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 母も幼い頃過ごした場所も昔の自分を知っている人も、全て目の前で奪われた。

 その中で、唯一手元に残ったのは、母の形見と大切な人からの贈り物だった。

 二つとも「セレス」に贈られたものだ。

 即ち、それは「セレス」が存在しているという証でもある。


 あの夜、セレスメリアはそれを失くした。

 悲しみのあまりに声を殺しながら涙が枯れるまで泣いた。

 そして、今まで二十年間生きて、セレスは涙を枯らした後、決断か、あるいは覚悟を決めないといけない時が訪れる。

 沢山泣いた結果、セレスの胸のつかえが軽くなり、思考も鮮明になった。


 大切なものを失くした。

 だが、それは最後の足枷が取れたのと同意義である。

 「セレス」という人格を殺し、正真正銘「セレスメリア」として生きる。

 だから、もう罪悪感を抱く必要はない。

 むしろ、抱いてはいけない。

 「悪女セレスメリア」はそういう存在だからなのだ。


 そう何回目かの決心の後、セレスはより大胆に動くようになった。

 アコニタの前でも、ライネリオの前でも。

 彼の視線が冷たくなる一方だが、それがいい。

 彼がセレスがちゃんとセレスメリアであるという生きた証拠なんだから。

 憎しみが籠った視線を笑顔で受け流すこそはセレスメリアなのだ。

 痛みなんて感じない、感じる必要なんてない。

 何せ、その向こう側には彼の、皆の笑顔が待っていると、セレスは勝手に信じている。


 このまま、残り僅かの期間を過ごせば上手く行くのだろう。


 この瞬間までは。


 ライネリオが、あのライネリオが顔を赤らめた。

 彼の表情を見て、セレスの胸にぶつぶつと熱い泡が湧き出る。

 一方的な怒りだなんて、冷静なセレスは理解している。

 だが、ライネリオの移り気な行動に、彼女は振り回されている。


(なんで、どうして……どうして、またそんな顔をするの?)


 再会した時にでも感じた疑問が最悪な形で露わになった。

 心の痛みに耐えながら、怒りを彼にぶつけた。

 だが、その結果は全く予想外だった。


『君は、誰?』


 迷子のような瞳で投げかけられた疑問。

 その質問にセレスは危機感と、彼の手から伝わる熱と同じくらいに、彼女の胸が歓喜で熱を持ち始めた。

 だが、その熱に対する嫌悪感は早急に彼女の心を冷却した。

 次第に、セレスは思考を切り替え、この場を潜り抜けるための答えを模索し始めた。

 何かを言い訳を言いだそうとその時、騒ぎが起こった。


 一番最初に見えたのは、魔法陣だった。

 そして、その矛先はライネリオである。


 それが何を意味するのかを理解する前に、セレスメリアの身体が勝手に動いた。

 目を丸くした彼と目があった瞬間、彼女はようやく自分が取った行動を理解した。


 そこから、気付きの連想が始まる。


 結局、セレスは皆が思うセレスメリア(悪女)になりきれなかった。

 何度も決意を固め直しても、セレスはセレスにしかなれない。


 その事実は不思議なことにセレスの心を縛る枷を緩めた。

 軽くなった心から自然と笑みがこぼれる。

 どうせ時間があまり残されていない命だ。

 であれば、大切な彼を守るために消費できれば――。


(ライネ様は少しでも、私を許してくれるのかな?)


