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 床に正座し、窓の方に向けながらセレスは手を合わせる。

 眠る前の精霊への祈りは彼女の日課であり、今まで一度もそれを忘れることはなかった。

 いつもなら心を落ち着かせ、精霊の存在に集中している彼女だが、今日はそれができなかった。


『戻るための手配は私たち、ギズラー家が既に用意しました。ですので、出発は明日の早朝になります』


 急なお知らせに、急な展開。

 外にあまりでないとはいえ、アベイユののどかな雰囲気はセレスに合っている。

 だから、自然と胸が少し切なくなる。


 だが、それだけではないのだ。

 王都に戻る。

 そこから何が待っているのか、セレスは充分な程に理解している。

 待ちに待った瞬間、彼女がようやく解放される瞬間が訪れるのだ。

 罪から、この身体から、この感情から。

 そう思うと、心が高揚してしまうのは仕方のないことだ。


(あ、いけないわ。今、祈りに集中しないと)


 彷徨う思考を正しい道に戻し、再び精霊への無言の感謝を述べるその時。


――コンコン。


 控えめなノックの音に誘われ、危うく立ち上がる所だった。

 しかし、セレスは祈りを優先した。

 誰がノックしたのか、何故ノックしたのか、自然と湧き出た質問と回答を思考から排除し、再び祈りに集中する。

 祈りを終わらせ、ようやく彼女は扉を開ける。

 そして、そこには案の定、申し訳なさそうにしているライネリオが立っている。


「申し訳ございません。もしかすると、祈りの時間でしたか?」

「いいえ? 貴方を放置してみたかっただけだわ。それで、何?」

「……少しだけ、時間を頂いてもよろしいでしょうか?」

「ふーん。まあ、いいわ。今日は星が綺麗だから、気分がいいの。これくらいは目をつむってあげましょう」


 許可を得たライネリオはセレスに続き、部屋の中に入った。

 重い足取りをしている彼と違い、彼女の足取りはとても軽い。

 セレスはそのまま窓に近づき、普段ではありえないくらい、それを堂々と大きく開く。


「ほら、見て」


 後れて到着したライネリオはセレスの隣に立ち、窓の外を見上げた。

 そこには王都では見られない、綺麗な星々の海が広がっている。

 今までセレスの咳が酷い時や、悪夢で目覚めた時に何回か一人でこっそりと窓を開けたことがあった。

 しかし、こうやって二人で見上げるのは、セレスとライネリオにとって何年ぶりかの行為である。

 神秘的な自然を目の当たりにし、二人は無言でその美しさを味わう。


(昔みたい)


 懐かしい、過去の記憶が蘇る。

 まだ冬ではないから、あの星が見えないが、それでも懐かしく感じる。

 昔のように、拳一つ分開けられた距離に分けられた二人。

 だけど、もう昔のように戻れない二人。

 だって、おそらくこれが最後になるんだ。


 そう思うと、セレスの胸の中から何かが込み上がる。

 この時、彼女はようやくそれを素直に受け入れることができた。


(寂しい)


 この満足感をもう二度と味わえない。

 死は解放になるかもしれないが、終止符という意味でもある。

 他の生きている人と違って、もう時の流れに乗って泳げない。

 他の人はそのまま進み、セレスを置き去りにする。


 だから、彼女は思わず、とても我が儘なことを願ってしまったんだ。


(少しでもいいから、ライネ様に――)


 そうすると、セレスは苦笑を浮かべる。


(何を願おうとしているの、私。前はあんなに忘れて欲しいと思ってるくせに)


 そんなの、本当に自分勝手なことだ。

 だから、彼女は気を取り直し、優先するべきことを願う。


(全てが、上手く行きますように。私の死がちゃんと、皆のためになりますように)


 そう願うと、窓から優しい夜風がセレスの頬を撫でる。

 その感触を味わい、自然とセレスはその青い瞳を閉ざす。


 まるで、彼女の願いに応えるかのように、とても優しい風だった。


「何かを願ったのか?」


 ライネリオはそう静かに質問した。

 二人で星を見る時に、彼はいつもこの質問をセレスに投げかけた。

 懐かしい記憶に、セレスは思わず「ふふ」と小さく笑った。


「ええ、そうですよ」


 彼女の答えに、ライネリオは瞠目した。

 だって、これは再会してから初めてセレスは自分の意思で「セレス」のままで答えたんだ。


(もしかすると、この後昔みたいに「何を願ったの?」とか聞くのかしら)


