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夏とはいえ、夜はまだ冷える季節。
暗闇の中に、炎の橙色に照らされた二つの人影があった。
「殿下、足元を気を付けてください。今日、風は強いので、それにも気を付けてください」
「それはもう聞き飽きたわ」
「申し訳ございません」
その人影の正体はセレスメリアとライネリオだった。
真夜中に部屋から出るたびに繰り広げられたやり取り。
今日も飽きずにそれを繰り返しながら、二人は足音を殺しながら書庫に向かう。
ハロルドの来訪から早くも二週間が経った。
セレスメリアは問題を起こさず、最後まで静かに部屋の中でじっとするつもりだった。
だが、吐き出した我儘が人目のある場所で了承されれば、状況が変わった。
彼女は出ざるを得なくなった。
皆が思う「セレスメリア」ならそうするだろうから。
昼間は人目が多く、幽閉中の罪人が自由に出歩く所が目撃されるとハロルドの威厳が傷つく。
一方、出なければ説得力が薄れてしまう。
二択に挟まれた結果、セレスメリアが取った選択は真夜中の散歩であった。
最初こそ抵抗はあったが、回数を重ねればそれが習慣になる。
ショールを羽織るとはいえ、寝間着で夜中に出歩く羞恥も徐々に薄れる。
皮肉なことに、この散歩はセレスメリアの憩いの時間となった。
夜中の宮殿の散策、小さな庭から見える星空。
ジェラルドが生きている間は許されない、セレスメリアの大好きな一時。
その憩いの時間に、当然のようにライネリオは王女の護衛、いや、監視役を担う。
そんな彼だが、前に比べると随分と変わった。
初めの頃に見せた王女の心を探る目が徐々に減り、今ではすっかりその瞳から何も感じられない。
悪女セレスメリアが悪事を働かぬように鋭く見つめる、そんな視線だ。
それを背中から受け止めているセレスメリアは疼く心を知らないふりをして、歩み続ける。
書庫は『塔』からそこまで遠くはなかった。
ライネリオがその重い扉を開けば、中から漂う古本の独特の匂いがセレスメリアの鼻をくすぐる。
だが、擽られたのは臭覚だけではなかった。
あれは、セレスが侍女見習いとして働いている時のこと。
掃除や本の整理のために何回もテルン家の書斎の中に出入りした。
とても落ち着いていて、心地よい空間だった。
書庫の香りは、その書斎ととても似ている。
香りは記憶刺激し、そこにいた人たちの顔を思い出させた。
だが、セレスメリアには感傷に浸る暇なんてない。
「薄暗くて、不気味な場所ね」
「では、戻りますか?」
「いいえ、灯を貸して」
ランタンを震える手で奪い取り、セレスメリアは逃げるように書庫の奥に歩む。
ライネリオを残し、彼女は極力あまり橙色の光に意識を向けないようにしながら本を漁り始める。
宮殿の書庫名に恥じないようで、娯楽的な読み物から歴史書まで、様々な本が種類ごとに分類されている。
ずらりと並んでいる棚のうちの一つ、痒くなった喉を我慢しながらセレスメリアは小説などが収納されている場所に立つ。
(うーん、どれも知らない題目だな)
無理もないことだ。
セレスメリアの読む本すらジェラルドに管理された。
彼女に読めるのは精々図鑑や刺繍の図案集くらいだった。
眉間に皺を寄せながら、セレスメリアは一通り本の背中に光を当てた。
その中から題目に「星」や「花」などが書かれている本を三冊適当に抜きだし、部屋の中央に戻る。
暗闇の中、セレスメリアはある方向の棚に目を向ける。
(そこは、駄目。『セレスメリア』は、そんな本を読まない)
経済学や歴史書。
知りたい気持ちに抗うために体の向きを直そうとすると、突然腕の中にある重みが消えた。
心臓が飛び出しそうになりながら、セレスメリアは勢い良く振り向いた。
暗闇の中に見える紫色の瞳に、彼女の肩から力が抜けた。
「あ、あら、意外と優しいね」
「いいえ」
いつの間にか、背後から隣に移動したライネリオに本が奪われた。
思ってもいない扱いに、セレスメリアの心臓の鼓動が悲しい程に早くなった。
(暗闇で、本当によかった)
太陽の下のであれば、紅色に染まる頬が彼の目に映ってしまう。
熱に浮かれた悪女の表情であればいいが、それは無理だろう。
それでも、時間が経てば真実が明かされそうで、セレスメリアは左下に顔を俯かせる。
「あちらの本棚はいいんですか?」
ライネリオの視線は、先ほどセレスメリアの好奇心を呼び起こした棚に向けられた。
「まあ、まだ持てるの?」
「まとめて借りたい本を全部借りた方が効率的のではないかと」
その言葉は確かに、彼女の胸に突き刺さる。
「そうやって散歩の口実を潰したいわけ?」
「……」
無言はかえって返答となった。
再会の瞬間といい、今といい。
世の中は全て落差で出来ている。
その差から生まれた痛みでセレスメリアは正気を保てるのも事実である。
