困った来客
とある小さな町の細い路地を奥の奥の奥へと進み、そのまた小さな通りを進むと見えて来る小さな建物。ここ、「駒形印刷株式会社」が私の仕事場だ。
大手の印刷株式会社よりも大分こぢんまりとした佇まいのこの会社は見た目通り、大口の発注は殆ど無く、町内会のチラシや、近所の小学校の記念誌の印刷、大学のサークルの同人誌など、少部数の注文を中心に受け付けている。忙しくなるのは、年末の年賀状とカレンダー印刷の時期くらいだ。
なので、受付事務を担当している私も、一年を通して非常にのんびりと過ごしている。
出勤したら自主的にラジオ体操に取り組み、釣銭の準備や同じ部署の社員と簡単な一日の打ち合わせ。営業時間になったら、たまにやって来るお客さんの対応と、たまに鳴る電話の対応。お昼ご飯を食べて、午前中と同じ事を繰り返し、時間になったら閉店準備をして、速やかに退社する。
つまり、とても暇なのである。
ただ、私自身、この暇な時間に不満を持っている訳では無い。むしろ、これ位ののんびり具合が自分の性格に合っていてちょうど良い。
最近、受付の担当をしている時は、こっそりと小説を読みながらお客さんを待つのが密かなマイブームになっている。元々読書が好きで自宅や通勤電車を読書時間に充てていたのだが、お客さんを待つこの暇な時間を有効活用できる良い方法を見つけたものだと、内心、嬉しい気持ちだ。
ただ、盛り上がっているシーンでお客さんが来ると、思わず心の中で舌打ちしてしまう。しかし、そんな素振りを見せず快くお客さんをお迎えするのが、受付のプロの腕の見せ所だ。
この日もいつも通り、私は受付の事務机に座り、読書に勤しんでいた。
ここ数か月はミステリー小説にハマっていて、近所の図書館で気になった作品を片っ端から借りて読んでいる。
ちょうど主人公の探偵が犯人を追い詰めるシーンに差し掛かった時、ガラガラと扉が開く音がした。「ちっ」と心の中で舌打ちをしながら、満面の営業スマイルで「いらっしゃいませ」と言うと、目の前で男性がもじもじと立っていた。見た目は若く、10代後半…大学生位だろうか?
もじもじとしたまま一向に動く気配がしない男性に少しの不信感を覚えつつ、「…いかがいたしましたか?」と、これまた愛想の良い声で尋ねると、男性は何故か意を決したような表情をして一歩前に進んで来た。
「あの、一緒にミステリー小説のネタを考えていただけないでしょうか?」
「はい?」
突拍子もない発言に、思わず間の抜けた返事をしてしまった。
「ええと…仰っている事がよく分かりかねるのですが…」
「突然すみません…あの、いつもミステリー小説を読んでいらっしゃいますよね?」
男性の発言一つ一つが不信感を募らせ、自然と眉間に皺を寄せてしまう。
「まあ…そうですけれど…どうしてその事をご存知なんですか?」
「そ、そうですよね。ごめんなさい、先程から変な事ばかり…。僕、駒形大学の学生で、文芸サークルに所属しているんです」
そこでようやく疑問の一つが解消された。
駒形大学はこの印刷会社のすぐ近くにある学校で、ここの文芸サークルは文化祭などのタイミングで同人誌の印刷をうちの会社に注文してくるのだ。ついこの間も、同人誌の印刷を発注してきたばかりだった。
その注文か引き取りかの時に、私が小説を読んでいるところを見たのだろう。
「それでですね、今度また同人誌を作るんですけれど、それぞれが書く作品のテーマをあみだくじで決めたんです。あ、これは、うちのサークルの風習なんですけれど。僕、専門はファンタジー系でいつも運良くそれに近いテーマを引き当てていたんです。そしたら今回はミステリーで…」
頭をぽりぽりと掻きながら、視線をうようよ動かしながら男性は続ける。
「僕、ミステリー小説なんて書いた事なんて無いし、そもそも全然読まないので、どう書いたら良いか全然わからなくて…。それでずっと悩んでいたら締め切りもどんどん迫って来ちゃって…」
「それで、よくミステリー小説を読んでいる私にネタを提供して欲しい、と?」
「あの、はい…」
私は大きな溜め息をついた。
おどおどした態度の割に、やる事が大胆すぎる。そして他力本願が過ぎる。
「申し訳ありませんが、お受け出来かねます」
「ええっ?」
