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寒い。
肌に広がるその刺激に彼女の意識は明確になった。
(ここは、どこ?)
首を少し動かすと、視界の先は暗闇の一色で覆われている。
不自然な風景に恐怖ではなく、不思議と安堵感を抱いている。
身体から痛みや気だるさを感じないことに首を傾げたが、それは何を意味するのか、彼女はすぐ気がついた。
(夢……? いや、ちょっと違うかも)
夢と違って、意識の主導権は彼女自身が握っている。
少し考え込むと、彼女は自分に起きたことを思い出し、一つの結論に至った。
(あ、そっか。ここは、地獄だろうね)
望んでいた形ではないとはいえ、あの時彼女は確かに死んだ。
あの激痛、窮屈感、血の味。
今まで体験したことない程強烈なものだった。
それが死を意味するのであれば、この場所の正体は地獄しかないと、彼女は思った。
周りを見渡しても、閑寂だけが広がっている。
その中に彼女は一人でぽつんと佇んでいる。
とても暗くて、寒い場所だ。
だが、寂しさはあれど、恐怖はなかった。
幾度も思い描いた場所と異なるこの様に首を傾げながらも、彼女は現状について考える。
(じゃあ、私はちゃんと、死んだよね?)
望みに望んだ結果である。
そのはずなのに――。
「不思議だなぁ……何も感じなかったわ」
あまりの静寂に、彼女は言葉を発する。
そうすると、心の中にある不確かな感情が確かな形になった。
肩が軽くなったが、それ以外のものはなかった。
胸に詰まったしこりを和らげるために、彼女は深いため息を吐いた。
再び周りを見渡せば、やはり暗闇だけが広がっている。
歩いても、床を踏む感触がなく、本当に歩いているかどうかがわからなくなった。
どんなに歩いていても、風景が真っ黒のままだった。
疲労こそ感じてはいないが、虚しさが膨らむばかりだ。
「これは、確かに地獄かも」
暗闇の中に一人に放り出された。
多くの人を振り回した彼女にはぴったりな刑罰だ。
母も、父も、アコニタや彼女に優しさを与える人達も。
そして――。
あの人の名前が脳裏に浮かんだ瞬間、彼女は小さく首を横に振る。
「……これで、いいよね」
これなら、もう他人を巻き込まずに済む。
そう思いながら、彼女は歩みを止めた。
「うん、これがいいの」
自分が選んだ結末だ。
残り少ない命で苦しめた人達の役に立てば、それ以上のものがない。
だから、今顔を覗かせる感情はまやかしである。
その感情の正体から目を逸らし、彼女は立ち尽くしている。
* : * : *
暗闇の中で目を覚ましてから、もうどれ程時間が経ったのか。
彼女は今もその中に彷徨っている。
ただただ座っている時もあるが、彼女は身体を動かした方を好む。
何故なら座っていると時折、人の話し声が聞こえ、花の香りが漂ったからだ。
手から忘れられない温もりを感じた瞬間もあった。
一瞬だけ感じたそれらを気のせいだと思い、気を紛らわすために彼女は歩みを止めない。
まるで、何かから逃げるかのように、歩み続ける。
そうしないと、彼女の中に芽生えていけない感情が芽生えてしまう。
「そんなの、都合がよすぎる。だから、駄目。駄目だよ、私」
そう思った瞬間、初めて変化が現れた。
あれは小さな変化だった。
最初は気のせいだと思ったが、彼女が目を凝らしながら見ると、それは確かに存在しているとわかった。
「あれは、光?」
遠くには何かが淡く白く輝いている。
それは彼女のやつれた心を優しく照らし、癒してくれた。
だからなのか、彼女の足は自然とその光を目指すようになった。
最初は大きさは変わらないが、長い時間を経て、少しずつそれが大きくなった。
そして、誘われたかのように、彼女はその光に手を伸ばせば――。