自覚しているからこそ、未だに一喜一憂している自分に彼女の胸が重くなるばかり。
(一々、傷つくなんて)
それは、心のどこかで昔のように戻りたいと願っている証。
無邪気に彼の名が呼べる関係、無償に彼の微笑みが見られる時間。
そう卑しくも願っている。
(恥知らず)
願える星はもうないと知りながらも、彼女は願ってしまったんだ。
「じゃあ、残念ね。今日はその三冊でいいわ」
「かしこまりました」
そのまま、セレスメリアは扉に向かう。
ライネリオはそれ以上何も言わず、彼女の行き先に従う。
早足だからなのか、暗闇だからなのか。
おそらく、二つの要素が合わさった結果だろう。
「っ!」
気が付けば、セレスメリアは体勢を崩した。
意識よりも早く、顔を守るために手が動いた。
だが、彼女の体に走るのは痛みではなかった。
温もりだった。
セレスメリアが転ぶ前に、ライネリオは背後から彼女の腰に手を回した。
背中から広がる熱に誘われて、セレスメリアはゆっくりと顔を上げた。
だが、それは誤算だった。
ライネリオの顔は吐息が素肌に届くくらいに近い。
それだけで、セレスメリアが動けなくなる。
そんな彼女を余所に、彼はそのまま彼女の姿勢を直し、さりげなく距離を取る。
「足元、気を付けてください」
「……分かっているわよ」
子供のように聞こえるその返しにライネリオは小さくため息を吐く。
そんな彼の反応を見て、セレスメリアの胸がチクりと傷む。
彼れにそれ以上の失態を見せたくはなくて、彼女はすぐに歩み出した。
「っ」
踏み出した瞬間、足首から鈍い痛みが広がる。
それは何を意味するのか分かっていながら、セレスメリアは迷わず次の一歩を取る。
「殿下」
呼び止めたライネリオに振り向けば、彼はセレスメリアの肩を優しく掴む。
小言が出る前に、彼は持っていた三冊の本をセレスメリアに渡した。
その意図を問うためには、突然の出来事に言葉を失くした彼女には無理なことだ。
反応を示さない王女に、ライネリオは身体を屈ませる。
「失礼します」
その一言の後、セレスメリアの身体は浮遊感を感じる。
何が起きるのかが理解できず、彼女は小さく口を開ける。
ライネリオはそんな王女を横抱きしながら、行儀悪く書庫の扉を肘で開けた。
「ちょ、ちょっと! 降ろして!」
ようやく状況を飲み込んだセレスメリアはもがき始めた。
だが、思っていたよりもライネリオは強い力で彼女を抱きかかえている。
「声を小さくしてください。夜中に大きな声を出してはいけません」
「……わたくし、自分の足で歩けるけど?」
「そうですか。それよりも殿下、ちゃんと前を照らしてください。私は転びたくはありませんから」
暗に「貴女のようにな」とも聞こえるそのセリフにセレスメリアはぐっと唇を噛んだ。
反論に応じるつもりはない彼の言うことに従い、彼女はランタンが道を照らすように持ち直した。
ゆらゆらと、セレスメリアは彼の足取りと同じ律動で揺れている。
それよりも早く脈打つ心臓が気付かれないように、本で胸を隠す。
(勘違いしないで、セレスメリア。違うよ、本当に、違うの。ライネ様が何故こんなことをするのか分からないけど、万が一、そう、万が一彼に気付かれても、それはただ、職務を随行するためにこうしただけ)
静寂な暗闇の中に、セレスメリアの頭は煩く、思いついた理由を積み重ねる。
(そう、決して、決してそうではない。ありえないだもの)
内心でも、言葉にするにはあまりにも驕りな理由。
普段ならそれを自覚することに、彼女は冷静を取り戻した。
だが、今回は違った。
皮肉なことに、鼓動が治まる気配が全くないのだ。
密着された身体から、彼の体温が直接に伝わるからだろう。
(温もりは、昔と変わらない)
そう思うと、セレスメリアの胸がより切なくなる。
他の男性に触れられると、身体を固めるセレスメリア。
悪意がないと分かったハロルドすらそうなっていた。
今だって、ライネリオは彼女に敵意を向けている。
それでも。
(なんで、どうして、こんなに胸が騒いでいるのに、心が穏やかの?)
不憫なことだ。
ライネリオは男爵家の嫡男であり、セレスメリアは、セレスはただの孤児である。
男爵家のために、彼は他家の令嬢と結婚するだろう。
そう、幼いながらもセレスは理解している。
だから、その気持が芽生えたと気付いた瞬間、誰からも秘密にしたまま彼女はそれを埋めると決心した。
そうしないと、もう彼の近くにはいられなくなるから。
だが、その芽は強かなものである。
十年間も土の中に埋められたのに、密かに花開いた。
鮮やかな色を保つまま、少女の胸の中に残酷なほど華やかに咲いている。
(私、私……)
混乱、自己嫌悪、――否定できない幸福。
矛盾だらけ感情がセレスメリアから言葉を奪った。
会話一つもなく、二人は『塔』を目指す。