「ええっ?」って…まさか引き受けて貰えるという勝算があってここに来たのだろうか?ますます目の前にいる男性の思考回路がわからず、眉間に皺がぐぐーっと寄ってしまう。
「私は趣味の範囲でミステリー小説を読んでいるだけですので、それを何かに活かそうと全ての内容を記録している訳ではありませんし、そもそも小説を書いたこともありませんので、ネタを考える事もできません。
と、言いますか、私はしがない印刷会社の事務職員ですので、弊社の事業外の業務は受けかねます」
ここまでを一息で言い切った。
よく噛まずに言い切ったぞ、私。浅く息を吐いて、もう一度飲み込む。
目の前の男性は呆然と立ち尽くしていた。
「どうしても、駄目でしょうか?」
「どうしても、です」
「あの、本当に困っているんです…突然押しかけてしまった事は謝ります。でも、近くに相談できる人がいなくて…」
「そうしたら、ご自身でミステリー小説をお読みになったら良いのじゃないですか?」
そう言ったところで、12時を知らせるチャイムが鳴った。
「申し訳ございませんが昼休憩の時間となりますので、お引き取りください」
私はくるりと後ろを向いて執務室の中へ戻った。背後から、男性の小さな溜め息と、ガラガラと扉が閉まる音がして、少しの罪悪感が生まれたが、突然会社に押しかけられて「小説のネタを考えてくれ」なんてこちらも大分迷惑を被っている。声を荒げなかっただけでも褒めて欲しい。
執務室に戻ると、同期の原田がにやにやしながら近付いてきた。
「ちょっとちょっと~、お客さんと喧嘩するのやめなよ~」
「喧嘩じゃないよ…」
「も~~新手のナンパ?あんたも堅いねえ…あの男の子、しょんぼりしていたじゃない」
「じゃあ私の立場になってみてよ…突然あんな事言われたら困るでしょ?というか、見てたんだったら助けてくれたっていいじゃない」
「ええ~だって面白そうだったんだもん」
こいつはそういう奴だ。野次馬魂が凄まじく、面白そうな事があるとすぐにすっ飛んでくるし、それを観察するのが好きなのだ。
「もう…なんかイライラするから、私、一服しくるわ」
「はいは~い、行ってらっしゃい」
■
財布とスマホとタバコと読みかけの本を手提げに突っ込み、会社の近くの公園へと向かう。
ここは猫の溜まり場になっていて、お腹のでっぷりした猫たちを眺めながら一服すると、心が柔らかくなる気がする。
ベンチに腰掛けて、タバコを吸いながら、「そういえば」と思い本に手を伸ばす。
「あの男が来なかったらもうちょっといいところまで読めたのに…」という苛立ちをぐっと抑えながら、ゆっくりとページを捲っていくと、段々物語の世界に入り込んでしまう。
程よく集中してきた頃、目の前にゆらりと影が見えた。
「「あ…」」
なんと、先程の男性だ。
無意識に、再び眉間にぐっと皺を寄せてしまう。
「違うんです!大学から近いので良くこの公園に来るんです!」
「…へえ…」
「…あの、隣座っていいですか?」
…これは、原田が言っていた“新手のナンパ”なんだろうか?と思いつつ、断る理由も無いので「どうぞ」と促すと、彼はベンチの隅にちんまり腰掛けた。
「…先程はすみませんでした」
「迷惑だったって認識はされているんですね」
「…迷惑だったんですね…」
「そりゃあ、突然知らないお客さんに『ミステリー小説のネタを考えて欲しい』って言われたら誰だって迷惑でしょう」
「ですよね…」
しばらく沈黙の時間が続く。居心地が悪くて2本目のタバコに手を伸ばしながら横を見ると、男性は自分のパーカーの紐を指に絡ませながら遠くを見つめていた。本当にこの人は何なのだろう。居心地が悪かったら、わざわざ隣に座る事なんてしなくて良いのに。
無意識に溜め息が零れる。
「どうしても駄目でしょうか…」
「呆れた。もう何度も断ったじゃないですか」
「はい…迷惑だって事はよく分かっています。でも、誰にも頼めなくて」
「お友達に頼めばいいじゃない」
「僕、頼み事が出来るような友達いないんです…」
「ああ、残念…」と心の中で呟きながら隣を見ると、彼は鞄の中からおもむろにタバコとライターを取り出した。
「こら、駄目でしょう未成年が吸っちゃ」
「あの、僕、一応成人していますよ」
「え、そうなの?…ちょっと童顔っぽいからてっきり未成年かと思っちゃった。大学生でしょ?」
