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ライネリオ視点です
「ねえ、アコニタ。こんなの本当に巷で流行っているの?」
いつもの場所、いつもの姿勢。
ライネリオは心の奥に蠢くものを抑えながら、今日も職を全うしている。
「はい。字が読める侍女や女中の間ではとても有名です」
「ふーん」
王女は行儀悪くベッドに転がりながら本を読んでいる。
彼女の手にある本は二週間程前に書庫で借りたものである。
そんな彼女から目を離さず、ライネリオは待機している。
「第二王女が城から抜け出して平民の男と出会って、一日一緒に過ごしたら彼のことが好きになったけど、身分のこともあったからそのまま別れた。でも、次の日、宮殿で新米騎士となったその男とまさかの再会を果たした、この話が?」
「はい。貴族の令嬢方もとても気に入ったようです」
「それで実は騎士も彼女に一目惚れしたけど、彼女が王女と知って距離を保とうとした。そこで突然現れた姉王女が騎士のことを気に入って、自分の専属騎士にしたけれど、実はその姉王女は悪い人で、妹王女と騎士は二人で協力してそれを暴いた。そんな姉王女が皆の前で処刑されて、残った二人は結ばれて、最後はめでたしめでたし、この話が?」
「はい。その感動を沢山の人に共有したくて領民の識字率を上げようとしている領主夫人がいらっしゃる程にです」
「ふーん」
アコニタは淡々と王女の不満に答えた。
「夢物語ね」
その事実が気にいらず、セレスメリアはパンとその本を閉じ、シーツの上に投げ捨てた。
「どこがいいのかわからない」
王女は身体の向きを変え、二人の視線が交じり合った。
その瞬間、彼女は猫のように青い瞳を細めながら艶やかに微笑む。
「ねえ、そこの暇な怒りん坊さん」
猫なで声のような名前で呼ばれたことに、ライネリオの背中に鳥肌が走った。
刹那に顔を覗かせた怒りと悲しみを飲み込み、彼は会釈をする。
右手で近づくようにと命令され、彼は素直にそれに従った。
そんな彼を見て、彼女の笑みは深まった。
「あれとこれ、持ってって」
セレスメリアは交合で机の上と先ほど読んだ本を指す。
ライネリオは彼女の命令を飲み込めたが、理解できなかった。
「書庫に行くわよ」
セレスメリアは堂々と、鼻歌を歌いながら真昼の廊下を渡る。
最近はなくなったと思った外出は唐突に再開された。
(彼女は、一体何を考えてるんだ)
足音を殺しながら、彼女の背中を睨みながらライネリオはそう思わずにいられない。
多感であると一言で済ませればいいものの、彼にはそれができなかった。
彼女から感じる違和感があまりにも大きかったからだ。
セレスメリアはガラリと変わった。
あの夜から、二週間前の次の日から、彼女から感じる緊張があっさりと消えた。
今まではセレスメリアはどこかでライネリオのことを警戒していたのに。
横目で自分を盗み見している彼女には何回も感づいた。
しかし、それがなくなった。
自分を追う視線が。
その変化に対して、不思議とライネリオの心に小さな炎を灯す。
(また、弄ばれた)
その言葉がはっきりと頭によぎった時、ライネリオは息を呑んだ。
(何を馬鹿のことを考えてるんだ)
彼はぐっと強く、拳を握りしめる。
(俺の知っている彼女は、もういない。そう、あの日、死んだはずだ。父上や母上、皆と一緒に灰になった)
自分の知っている小さくて、コロコロと表情が変わる嘘が苦手な少女はもういない。
泣いてもそれを一度も人に見せようとしない、寂しくて強い少女はもういない。
守りたいと誓って、だからこそ伝えてはいけない感情を隠さなければいけない相手はもういない。
彼女は、ジェラルドがテルン家を訪れた日に死んだ。
悲劇は突然に訪れるものだ。
視察のために訪れたジェラルドが彼女を正式に自分の娘として迎えたいと告げた。
