17
接触を極力避ける。それはセレスの正真正銘の本心である。そのはずだった。
あの日、素朴でありながら温かい晩食の時、エマが近頃魔獣の噂についての注意事項を伝えた後、あの兄妹の話を少し口にした。
父は鉱山の事故で数年、母は病気で半年前。
両親を亡くし、兄妹二人だけでなんとか生きている。
周りの大人たちは彼らを気にかけているが、徐々に悪化する経済が彼らからそれをする余裕を奪った。
トーマは市場で簡単な仕事をこなし、金を稼ぐ。
一方、ミリアムは過保護なトーマにより、あまり外に出られない。
週一の礼拝と勉強会の時以外、彼女は基本的に家の中に引きこもっている。
だが、この前のように彼女は時折家から抜け出し、教会の裏でエマの手伝いをする。
それを知るエマは彼女の願いを無下にできず、トーマにも言えずにいた結果、この前の出来事だった。
エマが作ったご飯を食べる度に身体に力がみなぎったにも関わらず、その話でセレスの気分が曇り空そのものに変わった。
何故なら、それはセレスが心を痛めるほど共感できてしまう境遇。
だから、セレスは毎度毎度意思を固める必要がある。
あの日以来、セレスは窓に近づかない。できたばかりの決心なぞ、如何に脆いかは知っているからだ。
目に入れば、それがヒビとなり、過去のような過ちが繰り返されるだけになってしまう。
と言いつつ、距離こそ置いたが、彼女の視線はそうではなかった。
つまらなさそうにベッドの上に腰をかけても、一日の中で目は無意識に窓の方に向けている。
窓の前を通る時に見えるミリアムの元気な姿に胸を撫でる時も何回かある。
そんな彼女の異変に気付きながら、二人の従者は見守ることに徹する。
だが――。
「あっ!」
少女の声と共に、カシャンと大きな金属音が鳴り響く。
その音に釣られ、セレスは反射的に窓を覗き込む。
そうすれば、周りに水をまき散らしながら両手を土の上につけている少女の姿が見える。
少女は声を出さないように口を噛み、泥で汚れた手で両目を拭う。
ミリアムの姿に、セレスの胸が騒ぎ出した。
いつもであれば何かがある時になんとかしてくれるエマの姿はどこにも見えない。
秋とはいえ、雲一つない晴天の下で女の子が無言で涙を流している。
「はぁ……」
その少女が大きな声で泣き出せばどれほどよかったのか。
音のない涙ほど心を揺さぶるものはない。
セレスは中途半端な自分を呪いながら、何回も繰り返して読み切った本を置き、窓に手をかける。
「あら、また貴女なのね」
「!!」
急な呼びかけに、少女はすぐに顔をあげる。驚きで瞬いたせいで、彼女の瞳に溜まった涙は次々と頬に伝う。
「この前よりも楽しそうにしてるわね」
「ご、ごめんなさい」
「ん? なんで謝るの?」
少女は返答せず、再び顔を隠す。
そんな彼女にセレスは窓から少し身を出し、視線のすぐ下にある鉢に指差す。
「あれ」
「え?」
「あの花、貴女が育てるの?」
「う、うん」
植物のみずみずしい葉っぱは少女の愛情の証だろう。
セレスがこの部屋に寝起きしてからつぼみこそ沢山あるが、咲く気配が全くないようだ。
それに、この前エマから聞いた魔物の話もある。
真昼とはいえ、少女を一人にするのは得策ではないのだ。
唇の傍に人差し指を置いてしばらくしてから、セレスはアコニタに近づくように手招いた。
「貴女って、確か植物について詳しいよね?」
「ある程度は嗜んでいます」
「じゃあ、あれは何?」
アコニタはセレスの隣で窓から覗き込み、すぐに佇みを正す。
「近くから見ないと断言できませんが、あの葉っぱの形からするとおそらくエデルノーラだと思います」
「あら」
秋に咲く小さな白い花、エデルノーラ。
過去の王女の名前が由来となるエデルノーラは涼しい気候を好むとても繊細な植物であり、子供一人の手で育てられたら中々上手く咲かないのも頷ける。
セレスは唇に指を当て、ここから一番自然な流れを模索し始める。
(あ、そういえば)
過去に侍女たちからよく聞いた名前。
女性に人気があるだけではなく、傷薬など色んな用途を持っている花なのだ。
「エデルノーラのあの上品な香りは大好きだわ。香水よりも生花の方がいい香りがするのかしら?」