「はい。でも3年生なので成人はしています」
ふうっとタバコを吸いながら、彼は再び視線を泳がせた。
「本当であれば、あなたの言う通り友達や後輩に頼めば良いのかも知れないし、そもそも自分で色んな作品を読んで調べれば良いのだと思います。だけど、僕、ミステリー小説を読むのが苦手で、今までも全然読んでこなかったんです」
「ミステリー小説が苦手?」
「はい…小さい頃からハラハラする事やグロテスクな描写が苦手で、そういう小説もドラマも映画も見れなかったんです。だからどういう風にネタを考えたら良いか全くわからなくて」
「それはご生憎様ね」
「で、今回サークルの企画でミステリー小説を書くことになってしまった訳ですが。
決まった時は頭が真っ白になりましたよ。たかだか大学のサークルのお遊びだろうって思われるかもしれませんが…うちの大学の文芸部、ネットとかで高い評価をもらえたり、定期的に同人誌を買ってくれる読者さんがいる位、その界隈ではちょっと有名な団体なんです。
サークルの仲間もすごく意識が高くて、だから尚更、テーマを変えて欲しいとか、一緒にネタを考えて欲しいとか言えないんです」
そう言い終えると、男性はそっと俯いた。
「事情は分かったけれど、だからと言って私に頼まなくてもいいじゃない」
「もう、あなたしか思い浮かばなかったんです。どうしようって考えていた時、そういえばいつも同人誌を印刷している印刷会社のお姉さん、いつも物騒な雰囲気の表紙の本を読みながら受付にいるなって思い出して」
「物騒な…」
「やっぱり、そのジャンルの作品を沢山読んでいる人って、自然とその類の知識を沢山蓄えているんです。他人の、しかも殆どはじめまして状態の人にお願いするのは僕も躊躇しましたが、サークルの仲間の期待も裏切りたくないし…。
あの、もう一度考えてもらう事は出来ないでしょうか」
それまで彷徨わせていた視線を私に集中させて、もう一度彼は「お願いします」と言って来た。
本当に、甚だ迷惑だ。こんな事に巻き込んで来るのも迷惑だが、こんなに真っすぐお願いしてくるのも迷惑だ。流石の私だって、こんなに言われたら断るに断れなくなってしまう。
「…事情は分かったわ。だけど、私だって普通に仕事があるし、すぐにはお返事出来ない。2~3日待ってくれる?」
「ほ、本当ですか?!」
「いや、まだ受けるって決めた訳じゃないから。喜ぶのはまだ早いから」
「そ、そうですよね…そしたらまた2~3日後にそちらに伺いますので、その時お返事をください」
先程のしょんぼりした雰囲気から、少し元気を取り戻して彼は立ち上がった。なんと言うか…単純な奴だ。
用が済んだのか、タバコを携帯灰皿にぎゅっと押し込むと彼は立ち上がって「では」と去ろうとする。
「あ、待って。まだあなたの名前を聞いていない」
呼び止めると、彼は振り返ってにこりと微笑んだ。
「…駒形大学、文学部3年の佐竹です」
■
そして今、私は大変に、猛烈に、とてつもなく憤慨している。
返事を聞きに来ると言っていた3日後、彼は結局会社にやって来なかった。
あの日の帰り、私は図書館に寄ってこれまで借りたお気に入りのミステリー小説を数冊借りて、自宅でパラパラと読み返していた。
大富豪を巡る殺人事件、世紀の大怪盗が持ち込んだ不可思議な盗難事件…どれも物騒で、ハラハラして読んでいて心地よい気持ちになる。この感覚が苦手だなんて、世の中には可哀想な人が居たものだ。
「このネタ使えそう」「この描写良いな」なんて思いながらページを捲っていた時の私は、自然と彼の申し出を受ける気持ちでいたし、何なら「ちょっと楽しそうじゃん」位の気持ちでいた。
なのに、彼は来なかった。
勝手に裏切られたような…いや、騙されたような気持ちになって悔しくなった。きっとこの数日の私は周りの人から見ても、わかりやすく不機嫌だっただろう。
そんな時、上司から書類をお客さんに届けてきて欲しい、とおつかいを頼まれた。宛先を見ると、なんと“駒形大学 文芸サークル 佐竹”だった。
なんというタイミングだ。ちょうど良い、届けるついでにあの時どんな気持ちだったのか、どういうつもりで返事を聞きに来なかったのか聞いてやろう。
無駄に気合いを入れて会社を出発した。
