が初めてだった。元カレでさえ、そんなことは言わなかったのに。

「へっ! こりゃ傑作だ!」

 ゲイルが豪快に笑い、私の背中をバンと叩こうとしたが、クロードが鋭い視線で制した。

「触るな。彼女は魔力枯渇(ガス欠)だ。これ以上消耗させれば、お前の髭を全て剃り落とすぞ」

「おっと、怖え怖え。過保護だねぇ、殿下」

 ゲイルはニヤニヤしながら一歩下がった。

 私は意識が遠のく中で、ぼんやりと思った。

 過保護? ただの資源管理でしょう?

 でも、彼の胸元から聞こえる心音は、意外なほど早鐘を打っていた。

 ――こうして、私の最初の仕事は成功した。

 だが、それは同時に、この国の「本当の闇」に目をつけられるきっかけでもあったのだ。

 樹の輝きを見つめる城の回廊の影。

 そこには、クロードとよく似た顔立ちだが、決定的に「色」の違う男が一人、静かに笑っていたことを、私たちはまだ知らなかった。


(第一部 エピソード3 完)

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