「純粋な香りを、と考えればその可能性はあるかと」
「ふーん。……ねえ、アコニタ」
「はい」
「わたくし、気になるわ」
計算して顔を僅かに傾かせるセレス。
アコニタは彼女の主人を一瞬だけ見つめ、その後すぐ小さく会釈する。
「かしこまりました」
それ以上何も言わず、アコニタは部屋から出た。
外の様子を確認すると、置いてけぼりにされたミリアムは困惑しながらセレスを見ている。
ミリアムの涙が止まったと知れば、セレスは内心胸を撫で下ろす。
しばらくすると、アコニタは現れ、ミリアムの前に体を屈ませる。
少女が怪我していないかを確認しながら、どうやら二人は会話しているようだ。
その声はとても小さく、セレスのところまでは届かなかった。
いや、おそらく聞こえるほどの大きさだとしても、セレスにはその会話の内容に集中する余裕がなかった。
「何?」
「いいえ」
アコニタの代わりに、今度セレスの隣に立っているのはライネリオだ。
それだけならまだよいとして、問題は彼の視線だ。
セレスが思わず拗ねたような声を出すほどに呆れ、そして否定したくなる優しさが含まれている。
「言いたいことがあれば言いなさいな」
「いいえ、何もないです」
セレスはその答えを言葉そのままを信じたかったが、ライネリオはそれを許さなかった。
「無事咲いてくれたら、いいですね」
柔らかい声で言われたそのセリフはあまりにも残酷だ。
一貫性のない行動の証拠が目の前に提示されたようなことと同じだ。
胸の中に起きた起伏を意地でも彼には見せたくはなくて、セレスは窓の外を眺め続ける。
慌てながら二人と合流するエマの背中が見える。
「わたくしのためにね」
肌寒い風が吹いている。
「そうですね」
少女の笑い声が聞こえる。
全てを見通した男はセレスの僅かに震えている声に気づかないふりをし、セレスにショールをかけた後静かに離れた。
窓辺に一人で残されたセレスは下に広げられた和やかな風景を眺めているが、それに浸れない。
浸れるわけがない。
だって、今は痛み出す胸を落ち着かせたいのと同じくらいに、セレスは熱くなった頬に苦しめられているから。
風に頼りたくても、下にいる三人にいつ目撃されるかわからないと気付いたセレスは再び部屋の中に戻ると決めた。
「ああ、しおりを挟むの忘れたわ」
残念そうな声を出しながらベッドの上に投げた本を開いた。
適当にパラパラとその本をぞんざいに捲ると、彼女の人差し指からつんと鋭い痛みが走る。
「っ」
「セレス?」
ライネリオはセレスの小さな変化に気付き、慌てながら近づく。
一方、彼女の視線はその指で刻まれた赤い一線に釘付きにされている。
その正体はなんなのかと頭で理解した瞬間、セレスの鼓動が速まる。
「傷か。手当をしないと」
「駄目!」
ぼんやりとした意識の中でも視野の端から表れたライネリオの手ははっきりと見える。
彼が何をしようとしているのかを理解する前に、セレスの身体が勝手に動いた。
右手を握り、彼の前から隠しながら一歩ずつ彼から距離を取る。
一方、ライネリオは驚きのあまりに口を小さく開きながら、宛先を失くした手を宙で彷徨うままでいる。
セレスの背中に冷や汗が流れる。
段々と溶けていく熱は彼女の冷静さを奪った。
「出てって」
「セレス」
「お願い、出てって」
ライネリオはしばらくの間無言で佇んだ。
何かを言いたげにして、それを飲み込む。
何回かそれを繰り返した後、彼はようやくセレスのか細い願いを叶えてくれた。
パタンと扉が閉じる音が聞こえた後、セレスは震えながら拳を開く。
そこには血が薄く塗られた手の平がある。
(止血……止血をしないと)
何回深呼吸しても震えが止まってくれない。
朦朧しだした意識をしながら記憶を頼りに、なんとか机にある引き出しの中にある布の存在に辿り着いた。
それでようやく、彼女の呼吸が落ち着き始める。
余裕が生まれ、服やショール、本に血がついていないか確認をする。
全てが綺麗なままとほっとしても、セレスの悩みは次々と溢れてくる。
(後でこの布、燃やさないと)
セレスはぎゅっと、その布を強く握りしめる。




