雨よ優しく肩を濡らせ
女は濡れた右肩を撫でながら、梅雨って嫌ですね、と言った。寂れた町の探偵事務所には不似合いな、ちょっと良い女だった。
「予約は?」
「いえ……していないです。しないと、まずかったでしょうか」
「まさか」
客との約束が入っていないことなど、俺が一番よく知っている。指先が焦げそうなほど短くなっていた煙草を硝子の灰皿に押し付け、端が色褪せたソファを顎でしゃくる。女はおずおずと小さな尻の半分くらいをクッションに乗せ、どこか気まずそうに膝の上で指先を弄んだ。年の頃は二十代半ばくらいだろうか。茶色に染めた真っ直ぐな髪から落ちた雫が、女の薄い水色のサマーニットの胸元に染みを作った。女の不安そのものみたいな染みだった。
細い指に光るものはないから、結婚はしていないのだろう。おそらく自分に自信がなく、周りに流されるように生きてきた、縁遠い女 ――― でも俺はそういう薄幸な女が好きなのだ ――― そんな当たりを付けて、女に向き合う。
「で? ペットでもいなくなったのか? 君みたいな若いお嬢さんがウチに来るなんて」
「……誰かに、尾けられている気がするんです」
「ほう」
意外な話に身を乗り出すと、女は細い眉を顰めて仰け反るように顔を背けた。何とも明け透けな態度だが、今どき煙草なんて流行らないから無理もない。何と言っても久しぶりの仕事だ。ここ数日ずっと喉に絡んでいる痰を切るように咳払いをして、居住まいを正す。山浦春子と名乗ったその女は、概ね次のようなことを語った。
春子はここから数駅離れたH駅にある会社に勤めており、毎日決まった時間に決まった道を通る。そのときに、ずっと適切な距離を保って後ろをついてくる男がいる。最初は通勤路が同じだけかと思っていたが、たまに春子が残業や飲み会で帰りが遅くなったときでも、男は同じように春子の背後にいる。特に何かをされたわけではないが、それでも気が付くと自分の近くにいる一人の男の影に恐怖を覚えるという。
「警察に行った方が良いんじゃないのか。ご覧の通り、もし何かあっても俺は肉弾戦に向いていない。わかるだろ」
肩をすくめながら冗談めかして言うと、春子は至って真剣な表情で頷いた。
「警察は、実害が出ないと動いてくれないと聞きます。それに、あまり大事にはしたくなくて。私の勘違いかもしれませんし」
「勘違いだと、思うのか?」
春子は項垂れてかすかに肩を震わせた。恐ろしいのも無理はない。話を聞く限り、十中八九その男はストーカーだろう。見知らぬ人間に見られているというのは、想像しているよりもストレスになるものだ。
「その人の写真もあるのですが、役に立ちますか?」
「もちろん。ありがたい」
春子から受け取った写真には、それといって特徴のない、紺のスーツを着た男がこちらを見て手を上げている姿が写っていた。三十代前半くらいだろうか、短く刈り上げた黒髪には清潔感がある。とても年下の女の子を追いかけ回すようなヤツには見えないが、人は見た目で判断ができないというのは、よく知っている。
「俺はこの男の素性を確かめて、ストーカーの証拠を集めればいいのか?」
「もし今後警察に行くときのために、写真を撮っていただきたいです。あとは特に何もせず、少し離れた場所からついてきていただければ……」
「それだけでいいのか?」
「はい。男性が近くにいれば、抑止力になると思うので。あ、もしかすると写真を撮るのは、難しいですか? それであれば見守ってもらえるだけでも良いのですが」
「いや、問題ない」
俺が請け合うと、春子は安堵したように息を吐いた。意外にも血色の良いその頬が緩んでいる。薄幸そうなところが良いと思っていたが、こうやって若い娘らしく微笑んでいる姿も愛らしい。