それは、一瞬だけだった。
暗闇色は、彼女の記憶に深く刻まれた風景に変わった。
足が草花にくすぐられている。
風は頬を撫ぜ、森の香りを運んでくれた。
そして、何よりも信じられないのは、天井だった。
宝石のように、星々が散りばめられている。
その中で、黄色い星が堂々とその光を発した。
テルン家の屋敷の裏庭でよく見た、愛しい風景が目の前に広がる。
望郷と共に彼女の視界がぼやけ始めた。
『あれは飛竜の星座の瞳の部分だ。それをこうして辿ると、竜の姿が見えるだろう?』
『うーん、私には見えませんね』
『そうか?』
『見えませんねー』
『そっか……でも、あの星って――』
幼い二人が芝生の上に座り、星空を眺めている時の記憶。
初めて、彼がその星を、「飛竜の瞳」を彼女に教えたあの日の記憶。
彼に、その星に言い伝えがあると知り、その星に向かって願うようになったあの日の記憶。
「あ、はは。……なんでよりによって、ここなのかな?」
ここは、まさに地獄。
だって、ここは彼女が一番恋焦がれた、帰りたい居場所なんだ。
同時に、彼女の存在で壊れてしまった場所でもあった。
その気持ちのせめぎ合いは涙に変わり、それらは止めどなく彼女の瞳から流れる。
この時、彼女は声をあげながら泣いた。
彼女にとってこれは何年振りかの嗚咽である。
泣いてからどれくらい時間が経ったのだろうか。
天井は変わらず星々で飾られて、太陽が昇る気配が全くなかった。
気が付いたら、彼女は芝生の上に座り込んでいる。
あんなに泣いているのにも関わらず、身体が全く熱くならなかった。
むしろ、子供のように号哭したおかげで、身体を硬くするいらない力が全て溶けて消えた。
彼女は軽やかな気持ちでぼんやりと変わらない星空を眺める。
それをより一層教授したくて、今度は芝生の上に全身を委ねた。
「ああ、綺麗だなぁ」
そう小さく呟きながら、彼女は黄色く輝いている星に手を伸ばす。
それを掴めようとしても、やはり手には入らない。
『この地域では、竜の瞳を掴めると願いが叶うんだって』
『星を、ですか?』
『はは、わかってるよ。まあ、ただの願掛けだよ』
それを知った時から、彼女は幾度も竜の瞳を掴めようとした。
己は何を願っているのかわからないまま、なんとなく手を伸ばし続けた。
だが、いつからだろうか、それは虚しい行為であると気付いた。
手を伸ばすのをやめた。
その代わりに、諦めるために星に願うようになった。
「ふふ、本当に面倒な人ね、私」
まさか、複雑に絡み合った気持ちを抱えたまま地獄に落ちるとは。
これは想定外であると、彼女は自分に呆れた。
だが、ちゃんと言葉にすることで、それを自分の一部であると認められたような気がする。
彼女の胸の重みが少し軽くなった。
同時に、地獄に落ちてから一度も訪れなかった眠気が突然訪れた。
その眠気に身を委ねて、素直に瞼を閉じようとした時に――。
右手から温もりが伝わる。
それだけではない。
自分の手に馴染んでいる、固さと形。
そう気付いた瞬間、彼女はすぐさま上半身を起こした。
その熱の正体を見て、彼女は目を大きく見開いた。
「嘘、でしょう」
不安に押しつぶされた時、寂しさが訪れた時にいつも握り込んだ、大切な宝物。
「なんで」
覚悟の表れとして、自ら手放した己の一部。
「どうして」
大切な人たちが「彼女」に贈り、「彼女」が存在している証となった物。
木目が見えるサクラソウのペンダント。
そして、彼女の瞳と同じ色で光る歪な夜光石。
二つのペンダントは彼女の掌の上に転がって、淡く光る。
同時に、彼女の耳に懐かしい声が聞こえた。
いや、聞こえてしまった。
今までそれは幻聴であると、己に言い続けたものである。
『セレス』
その声はちゃんと、彼女の本当の名前を呼んでいる




