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急に現れたライネリオに、セレスは思わず立ち上がるほどに驚いた。
だが、そのおかげで、彼女の虚ろな青い目に光を取り戻した。
それを見たライネリオの身体から緊張の糸が切られ、それに支えられた足が自然と力を失くした。
「ライネ様!」
倒れそうになったライネリオを見て、セレスは瞬間的な気持ちに従った。
彼の近くまで駆け寄り、躊躇なく彼を受け止める。
急の接近は二人から言葉を奪った。
セレスは彼の名を呼んでしまったことに。
ライネリオは深く考えず、深夜に勝手に彼女の部屋に入ったことに。
居心地悪さは二人を包み込んだ。
だが、不思議なことに、互いは互いから離れない。
重い空気の中に、暖かさ、むず痒さ、懐かしさが紛れ込んでいるからだ。
「っ」
ライネリオの苦しそうな声にセレスははっと正気に戻った。
今はこの温もりを甘受する場合ではない。
汗を流している彼に肩を貸し、ベッドの方に向かう。
少し戸惑ったが、弱っているライネリオには拒む余力は残らなかった。
ライネリオを座らせ、セレスの中に迷いが生じた。
彼に背を向ける勇気がなく、見下ろすにはどこか失礼な気がする。
悩みに悩んで、手を伸ばしても届かないくらいの距離を開け、彼女もベッドの上に座る。
相変わらず、二人は沈黙に見守られる。
セレスは先ほど感じた彼の温もりにつられて赤面した。
今日のライネリオは軽装であり、いつもよりも鮮明な熱はセレスの不安を溶かしてくれた。
(本当に、よかった)
横目で彼の様子を盗み見れば、息をしている彼がいる。
それを知るだけで、彼女の呼吸と咳が落ち着いた。
忙しく何回も視線を逸らしながら彼の様子を観察すると、とあるものに目が止まった。
服の下から包帯が見える。
その存在の理由は己にあると思うと、セレスは唇を強く噛んだ。
彼に、自分がセレスであると気付いた彼にどんな言葉をかけるべきなのか。
素直に感謝するべきなのか、謝るべきなのか。
セレスは俯き、脳内でどっちが正しい選択なのかをぐるぐると模索している。
「大丈夫だ。治癒魔法を受けた」
幼馴染という関係を活かし、ライネリオは彼女の異変に気付いた。
だが、その気遣いは逆効果だった。
「それなら、尚更です」
治癒魔法は一見すると万能に聞こえるが、事実はそうではなかった。
傷そのものは癒えるが、その代償として本人の体力が激しく消耗された。
理論上では致命傷でも治癒魔法でなんとか出来るが、結局体力が追いつかず、死に繋がった事例も沢山あった。
勉強はジェラルドに制限されていたが、かけられた経験のあるセレスからすると尚更だ。
ライネリオの怪我具合を思い出すと、こうも早く回復するような代物ではない。
彼はどうやって、何のために無理してこんな身体でここに来たのか。
セレスの悩みの種がまたもや一つ増えてしまった。
だが、ライネリオはセレスにその悩みに浸る余裕を与えなかった。
「何故だ」
それはとても、短くて硬い声色だった。
セレスが自然と彼に視線を合わせるほどの。
「何故、俺を庇おうとした」
辛そうな表情で問われた真意にセレスの視線は左下に逃げた。
あの行動に災いをもたらす可能性が重々に理解していたはずなのに、あの時、彼女は冷静ではなかった。
反省も羞恥も相まって、彼女は早くも口を開ける。
「べ、別に、庇ったりなど、していません」
「じゃあ、何故俺の前に立った? 君にも魔法陣が見えたのだろう?」
「魔法陣なんて、見たことありませんからわかりません」
「君はっ」
一向に顔をあげないセレスにライネリオは冷静を取り戻した。
深いため息を吐き、彼は口を開いた。
「いや、違う。……すまない、君を、責めたいわけではない」