何度も礼を言いながら帰っていく春子を外まで見送る。ぎゅっと傘の柄を握りしめた春子の両手が真っ白になっていた。彼女の細い身体には不釣り合いな大きな黒い傘が、六月の雨を弾いて不安定に揺れていた。
春子が帰っていって数十分後、事務所のドアを開いたのは、艶のある黒髪を潔く耳の上で切り揃えた女だった。荷物は何も持っておらず身一つでやってきた女は、先ほどの春子と違って自信に満ちており堂々としている。また煙草に火をつけようとしていた手を止め、俺は顔を上げた。
「……予約は」
「していませんが。しなくても平気かと思って」
「大当たりだ」
一日に二人も飛び込みの客なんて、この万年閑古鳥が鳴いているこの探偵事務所には珍事だ。ありがたいことだが、調子が狂う。
「加持ゆかりです。夫の様子がおかしいので調べてほしいのです。おそらく、若い女の子と不倫しているのではと思っています」
「不倫ねえ……。証拠は?」
「妻の勘。それで充分かと」
そう言い切って、まるで睨みつけるように正面に座る俺を見据える。俺は、山浦春子のような気弱そうな女も好きだが、気位が高い女も同じくらい好きだ。
「いいだろう、受けよう。ただ、ちょうど別の案件が重なっていてな。着手できるのはしばらく先になりそうだが、構わないか」
ゆかりは驚いたように目を丸くした。こんな零細探偵事務所に自分以外の依頼があったことが意外だったのか。
「それは困ります。どうか、すぐにお願いします。これが夫です」
ゆかりは鞄から取り出した一枚の写真を、俺の手の中に押し付けるように差し出した。
「おいおい……」
手の中の写真には、山浦春子を追いかけ回しているという男と同じ顔が写っていた。
結局、二人の女の依頼を受けることになった。依頼は二つだが、俺のターゲットはただ一人、加持賢作という男だ。ゆかりの夫である賢作は、春子の職場があるH駅に勤める会社員だ。通勤路が同じなのではないかという春子の予想は当たっていたことになる。年齢はゆかりより二つ下の、三十二歳。結婚して五年になるそうだ。子どもはいない。
本当に賢作が春子をストーカーしているのか、それとも実際は春子と関係を持っているのか。いずれにせよ、賢作という男が何か良からぬことをしていることは間違いない。
翌日から早速行動を始めた。春子から連絡をもらって、彼女の通勤時間は分かっている。春子からは、見守るのはH駅での徒歩十分の通勤路だけで良いと言われている。自宅近辺を見張らなくていいのかと思ったが、プライベートまで監視されたくないらしい。一日に二十分だけの、随分楽な仕事だ。
朝八時二十分、H駅に降り立つ。天気は今日も雨で、傘の花が雑然とした大通りに咲いている。慣れぬ街は距離感が掴めず、人や物にぶつかってしまう。まして、見知らぬ人たちの中にターゲットの横顔を探す俺は完全に邪魔者で、苛立った人たちの舌打ちを受けながら、身を守るようにビニール傘を右側に傾けた。
予定通りの時刻に、駅の出口を出てくる春子の姿を見つけた。やはり似つかわしくない黒い傘の下で、小さな白い顔が緊張の色に染まっている。俺の姿を探しているのか、はたまた賢作を警戒しているのか、辺りを見回しながらしきりに右手で髪の毛を撫でつけている。
春子が俺の前を通り過ぎてから僅か数十秒後、目的の人物が現れた。加持賢作は、男物の大きな蝙蝠傘を差し、脇目も振らず俺の前を歩いて行った。春子の後を追っているようにも見えるし、ただ急いでいるだけにも見える。これだけでは判断が付かない。カムフラージュのために持っていたスマートフォンをポケットにしまい込み、俺は二人の後を追った。
