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エピソード1:「世界は灰色、あるいは色彩の不在証明」

 油絵具の匂いが好きだ。

 亜麻仁油の重たい香りと、テレピン油の鋭い揮発臭が混ざり合ったあの匂い。それは私、一之瀬彩葉いちのせ・いろはにとって、生きている証そのものだった。

 けれど、世間一般にとって、それはただの「異臭」に過ぎないらしい。

「彩葉、悪いけどもう無理だ。君の絵は……精神衛生上よくない」

 東京、青山。洒落た路地裏にある貸しギャラリー『ル・レーヴ』。

 私の個展最終日の撤収作業中、オーナーであり、三年間付き合った恋人でもある誠司せいじが、疲れた顔でそう言った。

 彼の背後には、私の自信作『激情の赤、あるいはトマトの叫び』が飾られている。真っ赤な絵具をチューブから直接ぶちまけ、ナイフで切り裂いたようなタッチの、我ながら情熱的な抽象画だ。

「精神衛生上よくないってどういうこと? この赤のグラデーション、見ているだけで血がたぎるでしょう?」

「だからだよ! 客から『呪いのアイテムか』ってクレームが来たんだよ! 先週売れたの、ポストカード一枚だけだぞ。それも間違って買ったお婆ちゃんが返品に来た!」

 誠司は額に手を当てて天を仰いだ。

 彼は常識人だ。売れる絵を知っている。静物画なら花瓶を、風景画なら富士山を、誰もがわかるように描いたものを好む。

 対して私は、見えないものを描きたかった。感情、温度、あるいは魂の形。

 結果として、私のキャンバスは常に、原色が殴り合う戦場と化す。

「君の才能は認めるよ。色彩感覚はすごい。でも、君の絵には『形』がないんだ。何が描いてあるかわからない絵に、金は払えない。……家賃も払えない」

「えっ」

「ギャラリーの経営も苦しいんだ。これ以上、君の趣味に付き合ってやれない。……別れよう」

 決定的な一言は、あまりにあっけなかった。

 誠司が私に突きつけたのは、別れ話と、未払いのギャラリー使用料の請求書。そして、私の全財産が入ったボロボロの画材ケースだった。

   ◆

 外は冷たい雨が降っていた。

 傘もささず、巨大な画材ケースを背負って渋谷の雑踏を歩く。重い。物理的にも、精神的にも。

 スクランブル交差点の信号待ちで、私はふと空を見上げた。

 鉛色の雲が、低く垂れ込めている。

(灰色だなぁ……)

 都会は色が足りない。

 アスファルトのグレー、ビルのコンクリートのグレー、サラリーマンのスーツのダークグレー。

 世界から色彩が剥離はくりしてしまったみたいだ。まるで、誰かがパレット洗いをサボった筆洗液のような、濁った色。

「……私の絵のほうが、よっぽど生きてるもん」

 負け惜しみをつぶやいた、その時だった。

 ――ピキッ。

 耳元で、硬質な何かがひび割れる音がした。

 ガラスを踏んだ音に似ている。でも、もっと大規模で、空間そのものが悲鳴を上げたような音。

 周囲の歩行者たちも足を止め、キョロキョロと辺りを見回している。

「今の音、なに?」

「ビルのガラス?」

 ざわめきが広がる中、私は違和感の正体に気づいて息を呑んだ。

 空だ。

 見上げた灰色の空に、奇妙な『黒い線』が入っている。

 それは雲の切れ間ではない。まるで、空という巨大な液晶画面に入ったヒビ割れのように、ジグザグと走り、ゆっくりと広がっていく。

「嘘……空が、割れてる?」

 誰かの悲鳴が上がると同時だった。

 ヒビの隙間から、ドロリとした『何か』が零れ落ちてきた。

 雨ではない。それは色を持たない、完全な『無』のような液体――いや、気体か?

 認識できない物質が、スクランブル交差点のど真ん中に落下する。

 バシャンッ!!

