エピソード2:「氷の王子は、キャンバスの同意を求めない」
東京が燃えていた。
正確には、私がぶん回したペインティングナイフから生じた『赤』が、スクランブル交差点を火の海に変えていたのだ。
熱い。熱風が頬を叩く。
けれど、私の目の前に降り立ったその男の周りだけ、気温が氷点下のように冷え込んでいた。
「……原初の色。この枯渇した時代に、これほど純度の高い『赤』を見るとは」
男が呟く。
夜空のような黒髪に、宝石のアメジストを砕いて埋め込んだような紫色の瞳。顔立ちは、美術館に飾られている大理石の彫刻よりも整っている。
漆黒の軍服のようなローブを纏い、腰には白銀のサーベル。どう見ても現代日本の住人ではない。
ハロウィンの仮装? いや、時期外れだ。それに、彼が浮遊しているという物理的な事実が、私の逃避思考を否定する。
「あ、あの……あなたは?」
私が恐る恐る尋ねると、彼は私を無視して、まだ燃え盛る炎に視線を向けた。
そして、白手袋に包まれた右手を優雅にかざす。
「鎮まれ。『静寂の青』」
彼が虚空に指で複雑な幾何学模様を描くと、魔法陣のような青白い光が展開した。
ヒュウッ、と風が鳴る。
次の瞬間、私の『激情の赤』は、まるでインク壺に水を垂らしたように急速に色あせ、あっという間に消滅してしまった。後に残ったのは、凍りついたアスファルトと、ダイヤモンドダストのような氷の結晶だけ。
(嘘……私の傑作が、一瞬で?)
恐怖よりも先に、画家としての敗北感が湧き上がる。
男はゆっくりと私に向き直った。その瞳には、人間に対する興味など微塵もない。あるのは、稀少な鉱石を見つけた鑑定士のような、冷徹な値踏みの色だ。
「女。名は?」
「い、一之瀬、彩葉……です」
「イロハか。奇妙な響きだ」
男は私の足元に散らばった画材――絵具のチューブや筆、スケッチブック――を一瞥し、鼻を鳴らした。
「魔導具に頼らねば魔力を練れぬ未熟者か。だが、その色彩保持量は悪くない。……回収する」
「は? 回収?」
「我が国パレットリアにおいて、色彩は生命そのもの。貴様のような『描ける者』は希少資源だ。光栄に思え、貴様のその命、私が有効活用してやる」
男の言っている意味が理解できない。
だが、本能が警鐘を鳴らしている。この男はヤバい。
あの「色を喰う怪物」とは別のベクトルで、話が通じないタイプだ。
「ちょっと待ってください! 有効活用って何? 私はただの画家で――」
「問答無用」
彼が指を鳴らすと、見えない鎖のような冷気が私の体を拘束した。
体が動かない。声も出せない。
「ギギギギギ……ッ!!」
その時、周囲の空間から不快な摩擦音が響いた。
先ほど私が焼き払ったはずの『無色の怪物』たちが、ビルの影からわらわらと湧き出してきたのだ。しかも今度は数が多い。百匹、いやもっとか。
輪郭だけの犬、顔のない巨人、手足の長い蜘蛛のような影。それらが一斉に、私たち――正確には、色彩を放つ私――に狙いを定めている。
「チッ。やはり『無色』の嗅覚は鋭いか」
男は舌打ちをし、サーベルの柄に手をかけた。
しかし、抜かない。彼は私を小脇に抱えると(まるで米俵のように!)、空中に向かって跳躍した。
「ちょっ、離して! きゃあああ高い!」
「騒ぐな。舌を噛むぞ」
私たちは重力を無視して上昇していく。
眼下に見える渋谷の街は、凄惨な有様だった。
中心部から広がる灰色の浸食は、すでに駅周辺を飲み込み、代々木公園の方まで広がっている。逃げ惑う人々が米粒のようだ。
私の日常が、私の知っている世界が、死んでいく。
(お母さん、お父さん……誠司……)
涙が滲む。
だが、私を抱える男は冷酷に告げた。
「見るな。あの世界はもう『死に体』だ。色が抜け落ちた世界は、やがて崩壊し、無へと帰す。救う手立てはない」
「そんな……どうして……」
「管理を怠ったからだ。お前たちの世界は、色彩というエネルギーを粗末にしすぎた」
彼の言葉の意味を考える余裕はなかった。
私たちは、空に入った『亀裂』――あの巨大なヒビ割れに向かって突っ込んでいく。
近づくにつれ、亀裂の向こう側に広がる、ありえない光景が見えてきた。
そこには、オーロラのように極彩色の空と、浮遊する島々が広がっていたのだ。
「ゲート通過。衝撃に備えろ」
「備えるって、どうやっ――んぐっ!?」
視界がホワイトアウトした。
三半規管をミキサーにかけられたような目眩。
内臓が裏返るような浮遊感。
そして、全身を絵具で塗りたくられるような、ねっとりとした感覚。
意識が飛びかけたその時、私は「何か」を見た。
光のトンネルの中で、私の画材ケースからこぼれ落ちたスケッチブックがパラパラとめくれる。
