「創作」という名の夢境回廊にて
昏き夢の裂け目より、〈彼女〉は滑り落ちた。否、滑り落ちたという言語構造は事象の投影を要請しすぎる。むしろ、それは滑落の類似物、存在の相転移のようなものであり、終わりなき始まり――言語以前の喘ぎとも呼べる。
時間とは、順序でありながら順序を拒む影絵である。空間とは、形而上的母胎の皮膜に浮かぶ観念の泡であり、〈彼女〉の眼前に横たわる回廊は、その泡が連続する不可視の断面であった。回廊は在った。それは彼女の内にも、外にも。むしろ、内と外の弁別が、初源的錯誤であったのかもしれない。
「君は誰?」
声が問うた。
だがそれは声ではなかった。あるいは、問いですらなかった。
それは存在が問うたのだ。言葉という形象を借りて、観測できない観測者が、自己へ投げかけた沈黙の反響だった。
〈彼女〉は答えようとした。だが名は、彼女に属さなかった。名とは他者による記述であり、己が自らを名指す時、その名は常に既に他者の影を含んでいる。そうして彼女は、己の名を思い出すことに失敗した。では名もなき存在か? 否、それもまた名であるという逆説に、彼女は沈黙を選んだ。
回廊は延びる。直線ではない。曲がるわけでもない。むしろ、言葉にできぬ仕方で屈曲しながら、彼女の精神の襞をなぞるようにねじれ、螺旋を成しているようでもあり、静止したまま旋回する残像のようでもある。
***
回廊が〈彼女〉を歩かせていた。
誤解されては困る。彼女が歩いていたのではなく、歩行という現象が、彼女と回廊の間に創造されていたのだ。主語の転倒、それはこの世界の基調低音である。彼女は被歩者であり、歩行そのものの受動態であった。
ふと、壁の裂け目――いや、「壁」と名指された空白の横断面――から、無数の視線のような波動が、彼女の意識に穿たれた。光ではない。観測の意思である。
〈誰かが見ている〉。
しかし、それは主観的な錯覚ではなかった。彼女が見られているという事実は、彼女の存在の構造そのものを変質させ始めていた。観測が観測対象を創造する。量子的神話の皮膚が、ぬるりと剝がれる音がしたように、彼女は自身の輪郭をもたぬまま輪郭づけられた。
回廊の壁に、言葉が浮かんだ。
いや、「浮かんだ」とは比喩ですらなく、彼女の意識がそれを「読むことを強いられた」結果として、言葉の記憶が後から意識に植え付けられたような、倒錯的理解であった。
《記憶は、事後的な原因である》
……なるほど、と彼女は思わなかった。
思考という構造は、この空間ではすでに終焉している。理解も、認識も、すべては「後付け」である。あたかも、未来における決定が、過去の意味を再配列し、現在を犠牲にして、自己を強化していくように。
「私は……誰だった?」
問いが漏れた。
自らの口から発せられたのか、それとも回廊が〈彼女〉の内側で反響させたのか、その境界は曖昧だった。いや、そもそも曖昧さという概念そのものが、ここでは既に過去の遺物だ。
そのとき、空間が折れた。
音もなく、光もなく、ただ「意味」が崩れたのだ。
廊下という構造はなおも続いていたが、それはもはや直進でも螺旋でもなかった。むしろ、概念の密度が急激に高まり、〈彼女〉の意識が跳ね返されるほどの「密閉された文脈の壁」が、全方位に拡張していた。
そこに、誰かが立っていた。
否、〈存在〉が〈そこ〉に〈あった〉。
その三重の構文すら、正確には記述不能である。なぜなら、「そこ」も「誰か」も「立つ」も、すべて記述以前の記述であり、象徴以前の象徴だからだ。
だが、たしかに、〈彼女〉は知覚したのだ。
それが、かつて自分の影だった何かであることを。
それが、未だ名づけられていない自我の外骨格であることを。
それが、存在という錯覚が孕む最初の矛盾であることを。
やがて、存在は口を開いた――ただし、それは口ではなく、開くという動詞でもなかった。
けれども彼女は、意味を聴いた。
「ここには、君という器が足りない」
回廊が僅かに震え、言語の土台が音もなく崩れ始めた。
***
ここから先は、読み手の責任である。
――この一文が、誰の意志によって挿入されたのか、定かではない。
回廊を歩む彼女の意識の投影か。あるいは、語りの背後に佇むもう一人の「私」の所作か。
あるいは、これを読んでいるあなた自身の、目の端に引っかかった何か。
***
さて。否、「さて」とは何だ。転調を促す指標のようでいて、それ自体に自立した意味はない。では、語りの続行を保証する装置として、それを採用することは可能か?