春子と賢作は、一定の距離を保ったまま歩き続けた。春子の後ろを賢作が追い、更にその後ろを俺が歩く。道行き、春子は一度だけ振り返り、賢作の姿を認めると顔を恐怖の色に染めて道路沿いのコンビニに飛び込んだ。続く賢作も、迷いなくコンビニに入っていく。俺が店の前で待っていると、逃げるように春子が、次いで間を置かずに賢作が店から出てきた。
賢作の動きはまるでシステム化された機械のようだった。ただ目の前の女を追いかけるという意志で動いているように見えた。それに比べて春子は挙動不審で、狩られるのを待つ小動物のようだった。
春子と賢作と俺の馬鹿馬鹿しい追いかけっこは、春子が会社に到着するまで続いた。
それから一週間、俺は春子の ――― つまりは賢作の監視を続けた。特に代わり映えのない日々だった。春子は何とも刺激のない毎日を送っており、決まった時間にH駅と会社を往復した。一日だけ『突発的な残業で帰りが遅くなる』と連絡があったが、その日ですらも賢作は正しく春子の後ろに現れた。
「やはり黒だな」
一週間で集めた情報を前に、俺は独り言ちた。俺は安かろう悪かろうな探偵だが、一日二十分の仕事で満額を貰うのは流石に忍びなく、賢作や春子の人となりについて俺なりに色々と聞き込みなんかをやったのだった。
賢作の勤務態度は至って真面目だった。しかし、冗談が通じず融通が利かない、納得のいかないことがあると粗暴な態度を取るという声もあった。春子を付け回すあの機械的な動きを見ればそれも納得だ。こんな俺よりも探偵に向いているかもしれない。妻であるゆかりも、夫のことを「自分だけの正義を振りかざす人」と評していた。悪びれもせず自分よりも十も年下の若い女を付け回す男の人物像として合っている。
一方春子だが、気弱で従順だが、自分の意見を持たず、言われたことしかやらない人……そういう評判だった。良くも悪くも、自分というものを持っていない女なのだろう。量産型の化粧や髪型を見ればわかる。本当に気が強い女というのは、ゆかりのように却って化粧も染髪も殆どしないものだ。ゆかりと結婚した賢作が、真逆のタイプの春子という女に執着しているという事実が、何とも皮肉で俺は唇を歪めた。
春子とは定期的に連絡を取っているが、ゆかりには今日、一週間分の調査結果を報告することになっている。あまり気が進まないが、これも仕事だ。
やはり雨が降っている。胸のうちまで湿気りそうな、雨の多い梅雨だ。約束の時間より少し遅れてやってきたゆかりは、真っ赤な傘を部屋の隅に立て掛け、俺の前に静かに腰を下ろした。
「夫は、きっとどなたかにご迷惑を掛けているのじゃありませんか」
前回と同じく、俺が何かを言う前に、ゆかりはいきなり本題から切り出した。
「つまり?」
「前回、夫は不倫しているのじゃないかと申し上げましたが、本当は違うと分かっていたのです。もしかすると夫の身勝手な思いなんじゃないかと……本当は分かっていたのです」
ゆかりの黒髪から覗いた耳は赤く染まっている。この言葉を切り出すために、目の前の気位の高い女は俺の想像もつかないほどの屈辱に耐えているのだった。
「本当にきちんと相手の方と思いが通じ合っているのなら、わざわざ不倫なんてせずに、とっとと私と離婚しているでしょう。夫はそういう人です。……相手の方の顔を見たいのですが、駄目でしょうか」
本当であればもちろん見せるべきではないと分かっていた。だが、あまりにも切実なゆかりの様子に、俺はこの一週間の尾行中に撮影した春子の写真をゆかりに差し出していた。ゆかりは静かにその写真を見つめた。
「可愛らしい方……。私とは大違いですね」
