14
カシュエラの南西に位置する辺境の地、リヴィバルト。
その土地には隣国とも繋がっている大きな川が流れ、各地が森林の緑で彩られている。
国にとって貴重な資源の宝物庫だけではなく、防衛の方面にも重要な土地でもある。
そして、三人がたどり着いたのはリヴィバルトの中部から離れている小さな村、アベイユである。
特産品のはちみつとエデルノーラなどのような花々の名称であるため、観光地としても賑わっていた過去を持っている場所。
だが、今ではもうその跡形が残っておらず、少し寂れている。
フードを被りながら三人は歩みを進める。
華やかさが欠けている家々の外装と緑が相まって、王都の華やかさとほど遠い風景だった。
顔を少し上げれば、その向う側に灰色交じりの青い屋根をしている建物が見える。
「セレス様」
曇り空色の屋根に視線を奪われたセレスにライネリオはそう声を掛けた。
彼女の真名であり、今の彼女の名前ではないその呼び名に王女は眉をひそめる。
そんな王女に構わず、護衛騎士は手を差し伸べる。
「参りましょう」
現在、彼の任務はセレスメリアを教会まで無事送りつけること。
どんなに文句を言っても表面上の謝罪で済まされたと知る王女はわざとらしい大きなため息を吐く。
それでも、彼女は素直に騎士の手に応えた。
(ここに来て、『セレス』か)
あれは先日のことだった。
ライネリオとアコニタはこの村で王女の名前を口にするのは得策ではないと考えを述べた。
我関せずな振る舞いをしながら、内心で同意するセレス。
だが、まさかその一方的な話し合いの結果がこれだとは想像すらできなかった。
セレスはてっきり「セレスメリア」とほど遠い名前が選ばれたのかと思ったばかりだ。
反論を考えたが、「セレス」という名はカシュエラでは珍しくない上に、そんなのどうでもいいと思うセレスメリア像は彼女の口を閉ざした。
(神様って、本当に意地悪)
決心が固まる前に、あんなに取り戻したい呼び名。
渇望しても、その名を呼ぶ人、呼んで欲しい人が居なかった。
だが、それを手放した瞬間、それがこんなにもあっさりと手の平に転がる。
その事実はセレスの嘲笑を誘う。
人生の真理を一つ噛みしめながら、セレスはライネリオの手引きを無言で従う。
心なしか、彼女はその歩みが少しだけ緩やかに感じた。
だが、それは途中までのことだった。
「アコニタ、あれも取って。あ、その隣もよ。あれはエトリアにないわ」
現在、三人は、村の市場をくるくると見回っている。
何回も暗に制止されたが、セレスはそれを聞かないふりをし、好き勝手に先導する。
活気がないとはいえ、市場では不特定多数の住民が日々を過ごしている。
悪目立ちを避けるために、アコニタはそれ以上の発言を控え、セレスの指示通りに買い物をする。
エトリアの騒がしさとほど遠いこの広場は村の、領地の状況を物語っている。
自由奔放な姿の裏側で、セレスはこの光景に唇を噛んだ。
本心を本音に変えれば、自分自身を責めるだけの言葉になってしまう。
それが有意義なものであればいいものの、彼女は過去の経験から学んだ。
その行為はセレス自身に一時的な安らぎを与えるだけの、誰にも役に立たない行動にすぎない。
だから、小さなことでも、まずは自分にできることから。
少しだけでも、これからお世話になる場所に貢献できたらと、セレスは思った。
(結局これは、ハロルド様の、そして、それを辿れば皆のお金なんだけどね)
事実を認識すれば、自然と何回目かの嘲笑が浮かぶ。
「セレス様」
低い声の呼び掛けに従い振り向けば、声の主が眉を僅かに細めながらセレスを見つめている。
「ん?」
「このようなことをする場合ではありません」
「そうね」
セレスの簡潔な返答に、彼の眉間の皺が深まった。
今までのセレスのであれば、ライネリオは彼女を非難していると思ってるだろう。
「今待たせているのはアコニタだから、わたくしではなく、アコニタを急かした方が効率的のではなくて?」
「いいえ、ですが」
言葉を途中で止め、ライネリオは視線を逸らした。
セレスはそんな彼を見つめ、次の言葉を待っていたが、その続きを聞くことは叶わなかった。
「お待たせしました」
「あら、早いね。もう終わったの?」
手一杯の荷物を抱えながら、アコニタは小さく頷いた。
セレスはもうこれ以上ここにいる必要はないと思い、何も言わずに教会と反対の方向に歩もうとしたその時。
ドサッと、重い物が落ちた音がする。
「は、離せ!」
振り向けば、そこにライネリオと彼に手を掴まれた一人の少年が見える。
男の子は汗を流しながらもがいたが、ライネリオの前ではそれが無意味だった。
「彼女に何をしようとした」
「な、何だよ? 俺、何もしてないよ!」