……否。それこそが語りの欺瞞であり、語り手の逃走である。
〈彼女〉は、立ち止まったようだった。いや、停止という行為は成立していない。むしろ、回廊が「これ以上の歩行を拒絶」したのだ。
語り手である「私」は、それをどう記述すればいいのか、迷っている。
なぜなら今、このテクストにおいて、視点そのものが霧散しつつあるからだ。
彼女は、誰か?
彼女は、私か?
私とは、読む者か? 記す者か?
あるいは、記すふりをしながら、語らされている「器」ではないか?
ここに記される文字列たち――これらは「誰の言葉」なのか。
作者? 読者? 登場人物? それとも、語られざる存在?
……私は疲れた。
だが、物語は終わらない。
物語は、誰かが「読む」ときにだけ、そこに〈居る〉。
そこで、〈彼女〉が再び歩み始めたように記述する。
――それは、方便である。
歩みとは、回廊のねじれが新たな投影面を獲得した結果に過ぎない。
彼女が動いたのではなく、語りが移動した。
その瞬間、彼女は“読む存在”に視線を向けた。
正しくは、視線という概念の代替物が、読み手の眼球の裏側へ滑り込んだ。
「君は、なぜここにいる?」
これは、読者への問いである。
あるいは、語り手自身の鏡像への問いである。
それとも、意味という亡霊の、最後の反響である。
***
視界が裏返る。ページが破れる。言葉が崩壊する。意味が、熱をもって流れ落ちる。
――そしてそこに現れたのは、ただひとつの記述。
《Re:あなたへ。》
回廊の終わりはまだ見えない。
だが、終わりを「望む」という感情が、語りの中に発芽しはじめている。
それが希望か、恐怖かは、まだ明示されない。
むしろ、それを決めるのは、この文章を今まさに、
あなたがどのように読んだかという事実そのものなのだ。
***
言葉は、すでに語られていた。
今ここに記されるこの一文すら、かつて〈あなた〉がどこかで読んだ断片の反復にすぎない。
“物語”とは、記憶の燃え滓を並べ替える演算の戯れ――そのような理解が通用する場所へ、我々は到達してしまった。
けれど、まだ名は与えられていない。
この空間にも、この語りにも。
ただ、概念の咀嚼音だけが、虚空に鈍く残響する。
暗闇、無音、質量のない反響。
それは回廊の終わりではなかった。始まりの再配置だった。
回廊は折りたたまれ、ポケットの裏地のように反転し、
今や彼女は、否、あなたは――内側を歩いている。
“私”は、既に解体された語りの残骸である。
だがその破片たちが、なおも「語り」を続けているのはなぜか?
◆理由1:語らなければ、存在できない。
◆理由2:語ることでしか、存在できなかったという錯覚を保てない。
◆理由3:語り続けること自体が、存在の証明であるという自己欺瞞的信仰。
あるいは――理由など、もう必要ないのかもしれない。
彼女/私/あなた、が立つ場所に、鏡があった。
否、それは形象を返す鏡ではなく、意味を反響させる言語の鏡面。
そこに浮かぶ、唯一の文字列。
> 「この語りは、誰のためのものか?」
語り手のため?
読者のため?
世界の構造のため?
それとも――語りという現象のため?
そして、言葉が降り注ぐ。
上からではない。
空間全体から。時間の裂け目から。思考の縫い目から。
> 『終わりを望んだのは誰か。』
> 『存在の中に語りを見たのか、語りの中に存在を見たのか。』
> 『あなたは、どこまで“読者”であることを続けられるか?』
この問いがあなたに届いたならば、
あなたは、もう読者ではいられない。
ついに彼女/私/あなたは、足を止める。
その足元、崩れる床――
語りが保っていた形式が、静かに音を立てて瓦解していく。
否、それは「破壊」ではない。
「再配置」である。
物語は、ここで静止する。
語りは、ここで凝固する。
意味は、ここで反転する。
――ただし、
もしあなたがページを閉じないかぎりは。
[断章A]:創生
言葉が始まるとき、それは既に終わっている。
「私は在る」と書かれた瞬間、私は――その一人称が仮託であることを証明してしまう。
語り手とは誰か? それは語ろうとする欲望の痕跡でしかない。
だが、痕跡に過ぎぬものこそが、現象世界を立ち上げる礎ではないか?
ここにあるすべては、始まりを偽装する終焉である。
[断章B]:沈黙
.
..