 そう思うと、心がくすぐられた。

 しかし――。


「セレス」


 ライネリオは優しく、セレスの右手を取った。

 セレスは驚いた。

 初めて、二人の暗黙の了解である一挙分の距離が侵害されたのだ。


「ライネ様、何、か……?」


 彼の真意を問いたくて顔を上げたが、それどころではなかった。

 ライネリオは真剣な目をしている。

 彼のその瞳に囚われ、セレスは身動き一つも取ることができなかった。

 そして、手から何か、硬くて冷たい感触が伝わる。

 それを確認すると、自分の手のひらの上にとても懐かしいものが転がっている。


 ペンダントだ。

 母の形見、ライネリオとの想い出が詰まったペンダントなんだ。

 それが何故、今自分の手にあるのか、セレスは状況を飲み込めずにいる。

 そのペンダントに釘つけになった彼女を見て、ライネリオはゆっくりと、だがはっきりとした声を発した。


「一緒にどこかに逃げてくれないか?」


 次から次へと、驚きが訪れる。

 自分の耳を疑いたくなるほど、とても信じがたい提案である。

 大きく目を丸くしたセレスを見て、ライネリオは嘲笑を浮かべる。


「やはり、俺には無理だ。君を憎み続けるなんて、無理なんだ」


 懺悔の時にするような、抑えられた声色。

 ライネリオは辛そうに眉間に皺を作りながら、懺悔の続きを口にする。


「勝手な解釈だと理解しているが、なんとなく、君の意思はわかったと思う。それと、とても感謝している。確かに、この半年で俺は色んなものを取り戻したんだ。それらは他でもない、君のおかげだ。だから、これは俺の我が儘だ。……君の意思に反しても、どうしても、君を諦めきれない、忘れられない男の我が儘だ」


 ライネリオはぎゅっとセレスの手を握りしめる。

 嘘だ、そんなバカな。

 セレスは彼の話に耳を傾けながらひたすらそう叫んでいる。

 だが、全身に広がるこの熱が、この震えが、これは現実であると知らしめている。


「俺と一緒に、逃げてくれないか?」

「逃げるって、どこに、ですか?」

「まだ、わからない。だけど、どこか遠い場所に。俺たちのことを知らない場所に逃げよう」


 それは、とても魅力的な提案だ。

 どこか遠い場所で、新たな人生を始める。

 過去も名前も全てを捨て、新しいセレスとライネリオとなる。

 そこから二人の新しい物語が始まるかもしれない。

 そして、それが幸せな物語であればどれ程素敵だろうか。


「わかっている、短絡的だということくらいは。だけど――」


 ライネリオは目を逸らさず、セレスを見つめる。

 握りしめられた手は熱い、そして痛い。


「人を守られとしても、その中に君が居なければ何の意味があるんだ?」


 彼の言葉の裏に隠された感情が察せられない程、セレスは鈍くはない。

 その意味をちゃんと組み取ったからこそ、セレスの心は温かいもので満たされる。


 肝心な言葉を口にできないくらい、二人の間には色んな物が拗れている。

 いや、おそらくそれは二人の言い訳に過ぎないんだ。

 特にセレスは、彼との関係が変わるだけで、自分のガラスのように脆い決意が粉々になる未来しかないと容易く想像できる。


 だが、それは過去の話だ。


 ライネリオはそれを言葉にした。

 遠回りをしながらも、ちゃんと言葉にした。

 そして、それはちゃんと、セレスの心に届いた。


 そう思うと、自然と彼女の瞳に涙が潤む。


(よかった。本当に、よかったね、「セレス」。……貴女って本当に、残酷な人ね)


 セレスは、頬を桜色に染めながらはにかむ。


「嬉しい」


 真摯な態度で彼の優しさに答えなければ、とセレスは思い、意を決して、顔をあげる。

 目を逸らさず、「セレス」は昔のように、あの純粋だった頃のように微笑む。


「すごく嬉しいです、ライネ様。どこか遠い場所で、ただのセレスで、ただのライネリオでいられる場所で一緒にいられること……私が一番願いたい未来は、それかもしれません」


 ライネリオは小さく息を呑む。

 そんな彼に構わず、セレスは彼の手から己の手を解き、窓の方に振り向く。


 そして、右手に握っていたものを、そのまま窓の外に放り投げた。


 遠くへ、遠くへ、もっと遠くへ!

 できるだけ遠くへ、手放した。


 ようやく、それを手放せた。


 それを、呆然としながら見ているライネリオ。

 そんな彼に、「セレスメリア」は語りかける。


「ねえ、怒りん坊さん。わたくしって、唯一よりも多い方が好きなの」


 セレスメリアは窓の縁に身体を預け、首をかしげる。


「それ、知っているでしょう?」


 無反応なライネリオに、セレスメリアは問う。


「そんなわたくしを、まだ殺したい?」


 狡い質問だと、彼女自身は知っている。

 だが、問わざるをえないことも事実である。

 何故なら、これも彼女にとっては答え合わせなんだから。


 その問いに、ライネリオは――。


「ああ、殺したいさ。この世の誰よりも、貴女を殺したい」


 強く、彼女を抱きしめながら、迷いのなく返答した。

 それを聞いて、セレスメリアは内心胸をなでおろす。


「まあ、相変わらず熱烈だわ。でも、そこが素敵よ」


 彼の温もりに身を預け、その広い背中に手を回す。

 これは、最初で最後の、想いを交わした二人の抱擁になるのだろう。

 そう思いながら、セレスメリアは思う存分、その温もりを享受する。


 しばらくすると、二人は自然と互いの身体を離した。

 そして、明日の天気を奏でるように、王女は微笑む。


「さあ、もう寝ましょう。明日、お家に帰らないと」

「……はい」

「じゃあ、おやすみ、怒りん坊さん」

「……おやすみなさいませ、殿下」


 王女と護衛騎士の物語は、終盤に差し掛かる瞬間である。





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