 音がした瞬間、世界の色調が変わった。

 落下地点にいた人々が、一瞬にして静止する。

 彼らの服の色、肌の色、持っていた傘の鮮やかな色が、まるで漂白剤をかけられたように急速に色褪せていく。

 赤信号の赤が消え、ネオンサインの輝きが消え、世界が急速にモノクロ映画へと書き換えられていく。

「な、なんだこれ……体が……動かな……」

 私のすぐ隣にいた男子高校生が、掠れた声を上げた。

 見ると、彼の手足が石膏せっこうのように灰色に変色し、硬化し始めている。

 恐怖よりも先に、私の画家の目がその現象を分析していた。

(石化? ううん、違う。これは『脱色』だ)

 絵具から顔料を抜いたような、存在の希薄化。

 色が抜けた人間たちは、次の瞬間、サラサラと乾いた砂になって崩れ落ちた。

 悲鳴すら上がらない。ただ、風に吹かれて灰色の砂が舞うだけ。

 交差点の中心から同心円状に広がる『脱色』の波が、私の方へ迫ってくる。

「逃げなきゃ」

 頭ではわかっているのに、足がすくんで動かない。

 恐怖で震える私の視界の端に、ヒビ割れた空から降りてくる『影』が映った。

 それは巨大な犬の形をしていた。けれど、目も鼻も口もない。輪郭線だけの、乱雑なスケッチのような怪物。

 その怪物が、砂になった人々の残骸を踏みしめ、私の方を向く。

 顔がないのに、視線を感じた。

 あいつだ。あいつが色を喰っている。

(やだ。死にたくない。まだ何も描いてない)

 怪物が跳躍した。

 スローモーションのように見える世界で、私は無意識に背中の画材ケースを盾にしようとした。留め金が外れ、中身がアスファルトに散乱する。

 転がり落ちたのは、愛用のペインティングナイフと、一本の油絵具。

 ラベルには『カドミウム・レッド』。

 有毒だが、何よりも鮮烈で、美しい赤。

 ――描け。

 脳内に直接、誰かの声が響いた気がした。

 それは幻聴かもしれない。あるいは、死の淵で見せた芸術家のごうかもしれない。

 私は震える手で絵具のチューブを掴み、キャップを引きちぎった。

 中身をペインティングナイフにたっぷりと乗せる。

 怪物の爪が、私の喉元に迫る。

「私の世界を、勝手に灰色にするなあああっ!!」

 絶叫と共に、私はナイフを横薙ぎに振るった。

 対象は怪物ではない。目の前の『空間』だ。

 ただの絵具のはずだった。

 けれど、ナイフの軌跡に沿って、空間に鮮血のような赤いラインが刻まれた。

 ドォォォォンッ!!

 物理法則を無視して、その『赤』が爆発した。

 いや、それは炎だ。私がイメージした「燃え盛るような赤」が、そのまま現実の熱量を持って具現化したのだ。

 極彩色の炎が怪物を呑み込み、灰色の街を照らし出す。

「ギャァァァアアアッ!?」

 声帯を持たないはずの怪物が、不快なノイズのような断末魔を上げる。

 炎の勢いは止まらない。雨粒さえも蒸発させ、アスファルトを焦がす。

 私は尻餅をついたまま、呆然と自分の手を見つめた。

 手には使いかけの絵具とナイフ。

 目の前には、燃え上がる赤い壁。

「……うそ。描けちゃった」

 私の絵は「何が描いてあるかわからない」と言われ続けた。

 でも今、私の「イメージ」は、明確な「現象」となって目の前に存在している。

 この瞬間、売れない前衛画家・一之瀬彩葉の常識は崩壊し、新たなことわりが世界を塗り替えようとしていた。

 しかし、安堵するには早すぎた。

 炎の向こうから、さらに巨大な『無色』の気配が、何十、何百と溢れ出してきていたのだ。

 そして、空の亀裂から、一人の男が舞い降りる。

 漆黒のローブに身を包み、氷のように冷たい美貌を持った青年が、燃え盛る私の『赤』を見下ろしていた。

「……ほう。このけがれた次元に、原初のプリマ・カラーを操る者がいるとはな」

 それが、私と「彼」――後に世界を救うことになる、性格最悪な王子との最悪な出会いだった。

(エピソード1 完)


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