唐突な展開に悩み、相談されたその夜のことは今でもライネリオは鮮明に覚えている。
『私は王女様になるより、今がいいです。このままライネ様と――皆様と一緒にいたいです』
あの夜、彼女はそう願ったはずなのに。
星に。
そして、自分にも。
そのはずなのに――。
『私、王様の娘になれて、嬉しいです』
目の前には、ただの物体となった親が転がった。
そして、彼らの命で濡れた剣を握っている悪魔と彼の腕の中に笑う彼女がいる。
裏切られた。
その光景はライネリオを絶望の淵に落とした。
皮肉なことに、そこから芽生えた感情は彼の命を繋いだ。
(だから彼女は、彼女も、俺の仇だ)
ライネリオは強く握った拳から力を抜いて、それを見つめる。
その黒い手袋の下には他でもない、自身の手がある。
数えきれないほどの他人の血で染まった手だ。
ライネリオが奴隷落ちした後の日々は、言葉通りの生き地獄だった。
命令一つで何の躊躇もなく人の命を奪った。
己の尊厳を守るために人を殺めることも幾度もあった。
主人だった人、同じく奴隷だった人、自分に悪意を向けない人にもなんでも。
ライネリオは、暖かい世界から泥まみれの深淵に落ちた。
心が壊れてもおかしくないくらいの落差だった。
だが、それを繋ぎ止めたのは他でもない、復讐心だった。
彼の世界を壊したジェラルドに対して。
そして、両親を、家族全員を、自分を裏切ったセレスメリアに対して。
(そう、思っていたはずなのに。思わないといけないはずなのに)
大人になった彼女と再会した瞬間、今でも時々鮮明に蘇った。
ジェラルドを暗殺するために王妃の間に入った時のことだった。
ライネリオも一員としてその作戦に加わった。
あの時、月の光を浴びたセレスメリアの姿はあまりにも清らかだ。
記憶の中に残る面影を残しながら、少女が女性に変わった。
憂いを漂わせる雰囲気が、何故彼女があそこにいることに対する疑問と復讐心を忘れさせた。
それだけではない。
『塔』で再会した時の、大きく見開いた青い瞳。
本が逆さまだったと指摘した時の林檎のように赤くなった頬。
困った時、何かを隠している時に視線を左下に逸らす癖。
肉親すら誘惑する毒婦とはほど遠い表情だった。
ライネリオの知っている少女が姿をちらつかせている。
一滴の想い出が炎のように燃える憎しみの感情を弱らせる。
彼の生きる理由も、頼りないロウソクの火のように揺らいでしまう。
今のように。
そんなことを考えながら歩くと、気が付けば二人は書庫の前まで辿り着いた。
書庫の扉を開くと、その中に一人の老人がいる。
「おや、姫殿下? 何故ここに?」
「本を返しに来たわ。ついでに新しい本も欲しい」
「……ん? あ、いいえ、どうぞどうぞ、気軽に見てください」
セレスメリアはそのまま何も返事せず書庫の奥に姿を消した。
取り残されたライネリオは三冊の本を書庫番である老人に手渡した。
小さく笑いながら、老人はライネリオから本を受け取った。
「君も、何か借りたいのか?」
突然の提案に、騎士は少し驚いた。
ライネリオは確かに、昔は本を読むのが好きだ。
知らないことを知るのも、知ってから実践することも、そこから喜びを感じる。
彼にとって、本と言うものは幸せの象徴の一つなのだ。
「いいえ、私は、大丈夫です」
だが、今はそれどころではない。
自ら昔の古傷を掘り起こす必要はない。
「そうか? それは、少し残念だな」
眉を落とした書庫番に一礼をして、ライネリオはセレスメリアの背中を探す。
少し奥の方に行くと、彼の足に違和感が走る。
何か、異質なもの踏んでしまった、そのような違和感。
それが何かを確認するために、足を上げると、そこにはありえないものがあった。
踏んでしまった物の正体はライネリオの言葉を奪った。
シンプルな花のペンダント。
淡く光る青い石。
その組み合わせは、この世の中に一つしかない。