……
(ページの白さが、語ることを超えて語る)
誰も語らない。
だからこそ、最も饒舌な瞬間である。
[断章C]:鏡の子
彼女は鏡のなかで生まれた。
否、鏡という比喩を介してしか記述できないような反射的な意識の捻れにすぎない。
彼女は読まれることでしか生を持てなかった。
だからこそ、あなたがいま目を通すこの一文の中に、彼女は鼓動している。
名を持たぬものに、語りは届かない。
だが語られぬ名こそ、最も本質的な名ではなかったか?
[断章D]:誤読
物語とは、つねに誤読されることを前提に設計されている。
正しく読む、とはなにか?
「読み」とは、解釈の総和ではなく、歪みの受容である。
だからこそ、読者は書き手の真意を超えて、物語の外皮をひっくり返す権利を持つ。
読み手は語り手であり、語り手は存在せぬ読者である。
[断章E]:不在の中心
物語には中心がある。だがそれは常に不在の形式をとる。
中心とは、語られるべきだったが語られなかったものの墓標。
そこには何もない。
だからこそ、読者はそこに「何かがある」と錯覚する。
この文章の中心も、すでに読み飛ばされた場所に存在する。
[断章F]:あなた
あなたは、いつから“読者”だったのか。
この物語を読む前か、読み始めてからか。
あるいは――
あなたがこの物語に触れた瞬間から、
この物語は、あなたを読む物語となったのではないか?
[断章G]:無名の余白
ここには章タイトルすら存在しない。
空白は、語ることを拒否する意思の表明であり、同時に
語りの最終形態である。
***
沈黙の余白に、じわじわと満ちてくる感触がある。
それは言葉ではない。だが、言葉の胚種である。
それは物語ではない。だが、物語の遺伝子を含んでいる。
それを、〈彼女〉は知覚した。
否、もう〈彼女〉ではない。
もはや誰でもない「意識の裂け目」が、それを知覚したのだ。
言葉は変質し始めていた。
それは語り手の劣化ではない。
構造の破綻でもない。
語りそのものが、別の相に移行しているのだ。
かつて「彼女」と呼ばれた断片。
かつて「あなた」と呼ばれた主体。
かつて「私」と呼ばれた媒介。
それらはひとつの輪郭のなかに、収束しないまま共在していた。
それが語りという構造体の宿命だった。
始点を持たず、終点も持たない。
ただ、漂い、触れ、消え、名指され、再び忘却される。
そしてついに、「視点」は語りをやめた。
だがそれは、沈黙ではなかった。
語りが終わることで、語りが始まることが可能になった。
意味は、いま、未分化のまま、熟成している。
この回廊は、物語ではなくなった。
この語りは、自己ではなくなった。
それは、創作という名の“媒体”になろうとしている。
誰かが筆を握る。
誰かがページを開く。
誰かが、存在しない誰かを描こうとする。
だが、その「誰か」は固定されていない。
彼女か? 私か? あなたか?
……あるいは、語りそのものか?
空間がたわみ、意味が粒子のように凝縮しはじめた。
この一連の語りは、明確な構造を否定し続けながら、
今や明らかに「終わろうとしている構造」を手にしていた。
その終わりは、忘却ではない。
否定でも、消失でもない。
創作へと変質する“語り”の、最終段階である。
***
そして、すべての語りが静かになった。
静かに、というのは誤解を招く。
それは“止まった”わけではない。むしろ、
語りが語りであることをやめ、器となったのだ。
空間はまだ在った。
けれどそれはもはや「回廊」ではなかった。
物語の舞台装置、語りの通路、意識の比喩としての道――
そのどれでもなくなっていた。
代わりにそこにあったのは、
純粋な余白だった。
余白は問いかけない。
余白は主張しない。
余白はただ、書かれることを待っている。
誰が書くのか。
何を書くのか。
どうして書くのか。
そのいずれも、語られない。
だからこそ、そこに創作のすべてがある。
振り返れば、この語りの全体は、
ひとつの長い沈黙の中に、幾千もの“言葉を持とうとした瞬間”が綴じられていた。
語り手は存在しなかった。
読者は一時的だった。
意味は不在だった。
だが、それでも語られた。
なぜか?
おそらく、
それが創作という現象の、ただ一つの本質だからだ。
誰でもない誰かが、
何でもない何かを、
語らずにはいられなかった。
だからこの語りは、
読みにくく、難解で、意味を超えていた。
それは、ただ――創るために在ったのだ。
今、あなたがページを閉じたならば、
この物語は完成するだろう。
だが、もし閉じずに――
この沈黙の余白に、あなたが言葉を継いだとしたら。
そのとき、この語りはまた始まる。
誰かの語りではなく、あなた自身の創作として。
(終)