そこに描かれていたのは、昔、美大の課題で描いた『理想の王子様』の落書き。
……今の男に、少し似ていた気がする。
いや、まさか。私の王子様はもっと優しそうな顔をしていたはずだ。あんな氷人間じゃない。
◆
「――きろ。……起きろ、雑魚」
冷たい声と、頬を軽く叩かれる感触で目が覚めた。
ぱちり、と目を開ける。
そこは、石造りの冷たい床の上だった。
高い天井。ステンドグラスから差し込む光。埃っぽい空気。
どこかの廃墟のようだが、壁に飾られたタペストリーや調度品には気品がある。
「ここは……?」
「ようこそ、パレットリア王国、第三王子の居城へ」
目の前に立っていたのは、あの男――クロードだ。
彼はローブを脱ぎ捨て、白いシャツにベストという姿になっていた。その姿はさらに貴族然としていて、腹が立つほど絵になる。
彼は私の顔を覗き込み、ふっと笑った。嘲笑だ。
「転移酔いで吐かなかったことは褒めてやる。だが、のんびりしている暇はないぞ」
「ここ、本当に異世界なんですか? 私、誘拐されたってことでいいんですよね?」
「人聞きが悪いな。保護だ。あのままあそこにいれば、お前も『灰色の砂』になっていた」
「……」
反論できない。あの光景は現実だった。
私はガバリと起き上がり、窓へと駆け寄った。
そこから見えた景色に、私は息を呑んだ。
空は紫色だった。
二つの月が浮かび、雲はピンクや緑の綿菓子のように漂っている。
眼下には中世ヨーロッパ風の街並みが広がっているが、建物はどれも奇抜な色で塗られていた。屋根が青、壁が黄色、道が赤。
まるで、子供が塗り絵を楽しんだ後のような世界。
「綺麗……」
画家の性として、素直な感想が漏れる。
けれど、よく見ると違和感があった。
街の端、遠くの山脈のあたりが、東京と同じように『灰色』に霞んでいるのだ。
そして、空に浮かぶ太陽のような光源も、どこか頼りなく明滅している。
「綺麗か? 皮肉だな」
クロードが私の背後に立った。
彼の声から、先ほどの嘲りは消えていた。代わりにあったのは、押し殺したような焦燥と、深い悲しみ。
「この世界もまた、色が失われつつある。『無色』の侵食は、我が国の辺境まで迫っているのだ」
「じゃあ、東京と同じことが、ここでも?」
「そうだ。だが、まだ手遅れではない。我々には『描き手』がいる」
彼は私の肩を掴み、強引に振り返らせた。
至近距離で見つめ合う。
紫のアメジストの瞳が、私を射抜く。
「一之瀬彩葉。お前には才能がある。あの不規則で野蛮な『赤』……我々の魔法体系にはない、混沌とした色彩。あれこそが、硬直したこの世界の理を打ち破る鍵になる」
「ちょ、ちょっと待って。野蛮って何よ! あれは情熱的なの!」
「解釈は自由だ。だが、事実は一つ。お前は私と契約を結ぶ」
彼は懐から一枚の羊皮紙を取り出した。
そこには読めない文字がびっしりと書かれているが、不思議と意味が頭に入ってくる。
これは『隷属契約書』……ではない。『専属宮廷画家雇用契約書』?
「衣食住は保証する。報酬も弾もう。その代わり、お前は私の命令に従い、私が指定する場所、指定するモノに、色を『描け』。拒否権はない」
「……もし断ったら?」
「元の世界に送り返す。あの灰色の砂漠にな」
「悪魔!」
「合理的と言え」
彼はニヤリと笑い、私の手に羽ペンを握らせた。
選択肢なんてない。
生き残るため、そして何より、あの灰色の絶望から逃れるため。
私は震える手で、サインをした。
『Iroha Ichinose』
ペン先が羊皮紙から離れた瞬間、契約書が金色の光となって弾け、私の右手の甲に刻印のように吸い込まれた。
筆の形をした紋章が浮かび上がる。
「契約成立だ。……さて、最初の仕事だぞ、彩葉」
クロードは窓の外、城の中庭を指差した。
そこには、枯れ果てた巨大な樹木が一本、灰色の彫像のように佇んでいた。
「あれは『恵みの樹』。城の結界を維持する要だ。色が抜け、枯れてしまった。あれを蘇らせろ」
「蘇らせろって……色を塗ればいいの?」
「そうだ。お前のイメージで、生命を吹き込め。失敗すれば、今夜にも『無色』の軍勢がこの城になだれ込んでくる」
ハードルがいきなり高すぎる。
私は自分の手を見た。握られているのは、先ほどの戦いで生き残ったペインティングナイフと、一本だけポケットに入っていた絵具。
色は『ビリジアン(深い緑)』。
「……やってやるわよ。見てなさい、氷人間」
私は窓枠に足をかけた。
画家のプライドにかけて、ただの「塗り絵」で終わらせるつもりはない。
これは私の作品だ。
こうして、売れない前衛画家と冷徹な王子の、世界を救うための奇妙な共同生活が幕を開けたのだった。
(第一部 エピソード2 完)