 身勝手な願いと想い諸共を隠すために、セレスは仰ぎ、ゆっくりと瞼を閉じる。


 その時、鐘の音が鳴り響く。


 セレスは青空を眺めている。

 彼女は痛みに襲われるどころか、見覚えのある温もりと香りに包まれる。

 まるで、あの日、足を挫いた時のようだった。

 だが、明らかな違いがある。

 安心感の隙間から感じる鉄の匂いと、足元を保てないほどの重量が彼女の体にかかっている。

 立つのが限界になり、セレスはそのまま重力に身を任せる。


 芝生の上に座ったセレスに、ライネリオは力なく寄りかかっている。

 視線を少し下げると、そこには赤、赤、赤。


 赤だけが無慈悲に広がっている。


「らいね、さま?」


 返事の代わりに、ライネリオは呻き声をあげる。

 セレスはその色の正体に見覚えがありながら、それを否定している。

 恐る恐る彼の背中に手を回せば、そこから生暖かい液体の感触が伝わる。

 それを、見える位置に移すと、赤に彩られた己の手が見える。


 セレスは動けなくなった。

 彼女の喉元が咽たくなるほど痒くて熱い。

 その奥から登っているものを我慢するだけでもう精一杯だ。

 液体が吐き出されないように、セレスは手で口を覆う。

 唇から、塩の味がする。


 一方、支えを失くしたライネリオはそのまま、白い布に覆われた膝の上に滑り落ちる。

 その重みを受け止め、セレスが分からなくなった。

 そこで、セレスは追及することをやめた。

 やめざるを得ない。


 だが、赤がしっかりと彼女の意識に深く染まった。




* : * : *




「こんな時間のご飯なんて、わたくしの美しさが錆びてしまうわ」

「殿下。ですが、今日はあまり……」


 侍女の言葉に王女は無言で頭を横に振った。


「アコニタ、次はもうちょっとだけ少なくてして。……もったいないから」


 そのセリフを言ったのが、今日でこれで三回目。


「かしこまりました」

「うん、ありがとう」


 アコニタは何か言いたげにしていたが、言葉を飲み込んでそのままほぼ触れられていない皿を取り下げた。

 侍女が退室したと確認した後、セレスの演技はすぐさま止まってしまった。

 眉を下げ、唇を噛む。

 どんなに扉を睨みつけても、ノックの気配は全くなかった。

 それは何を意味するのかを考えると、セレスの胸の中にこびり付く濁りは膨らむばかりだ。


「ライネ様」


 自分の手を眺めながら、セレスは小さく呟いた。

 月明かりに照らされた彼女の手は不気味な程に汚れていない。

 だが、彼女自身にはそう映らなかった。


 あの日から二日が経った。

 誰にも聞くことができず、セレスはライネリオのことを確認する術がなかった。

 いや、確認するのが怖かったと言うべきだろう。

 あの時、半ば放心なまま、セレスは周りの衛兵に『塔』まで送られた。

 目を丸くしたアコニタに出迎えられた後、無言で彼女の世話を受けた。

 綺麗な服、手からも赤が洗い流された。


 だが、あの生暖かさは一向に消える気配がなかった。

 彼の、力の入らない身体の重さも。

 少しずつ冷たくなった体温も。

 それらは全部、セレスの記憶に刻まれてしまった。


 今でも、彼女は自分の真っ白な手を眺めているのではない。

 彼女にとってそれは、真っ赤な血で染まった手のひらのままなのだ。


(ライネ様まで……どうしよう、私はやっぱりっ)


 昔から何も変わらなかった。

 大事な存在はいつも、自分のせいで不幸になる。

 母も、テルン一家も、民も。


 そして、今度はライネリオだ。

 しかも、これで二回目となった。


 あの日、何もかもが狂わされた日。

 不躾だと知りながらも、セレスはジェラルドの誘いを断るつもりだった。

 緊張で早まる心臓を抱きながら、ジェラルドが待っている応接室の扉を開くと、その向う側に惨劇が広がる。


 血を流しているテルン夫妻。

 彼らの亡骸に抱きしめられたライネリオ。

 ライネリオに血まみれの剣を突きつけるジェラルド。

 そして、セレスの存在に気付いたジェラルドの、悦に満ちた笑みも。


『この虫に誑かされたのだろう? 大丈夫だ、お前のために駆除してあげよう』


 言葉の意味を理解する前に、剣を振ろうとしているジェラルドの次の行動がセレスの目に浮かんだ。


 そこからはもう、彼女はひたすら泣きながらジェラルドに懇願した。

 彼を殺さないで、と。

 私は貴方の娘だ、と。


 結果として、ライネリオは殺されなかった。

 だが、その代わりに、奴隷としてどこかに売り飛ばされた。

 そして、真実を覆い隠すために、燃やされた想い出の場所。


 結局、全部壊された。

 守りたいのに、守るどころか、何もかも全部セレス自身のせいで壊れてしまう。


(あの時、終わりにすれば、こうはならないのかな)


 人形になったあの瞬間。

 セレスの頭に、自害という選択が浮かんだ。

 もう己の手で何もかもを終わりにしたい。

 もう、疲れた。

 いつ訪れてもおかしくない死期に対する恐怖も、長年蓄積した負の感情が彼女を押しつぶしている。


 だが結局、彼女にはそんな度胸がなかった。

 信仰だの、そうすればジェラルドが民に何をするのかだの、死で逃げてはいけないだの。

 如何にも耳障りのいい理由を並べ、その選択肢から目を背け、思考を停止するという選択を取った。

 そして、自我を取り戻した切っ掛けも保身のためであり、その真実は彼女の弱さを象徴している。


 そんな弱い人間なんて。

 そんな、弱くて人に不幸を運ぶ人間なんて。


「何のために、生まれたのかな」


 小さな窓から見上げると、あの黄色く輝いている星はない。

 だが、他の無数の星々が輝いている。

 元から遠いそれが、さらに遠くに映る。


 どんなに焦がれて手を伸ばしても――。


「届かないなぁ。やっぱり、届かないよ」


 昔からどんなに願っても、叶う瞬間は一度も訪れない。

 むしろ、逆のことばかりが起きた。

 それでも、彼女は今願おうとした。

 だって、今、彼女は叶えてもらうために願っているからではない。


「精霊様、どうか、私を救ってください」


 だが、その願いは暗闇の中に溶け込むだけだった――ではなかった。


「セレスっ」


 セレスの願いは確かに届いてしまった。

 彼女だけの星(ライネリオ)に。




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