梅雨の6月らしいジトジトとした雨が中、私は片手に傘、片手に書類の入った鞄を抱えて大学へと向かった。
広いキャンパスの入り口にある警備室で文芸サークルの活動場所を聞いて、古びた校舎の奥にある教室へと進む。
軽くノックをすると、可愛らしい女の子が登場した。
「お世話になっております。駒形印刷の田中と申します。佐竹様へ書類をお届けに伺いました。本日はいらっしゃいますか?」
「ああ、はい。今呼んできますね」
そう言って彼女が連れてきた男性を見て、私は驚いた。
数日前に会った佐竹くんとは、まるで別人なのだ。
「佐竹です。いつもありがとうございます。今日はどういった用事で?」
「あの、佐竹さん、ですよね?」
「え?」
自分でも動揺するくらい変な問いかけをしてしまったが、どこからどう見ても、私が知っている佐竹くんとは違う。今目の前にいる彼は、あのおどおどした雰囲気は全く無く、どちらかと言うとしっかりとした印象の男性だった。
「あ、すみません。本日は書類をお持ちしまして…」
「ありがとうございます。でも、おかしいな…この間お願いした時の分の書類はもう戴いていたのに…」
彼は訝し気な表情をしながら封筒の中身を覗くと、「あの、これうちで頼んだ内容じゃないですよ」と言った。
「いえ、そんな事は…」
「でも、この間お願いした内容と部数も仕様も違うし…あ、そもそもここの住所と違いますよ、ほら」
彼が示す箇所を覗くと、確かに大学の住所とは異なる住所が記載されていた。どうして今まで気が付かなかったのだろう。
「失礼しました」とお詫びを言って部屋を立ち去りながら、更に悶々とした気持ちが広がる。
一体彼は誰だったのだろう?何が目的で、あんな嘘をついて私に近付いてきたのだろう。考えれば考える程ぞっとする。
それに、この書類…誤発注のものの書類を作るなんて事は無いはずなので、きっと誰かが本当に頼んだものなのだろうけれど、一体どうしたものだろうか。
ぐるぐると思案しながら階段を下ると、広々とした図書館が目に入った。
折角大学に来たし、不可思議な出来事のせいで時間は少し余っているし、ちょこっと覗いてみようかと中へ進む。
そして一番目の前にある注目書籍の棚を見て、私は息を飲んだ。
そこに私が知っている佐竹くんが「いた」のだ。
■
大学の脇の道を進み、更に小道に入ると見えて来る小綺麗なマンション。
私はそのエントランスに居る。
先程「大学の住所では無い」と言われた宛先は、このマンションのものだった。
イチかバチかと思いながら立っていると、これまたドラマのようなタイミングの良さで、佐竹くん(仮)が現れた。
封筒を脇に抱えて現れた彼は私を見るなり、わかりやすく動揺した。
「こんにちは、佐竹くん」
「えっ…あの、どうして…?」
「書類をお届けに伺いました。ついでに事情も伺いに…ね、後藤隆文さん」
■
先程、大学の図書館で見かけたのは、私が知っている佐竹くんだった。
注目書籍の棚には作家として活躍する卒業生を紹介するコーナーがあり、雑誌のインタビューのコピーなどが丁寧に切り取られて展示されていた。
私も知っている有名な小説家など、数名の作家の記事が展示されている隅に“児童文学界・期待の新星!心優しきファンタジーの世界-後藤隆文」という見出しと共に、ぎこちなく微笑む佐竹くん(仮)の写真が掲載された記事があったのだ。
■
「ここで話すのもアレですから…」と明らかに動揺している佐竹くん(仮)…ではなく、後藤さんに連れられて、彼の自宅にお邪魔した。物の少ない、スッキリとした部屋だ。
お茶の用意をして戻って来た後藤さんは、私の目の前に座るなり「すみません」と深くお辞儀をした。
「あの、お詫びとかは良いんです。でも、どういうつもりだったのか教えていただけますか?…正直ちょっと気持ち悪くて…」
「ですよね…」と彼は言いにくそうに口をもごもごさせる。
「まずは、僕は今はもう駒形大学の学生ではありません。嘘をついてしまってごめんなさい。
その、あなたに声をかけた理由は…純粋に仲良くなりたい、と思ったからでして…」
「え、仲良く…」
「つまり、わかりやすく言うと、僕はあなたの事が気になっているんです」
突然の告白まがいな発言に、思わず目を見開いてしまった。
「いつも、受付で小説を読んでいらっしゃいますよね?」
