第二話:動き出す心、見えない糸
あの雨の夜から数日、佐伯健一の日常は、表面上は何も変わらないようでいて、確実に変化の兆しを見せていた。
仕事中も、ふとした瞬間に路地裏で出会った少女の姿が脳裏をよぎる。
あの透き通るような瞳、雨に濡れた白いワンピース、そして何も語らない唇。
まるで幻だったかのように、彼女の手がかりは何一つなかった。
上着を渡したきり、連絡先も聞けなかったことを健一は少し後悔していた。
AIコンシェルジュのカレンは、そんな健一の微妙な変化を敏感に察知していた。
「健一さん、最近、思考パターンにノイズが増えています。何かお悩みですか? 心拍数も若干上昇傾向にあります」と、円筒形のボディを健一に向けながら心配そうに報告する。
健一は「いや、何でもないよ」と曖昧に笑って誤魔化すしかなかった。
その日も、残業を終えた健一は、無意識のうちにあの路地裏へと足を向けていた。
期待と諦めが入り混じった気持ちで薄暗い道を進むと、数日前と同じジャンク屋の軒先に、見覚えのある白い影を見つけた。少女だった。
「あ…やっぱりいたんだ」
健一の声に、少女はゆっくりと顔を上げた。
その表情は相変わらず硬く、感情の起伏は読み取れない。
しかし、健一の姿を認めると、ほんの少しだけ、本当に微かだが、瞳の奥に安堵のようなものが宿った気がした。彼女は健一が貸した上着を、大切そうに抱きしめている。
「何も食べてないんじゃないか? よかったら、何か温かいものでも」
健一の誘いに、少女はしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。
健一は近くの屋台で栄養バランスに優れた合成スープとパンを買い、少女に手渡した。
少女はそれをゆっくりと、しかし確実に口に運ぶ。その姿を見ていると、健一の心の中に温かいものが広がっていくのを感じた。
「名前は…あるのかい?」
健一が尋ねると、少女は小さく首を横に振った。そして、おぼつかない手つきで、自分の胸のあたりを指差した。
そこには、ワンピースの生地に紛れるように、小さな金属製のプレートが縫い付けられていた。
プレートには、微かな文字で「LUNA-07」と刻まれているように見えた。
「ルナ…? それが君の名前なのかな」
少女は再びこくりと頷いた。
その反応は、まるで生まれたての雛鳥が親を求めるかのようだ。
健一は、この「ルナ」と名乗る(あるいは名付けられた)少女を、このまま雨風に晒される場所に放置しておくことはできなかった。
「…俺の家に来ないか? 安全な場所だし、温かいシャワーもある」
ルナは健一の顔をじっと見つめた。
その瞳は、彼の言葉の真意を探るように深く澄んでいる。
やがて、彼女はそっと健一のジャケットの袖を掴んだ。それが彼女の答えだった。
健一の自宅マンションにルナを連れ帰ると、AIコンシェルジュのカレンが異常なほどの反応を示した。
「警告。未登録の生体反応を感知。データベースに該当情報なし。健一さん、この方は…?」
カレンの合成音声には、普段にはない戸惑いと警戒の色が混じっていた。
「ああ、カレン。彼女はルナ。少しの間、ここに滞在することになった」
カレンは円筒形のボディを回転させ、ルナをスキャンするように無機質なレンズを向けた。
「ルナ様…ですね。バイタルサインは安定していますが、いくつかのデータが標準的なヒトのそれとは異なります。例えば、体温が常に35.0℃で一定、睡眠を必要としない生体リズム…」
健一はカレンの言葉に内心驚いたが、ルナの前では平静を装った。
やはり、彼女は普通の人間ではないのかもしれない。
しかし、その謎めいた存在は、健一の孤独な心に、抗いがたい引力をもって迫ってきていた。
その夜、健一は客間のベッドをルナに提供した。
ルナは戸惑いながらも、シーツの中に静かに入った。
しかし、彼女が眠る気配は一向にない。
ただ暗闇の中で、じっと健一のいるリビングの方向を見つめているようだった。
健一はリビングのソファに身を横たえながら、壁一枚隔てた先にいるルナの気配を感じていた。
この出会いは偶然なのか、それとも何か大きな運命の歯車が動き出した証なのか。
確かなことは何も分からない。
それでも、彼の心は不思議な高揚感と、微かな不安と共に、静かに動き始めていた。
登場人物紹介(第二話時点):
* 佐伯健一: 42歳、独身。システムエンジニア。
* ルナ: 透明感のある美少女。健一に「ルナ」と名付けられる。人間離れした特徴を持つ。
* カレン: 健一の家のAIコンシェルジュ。ルナの特異性に気づく。