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セレスは何が起きているのかわからないまま顔を上げる。
恐る恐る振り返ると、そこには魔獣の姿が一頭もなかった。
その代わりに、月明りに照らされた一人の男性が立っている。
あれは、セレスがどんなに音にしたくても、音にしない、音にできない存在なんだ。
だが、緊張感から解放された彼女は思わず、その名を口にした。
「ライネ、さま?」
「えっ」
彼女のか細い声にライネリオは驚き、勢いで振り返った。
木箱の後ろに隠れているセレスの姿を見た瞬間、表情を崩しながら彼女のもとに走った。
「セレス!?」
木箱を乱暴に退かし、セレスの前に跪き、焦った表情で彼女の肩を強く握る。
「何故、君がっ!」
そう言いかけて、彼はセレスの腕の中に眠っているミリアムの存在に気付いた。
何となく全貌を察し、ライネリオは自分の問い詰めを最後まで言えなくなった。
そんな彼を見て、セレスの胸が圧迫され、痛くなった。
「ご、ごめんなさい、約束を、守れなくてっ。でも、でも……私っ」
咳に邪魔され、セレスも最後まで自分の本心を本音にできなかった。
危機を脱した安心感、ライネリオとの約束を破った罪悪感、ミリアムを助けたことを正しいと信じたい心。
混ざり合ったそれが咳となり、彼女の首を絞める。
不透明になった感情をどう表現すればいいのか分からず、セレスはミリアムをより強く抱きしめる。
彼女の痛みはライネリオの胸にまで伝染した。
彼もまた、どう反応すればいいのかわからないのだ。
ただ、一つだけ確かな感情がある。
そして、彼はそれを抱擁という形で表現した。
「いや、いいんだ。いいんだ、セレス」
小さな子を宥めるように、ライネリオは優しくセレスの頭を撫でる。
「確かに、外に出るのはよくない。だけど、いいんだ。君が、君とこの子が無事であれば、それでいいんだ」
それは、彼女が昔から知っている、大好きな彼の声色と触れ方である。
雨で濡れた冷たい布の向う側に彼の温もりがじんわりとセレスの身体に広がる。
全部、いとも簡単にセレスの涙腺を緩めた。
だが、どんなに涙を流しても、セレスは嗚咽を出さないように努めている。
そんな彼女の震えがもちろん、抱きしめているライネリオに伝わっている。
普段ならそれを気遣うセレスだが、今の彼女にはそんな余裕がなかった。
もう、ライネリオが共有してくれた温もりの中に安らぎを求めるしかできないのだ。
二人が抱きしめあってからしばらくの間、突然複数の足音が聞こえた。
音の発生源に目を向けると、セレスは大きく目を開く。
そこには、巨大な猫に似ている魔獣の亡骸があった。
あれは、ライネリオが討伐したものだ。
しかし、セレスを驚かせたのはそれではない。
大きな塊は複数の小さな影に囲まれている。
小さな影は悲しそうな声を上げながら大きな塊に身を寄せる。
ぐるぐると、ぐるぐると。
時折その小さな手を使って、大きな塊に触れる。
何回も何回も、何回も。
それでも、大きな塊は動かないのだ。
だって、あれはもう、塊にすぎなかったから。
それが何を意味しているのか、あの小さな存在はまだわからないのだ。
「セレス」
ライネリオの声に応答し、セレスは顔をあげる。
彼の横顔はとても硬くて、氷そのものである。
「ミリアムは?」
「まだ、寝ていますが……ライネ様?」
「そうか。それはよかった」
ライネリオはセレスから離れ、大きな塊に歩み寄る。
その途中、彼は鞘から剣を引き抜いた。
「ライネ様、もしかしてっ」
「セレス」
塊の前に歩みを止め、ライネリオはセレスに振り向いた。
月明かりを反射している悲しみを帯びる紫の瞳にセレスは小さく息を呑んだ。
「どうか、君も、目を閉じて、耳を塞いで欲しい」
今まで、何回も彼が戦う姿を目撃した。
だから何故、今更こんなお願いをしたのか、セレスには理解できないのだ。
しかし、彼の願いはあまりにも悲しい音色で唱えられた。
そんな願いに、セレスは――。
周りがすっかりと静かになった。
先ほどの雨と恐怖が嘘かのように、静かな夜だ。
だからこそ、複数の足音が余計に目立ったものとなる。
「ライネリオさん!」
先ほどの鳴き声に誘われて来たのだろう。
外が本当に安全かどうかを確認してから、何人かの男とトーマは教会から出てきた。
亡骸を見た瞬間、彼らはライネリオが魔獣討伐に成功したと察し、嬉しそうに声を上げる。
そんな彼らの中心に、ライネリオが立っている。
自然と、セレスはミリアムを抱きしめたまま、一歩下がる。
情報としては知っている。
しかし、やはり実際見てみると、充実感は比べられないほど違う。
そう、身にしみるほどそれを味わい、歯に噛むその時に。
「ら、ライネリオ様!」
教会の中から、息を切らしているエマが現れた。
青白い顔をしながら、ライネリオのところまで走った。
「エマさん? 何かがあったんですか?」
「た、大変です、セレスメリア様がっ!」
「っ! エマ様、いけません!」
遅れて登場したアコニタに腕を引かれ、エマは己の失態に気づく。
すぐ口を閉ざしたが、言ってしまったことはもう取り消せない。
先ほどの賑わいが嘘かのように、静寂が再び訪れる。
いや、完璧な静寂ではないんだ。
村人の中でヒソヒソと「セレスメリアって」、「あれは、確か……」、などざわついている。
そして徐々に、不穏な空気になっていく。
我慢できなかった一人の村人がエマに「どういうことだ、なんでここであの女の名前を?」と真相を問い詰め始める。
それが呼び水となり、声を上げる村人が一人ずつ増えていく。
輪の外に立っているセレスはぼーっとそれを眺める。
苛立ち、怒り、憎悪。
感情が少しずつ加速し、セレスメリアに、ジェラルドに、王族に対する鬱憤が吐き出されている。
ライネリオはすぐセレスを庇いに行きたかったのだが、あえてしないように我慢している。
アコニタもそうだ。
だって、誰もが、エデルノーラの側に座っている女性がその憎き相手であると気づかなかった。
仕方のないことだ、何せセレスはトーマとミリアムにしか顔を見せたことはなかったのだ。
いや、だからこそと言った方がいいかもしれない。
だからこそ、一人だけ、その正体に気づいた少年がいる。
「ミリアムを離せ!」
その叫びと共に、隣に立っているエデルノーラが再び地面に倒れた。
セレスの腕から温もりが消えて、その代わりに全ての視線が今度、セレスに向けられている。
「あれは、誰?」
「いや、知らない。いつからここに?」
「ちょっと待って、あの目の色と髪の色って、まさかっ!」
そして、それはそれは、とても鋭い視線である。