何を言うべきか迷い、迷った挙句、俺は左手で顔を覆った。ゆかりが大きなため息を吐く音が雨音に交じって響いた。どんな表情をしているのかは、見たくなかった。俺は、春子もゆかりもどちらも良い女だと思っている。どちらの女も、同じように好きだ。だが、そんなことは今何の意味もなかった。
「これ以上、夫がこの方にご迷惑を掛けるのを見過ごせません」
「どうする気だ」
「次の月曜日の調査、私もご一緒できませんか。そこで、決着をつけます」
覚悟を決めた様子のゆかりに、俺は思わず頷いていた。
月曜日の朝は、静かな雨が降っていた。傘を差してもいいが、差さずにただ身体を白い雨に濡らしてもいいと思えるような、そんな雨だった。賢作に見つかったら面倒なことになるので、H駅の人目に付かない場所でゆかりと待ち合わせをした。約束の時間に遅れてきたゆかりは、息を切らして俺に詫びた。
「すみません、夫の目をかいくぐって家を出ようとしたら、遅れてしまって」
「いや、構わない。しかし、もう二人は先に行っちまったらしい。急ごう」
先ほど春子から届いた定時連絡には、いつもより早く家を出た旨が記されていた。今日に限って、と思わなくもないが、今回ゆかりが同行することを彼女に伝えていないのだから責めることはできない。むしろ俺の職務怠慢である。目を凝らしながらいつもの道を行くと、コンビニの中に二人の姿があった。調査初日にも寄ったコンビニだ。
ゆかりを片手で制止し、二人が出てくるのを待つ。春子は店内をうろうろしながら外の様子をうかがっている。俺の姿を探しているのかもしれない。数分して、春子は緊張した面持ちで店から出てきた。自動ドアの傘立てから黒い傘をつかみ、足早に会社の方へと歩いて行く。店から少し離れた場所にゆかりと佇む俺の姿に一瞥をくれてから、足早に歩きだす。おそらく、すぐに賢作も後を追うだろう。
「賢作さんもすぐに来るでしょう。ゆかりさん、あなたは一体どうするつもりです」
「私は……」
ゆかりはすぐに言葉を切って、鋭く息を飲んだ。何事かと思って前に目を遣ると、賢作が傘も差さずに、先に行った春子の後を猛然と追いかけている姿が見えた。この一週間ずっと保ち続けていた春子との距離を、賢作は今日になっていきなりゼロにしようとしていた。賢作の猛追に気が付いたのか、春子も傘を握りしめたまま必死に走り出す。賢作は何か怒号をあげながら、今にも春子に掴みかかろうとしていた。それを見てパニックに陥ったゆかりが、俺の左肩に縋りついた。
「私がいるのに気が付いたのかも……探偵さん、あの人を止めてください! 春子さんが……!」
以前春子に言った言葉に偽りはなく、俺は自分の身体のある特徴のせいで、肉弾戦には向いていない。しかし、動かないわけにはいかない。すぐに二人を追いかけようと、左半身に絡みつくゆかりを押し退ける。すると、ゆかりの持っていた真っ赤な傘が、風に煽られて眼前に舞った。
不幸な事故だったと言わざるを得ない。半分以下に遮られる狭い視界の中で見えたのは、振り払われた一本の黒い傘が、賢作の身体に強くぶつかる様子だった。賢作はそれで体勢を崩し、車が行き交う大通りに身体を放り出した。その後の光景は、よく思い出せない。目の前にちらついたゆかりの真っ赤な傘と、辺りに響く女の鋭い悲鳴と、それだけだった。
朝の通勤ラッシュの何台もの車に轢かれ、加持賢作は死んだ。
賢作の死は、事故として処理された。第三者である俺の証言があったことと、生前に賢作が春子に執拗に付きまとっていたことも考慮された。また、賢作の妻であるゆかりが「事を荒立てたくない」と言ったこともある。
事件が片付いてから数日後のやはり雨の日に、俺は事務所で一人煙草を吸っていた。雨音が鼓膜を焦がすような音を聞きながら、もうすぐやって来るだろう客人に伝える言葉を、ずっと考えていた。