「ええ、まあ」
「こんな事を言うと更に怪しまれそうなのですが、以前に会社の前を通りかかった時、入り口のガラス窓から真剣に小説を読んでいるあなたを見て、その、いいなあって思ったんです。多分世間的に言うと、一目惚れというやつだと思うのですが」
「…私の事、揶揄ってます?」
「いやいや、本当に真剣なんです!」
手を大きく振りながら否定する。
「きっと仕事中の時間だろうに堂々と、そして夢中になって読んでいる姿がすごく印象的で…。でも、どうやって声をかけたら良いか全くわからなかったんです。
その時、この印刷会社は大学時代の文芸サークルの同人誌の印刷でお世話になっていた事を思い出して」
「文芸部に所属していたっていうのも、本当の事だったんですね」
「あ、はい。今も後輩たちとは繋がりがあって、イベントの時とかは手伝いに行ったりもするんです。だから今のサークルの面々も何となく知っていて。
だから、そのサークルのメンバーを装って注文しにいったら怪しまれないかなって思って…ほら、僕、年齢よりも若く見られるので」
「…実際はお幾つなんですか?」
「31です」
「そこそこ良い大人ですね」
驚きと呆れと混乱とで、私は大きく溜め息を吐いた。
「そんな変な小細工しなくても、堂々と話しかけたらいいじゃないですか」
「いきなり会社に知らない男の人が来て、あなたに一目惚れしましたって言ったら不信感しか抱かないでしょ?」
「まあ、そうですけれど…。
で、ミステリー小説のネタを考えて欲しいていうのも嘘ですか?」
そう尋ねると、後藤さんは視線を泳がせながら口を開いた。
「嘘、と言ったら…そうですね。
何回か印刷物の注文をさせて頂いて、そこから先に発展できるような話題を考えた時に、やっぱり僕は小説の事しか思い浮かばなかったんです。
僕は本当にミステリー小説が苦手で全然読まないんですけれど、あなたはいつもミステリー小説を読んでいて。そしたら、その面白さを理解できるような話題にすれば良いのだと思いついて」
「それで、ミステリー小説のネタを一緒に考えて欲しい、という嘘を」
「まあ、それも嘘、と言えばそうですが…」
敢えて意地悪な言い方をすると、またもごもごと口籠ってしまった。
「どこまでも、回りくどくて面倒臭いですね」
「言い訳ではないですけれど、物書きは口下手なんです」
「折角面白い作品を書かれるのに」
「…え?」
実は先程大学の図書館に行った時、展示されていた後藤さんの作品を少しだけ読んだのだ。どんな文章を書く人なんだろうと思って。
それは普段ミステリー小説を読んでいる私でも、すっと心に落ちる様な落ち着いた文章で、私には思いつかないような壮大な世界が広がっていた。このままずっと、この世界に入っていたいと思うような心地良さだった。
「小説の世界では落ち着いているのに、どうして現実世界になるとごちゃごちゃ考えてはっきりしない行動になっちゃうんですか」
「す、すみません…」
「正直、一歩間違えたら不審者扱いですよ」
「そうですよね…僕も、そう思います」
暫く、お互い向き合って無言の時間が続く。
「怒って…ますよね?」
「怒ってはいません」
そう言って静かに立ち上がると、後藤さんは明らかに焦った様子になって後を追うように立ち上がった。そそくさと玄関に向かう私を追って来る。
「もう、会社には伺いませんので。ご迷惑をおかけする事はもうしません」
「いえ。いらしてください」
「…え?」
振り返ると、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした後藤さんが立っていた。
「今度は、後藤さんが書かれた小説を持っていらしてください。注文も結構ですので。今読んでいる作品が終わったら、読ませていただきたいです」
そうきっぱりと言うと、後藤さんはびっくりした顔をして、何かを考えるような顔をして、それから照れ臭そうな顔をして笑った。
■
部屋を出て時計を見ると、正午を過ぎたところだった。
このまま何処かでお昼ご飯を食べてから会社に戻ろうか。
そんな事を考えながらエントランスを出ると、いつの間にか雨は止んでいて、雲一つない青空が広がっていた。
「私の心みたい」
そんなクサい台詞を呟いて、私は軽い足取りでマンションを後にした。