聞き覚えのある優しい声色に信じられず、セレスは反射的に顔を上げる。
しばらくの間、ライネリオは瞳を閉じ、覚悟を決めたかのようにそれを開けた。
「君は、セレスか?」
「違います」
分かり切ったことを。
セレスは内心そう呟かずにいられなかった。
彼女の回答にライネリオは再び重いため息を吐き出した。
それは、彼の中に答えがもう決まったという証なんだ。
「何故、王女の真似事をしたんだ?」
「真似事ではありません。私は正真正銘王女ですよ? 前王であるジェラルドの一人娘ですよ?」
更なる追求に怖気づいてはいけないと思い、セレスはライネリオの睨みながら言い切った。
今さら、ここで彼の前にセレスで居たいと願ったりなんて――。
「ただ、それに相応した振る舞いをしただけです。貴方こそ、何でこんな質問を? もし私はセレスでも、セレスメリアでも、それって貴方には関係ないじゃありませんか」
「違う!」
悲痛な否定にセレスは思わず目を丸くした。
一瞬、感情的になった自分にライネリオは眉間に皺を寄せた。
「いや、俺は……」
消えそうな声と青ざめた表情。
セレスは迷子のような表情をしているライネリオから目が離せない。
「俺は、どうすればいいんだ? 君は君であれば、俺はどうやって生きていけばいいんだ?」
セレスから隠すかのように、ライネリオは右手で顔を覆った。
だが、その自問自答から、何もかもが漏れている。
とても悲痛で、首を絞められているかのように苦しい問い。
その問いにセレスの胸が無数の針で突き刺されたように鋭く傷む。
こんな彼を、初めて見たんだ。
あんなに優しく、暖かく、穏やかに微笑む男の子が迷子になった。
そして、その原因は他でもない、自分自身である。
罪深さに気付き、セレスの中にガラスの壁が崩れた鋭い音がした。
ライネリオは口走ってしまったことに気付き、素早く手を退かした。
何か言おうとしたが、セレスはその暇を与えなかった。
「貴方は」
不思議なことだ、とセレスは思った。
今まで彼を前にして、こんなに冷静でいたことがあったのだろうか。
「貴方は、どっちがいいですか?」
酷な質問だ。
彼にその答えを持ち得ていないことを知りながらも、セレスはその問いかけをした。
それでも、やはり剥き出しになった自分が選択しようとしたものは彼にとっても最適である確信が欲しい。
「俺は……俺は、わからない。わからないんだ」
案の定の答えだった。
だが今回は、胸が迷いで溢れたライネリオはそこに止まらなかった。
掠れた声で、続きを口にした。
「この七年間、復讐のために生きてきた。だから、あんな地獄を耐え抜いた。運よくハロルド様に拾われ、彼を裏切らない限り、俺の復讐を止めたりしないと約束してくれた。その結果、ジェラルドは死んだ。だけど、彼が死んだ時に、俺は何も感じなかった。あの瞬間のために今まで生きてきたのに、それでも悪夢がまだ俺を苦しめている」
長いようで、短い説明。
セレスは静かに、それに耳を傾ける。
だが、彼はすぐには続かなかった。
代わりに、ライネリオはゆっくりと、顔を上げた。
そして、その顔は今までよりも、絶望に染まっているものである。
「だったら、その次は俺たちを裏切った君を殺せば、俺はようやく解放されたんじゃないか、と」
表情と相まっていないその言葉に、セレスは泣きそうになった。
自分に泣く資格なんてないと言い聞かせながら、違う決心も固めた。
「だから、俺は生きる。生きられた」
ライネリオはポケットから何かを取り出した。
「だけど」
彼の手の平に転がるものを見た瞬間、セレスの心臓が一瞬だけ止まった。
「君は、星に願うあの子のままであれば、俺は……」
それを隠すようにライネリオは強くぎゅっと拳を握る。
こんなになるまで悪夢に、苦痛に消耗された彼を見て、セレスの覚悟は綺麗な円を描いた。
 