加持ゆかりは、やはり約束の時間に遅れてやってきた。部屋の隅の赤い傘から滴った雫が、汚い事務所に水たまりを作っている。
「ご足労、悪かったな」
「今日はどうしましたか。もう事件のことは蒸し返したくないのですが」
ゆかりはあからさまに気だるげな態度で乱暴に足を組み替えた。攻撃的な態度に、不安な心中が透けて見える。窓の外に目を遣ると、加持賢作が死んだ日と同じような色の雨が降っていた。ひとつ息を吐き、それから吸う。
「今回、俺のもとには二つ依頼が来た。自分のストーカーを調べてくれという依頼と、不倫をしている自分の夫を調べてくれという依頼だ。この調査対象の男は、加持賢作という一人の男だった」
ゆかりは表情を変えず、静かに俺の話を聞いている。俺はまだ自分の言葉に自信を持てずにいる。何を言うべきか迷いながら、次の言葉を探す。
「そもそもな、こんな偶然あるわけないんだ。この事務所にそんな依頼が来るはずがない。わざわざ俺に依頼したいと思う客なんか、そんなにいないからな」
「でも、有り得なくはないですよね。実際、あったことですから」
「そうだな。実際、俺の元には二つの依頼が来た。これが全くの偶然ということも、有り得なくはない」
また息を吐いて席を立つ。まな板を置くスペースすらないキッチンで、自分を落ち着かせるように二人分のコーヒーを淹れる。粉で作った薄いコーヒーを机の上に置くと、ゆかりは小さな声で礼を言った。
「俺が調査している一週間、確かに賢作は春子を付け回しているように見えた。でも、賢作が春子を探している素振りをしたことはなかった。どちらかというと、追いかけられている春子の方が、賢作を気にしているように見えた」
どんどん乾いていく喉を潤そうと、コーヒーを啜る。ゆかりの眉間に、かすかに皺が寄っている。
「賢作が春子を追い回していたんじゃない。逆だったんだ」
「逆……?」
「春子が、常に賢作の少し前にいたんだ。第三者の ――― 具体的には俺の目から、まるで賢作が春子を追いかけまわしているように見えるようにな。こんなに説明せずとも、分かっているだろう。ゆかりさん、あんたも共犯だったんだからな」
「私が共犯? 何を馬鹿なことを……」
「そうじゃなきゃ説明がつかないんだ。賢作が常に春子を尾行できたのは……つまりは、春子が常に賢作の通勤時間を把握して行動するためには、それを事前に知らせてくれる人がいなきゃならない。それはゆかりさん、あんたしかいないんだよ」
そもそも、春子が俺に差し出した賢作の写真は、親しい誰かが撮影したと思えるものだった。春子とゆかりは、繋がっていた。最初から何もかも仕組まれていたのだ。ゆかりは青ざめた表情で両手を膝に揃えている。握りしめた両の白い握りこぶしに、青い血管が浮いている。
「証拠は、ないですよね」
「確かに、俺は今その証拠を持っていない。あんたか春子のスマートフォンを漁れば、いくらでも出てくるだろうがな。だが、この事件の前からあんたが春子を知っていたことは間違いない」
「何で……」
「あの事件の直前、あんたは俺にこう言った。『探偵さん、あの人を止めてください、春子さんが』ってな。俺はあんたに、春子の名前を教えたことはないぞ」
「……たまたま、知っていただけです。何かの拍子で。それに、仮に私が春子さんと知り合いだったとしても、何の問題が? あの日、賢作が春子さんに襲いかかったのは紛れもない事実です」
「傘だよ」
俺は短く言葉を切った。部屋の隅で、赤い傘から落ちた六月の雨が広がっている。傘……六月の雨が引き起こした事件だったのかもしれないと思った。