反抗的な返答にライネリオは目を細める。
その姿を見て、セレスの背中に冷や汗が流れ始める。
冷たくて、そこの深い暗い瞳だ。
あの瞳は、ここまでの往路で何回も目撃したことがあった。
あれは、魔物、盗賊――敵を見つめる時の目だ。
ライネリオは今、子供に向けている。
それは何を意味するのか、魔物や盗賊の結末を知るセレスは想像できる。
泳いだ目で周りを観察すれば、土の上に転倒しているアコニタの姿と男の子のポケットから見覚えのある布が見える。
それを見て、セレスは状況を察した。
そして、今から何をしないといけないことも。
「っ!」
少年は声にならない声を聞いて、セレスは素早く行動に移す。
そっと、包帯に包まれたライネリオの手を優しく撫でる。
そのくすんだ白の布を見て、セレスの胸が痛くなった。
だって、これはたったの一部だけだ。
彼の身体のどこかで、これと同じ色の布が巻かれていることは知っている。
効率と迅速さを重視する彼の戦い方は、セレスとアコニタが守られても、彼自身が守れなかったからだ。
顔を上げれば、そこに目を丸くしたライネリオがいる。
あの夜と似た表情で、セレスの胸がさらにぎゅっと苦しくなる。
彼女の行動に意識が取られ、ライネリオの掴む力が少年を逃がさない程度まで弱まった。
表情に恐怖が抜け落ちなかった少年を見下ろせば、セレスは彼の足の隣に赤い球体が転がっていると気づく。
彼女は無言で屈み、それを拾ってから表面の埃を落とす。
状況が飲み込めない少年にセレスは優しく微笑む。
「ほら」
「えっ」
少年の混乱が更に深まった。
だが、彼の腹の虫はそれに勝る。
恐る恐るセレスの手からそれを受け取り、そのままさっと懐の中に隠す。
「な、なんで?」
「ん? 何が?」
「だって、これ……高いだろう?」
「あら、そうなの? それは知らなかったわ」
セレスの返事に、少年は手に入れたものはもう返さないと意思表示したように片手で身体を抱きしめる。
彼の動作から滲みでる必死さはセレスの呼吸を鷲掴む。
だが、彼女は最後までやり遂げると決心した。
強かな態度を取りながらも、探るような目は少年自身が期待している返答を物語っている。
奥側に映る淡い感情を、セレスは今からそれを裏切り、踏みにじる。
「わたくしはただ、埃まみれなものを口にする勇気がないよ?」
その軽やかな言葉に男の子は目を大きく開いた。
それに対して、セレスは妖艶な笑みを深める。
「だって、わたくしは人間だもの」
「っ!」
わざとらしい表現に少年は顔を赤らめた。
彼は素早く顔を俯かせ、身体を震わせながらライネリオの手を振り解いた。
素早く遠ざける背中を見つめ、セレスは首を小さく傾かせる。
「元気だね。……アコニタ」
服から埃を落とし、アコニタは頭を低くする。
「申し訳ございません、私の不注意で財布とセレス様の買い物が……」
「そんなまどろっこしいことはどうでもいい。もう疲れたわ」
周囲の視線も、予想外な出来事はセレスの精神を削っている。
アコニタの容態も気になり、今度は素直に足を教会の方に向ける。
いつもよりも重く感じる足を踏み出すと、腰から僅かな温もりが伝わった。
「何?」
顔を左上に向かせ、温もりのもとに視線を送る。
本人は先ほど見せたよりも眉間に皺を刻んだ。
それを見て、セレスは鼻で小さく笑った。
「それくらいは別にいいじゃない」
「よくない。君に何かがあれば、俺は――」
意外な言葉にセレスは反射的に閉じた瞼を大きく開いた。
彼女の反応に、ライネリオも自分のしでかした過ちに気付き、すぐさま苦虫を噛み潰したような顔を逸らした。
「青空の下で堂々と口説くなんて、はしたないだと思わない?」
「そんなつもりはありません。貴女に何かがあれば、あの方に見せる顔がございませんので」
「もっと素直になった方が眉間の皺が減るよ?」
「……行きましょう。これ以上先方様を待たせてはいけません」
彼は自分の言葉がなかったかのように歩み始めた。
セレスも彼の判断に従い、如何にも不満そうな表情を作る。
水面下で、彼女はとても戸惑っている。
彼女は知っている。
ライネリオは根本的に昔の彼のままであることを。
だから、何とかセレスメリアの皮を被りながらやり取りをしたが、内心ではその何気ない言葉が彼女の胸に突き刺さる。
それに対して、どう振る舞えばいいのか。
答えの出ない質問が増える一方、見つけた答えは一つもない。
そして、それはセレスだけではなく、ライネリオにとってもだ。
心の迷宮に彷徨っているとしても、選択肢は待ってはくれない。
次々と道を選ばないといけない二人。
そんな男女の背中を、アコニタは少し軽くなった荷物を抱えながら静かに見守った。