「あの日、春子がコンビニから持ち去った黒い傘は、賢作のものだった。自分の傘を目の前で盗まれて、正義感の強い賢作は怒りに我を忘れて春子を追いかけた」
「春子さんが黒い傘を持って行って、探偵さんは何も思わなかったんですか?」
「俺の前で、春子も黒い傘を使っていた。彼女らしくない色だとは思っていたんだが、すべてはあの日、俺の前で賢作の傘を持ち去っても俺に違和感を持たせないためだったんだろう」
ゆかりは何かを反論するように口を開きかけて、諦めたように脱力した。畳みかけるように俺は続ける。
「そもそも、春子がこの事務所に来たときに持っていた黒い傘は、彼女には大きすぎた。片手では持てないほどにな。おそらく賢作のものだったのだろう。それを近距離で見ていたからこそ、あの日春子が賢作の傘を持って行っても何も不思議に思わなかった。ゆかりさん、あんたが持ってきたのか? この事務所に来る前に、二人で使っていたのか? そうでないと、あの大きな傘を使っても春子の肩が濡れていた理由や、あんたが事務所に傘を持ってこなかった理由の説明がつかないんだ」
黒い傘は二本あったのだ。春子には大きすぎる賢作の蝙蝠傘と、春子自身の小さな黒い傘。ゆかりは身じろぎもせずに座っている。雨音はどんどん強くなっていくが、この狭い部屋はどんどん静まり返っていく。冷めていくコーヒーにもの悲しさを覚えて、俺は頭を掻いた。
「どうして俺だったんだ。俺は、あんたたちの目撃者にさせられたんだろう。どうして俺だったんだ。やっぱりこの目のせいか」
右目の眼帯を指さすと、ゆかりは顔を歪めて目線を自分の足元に落とした。俺は右目の視力がない。視界が狭くなるため、探偵としては致命的だ。だから俺の事務所は流行らない。だが、今回の依頼にとってはぴったりの条件だったのだと、今ならわかる。
「あんたは俺の左側に立ったな。あの日、あんたは俺の左側に立って、俺の視界を遮るように行動した。春子が加持賢作を殺す肝心の場面を見せないためにな」
傘で隠して。俺の視界を遮った赤い傘が、毒々しく濡れている。加持賢作が死んだ日の雨と血を吸ったのだろうか。俺の言葉を聞き終えたゆかりは、わざとらしくにっこりと微笑むと、初めて俺の淹れたコーヒーに口をつけた。
「……女は嘘を吐く生き物よ。女に弱くて騙されやすい、馬鹿な男を選んだの。それだけ」
コーヒーカップに付着した赤い口づけのあとが、あの日俺の眼前に舞った傘の色を想起させた。
「なぜ殺した。賢作が邪魔だったなら、別れれば良かっただけだろう」
「私が言ったことは大体が嘘だったけど、本当のこともあるの。……アイツは、自分の身勝手な正義感を振りかざす、最低のヤツだった。自分より十も下の女の子のことを好きになったから別れたいなんて、許されるはずがない」
「だからと言って……」
「警察に言うの? 決定的な証拠はないと思うけど」
ゆかりの声が震える。化粧っ気のない蒼白な顔の中で、唇だけがやけに赤いのが、彼女の武装なのだと知った。すっかりぬるくなったコーヒーを飲み干す。
「いや、言わないよ。俺は、女に弱くて騙されやすい、馬鹿な男だからな」
お幸せにと肩をすくめると、ゆかりは下唇を噛み締め、両手で顔を覆った。春子が気弱で流されやすい、ゆかりが自信満々で気位が高いという俺の見立ては、間違っていたのかもしれない。やはり俺は、女の見る目がない馬鹿な男なのだ。
窓の外を見ると、小さな赤い傘の下におさまる二人の女の姿が見えた。右と左と、それぞれの肩を濡らし、幸福そうに寄り添い合う女たちを見て、ため息を吐く。どんな最低な男だったとしても、加持賢作を殺したのはあの二人だ。それでも ――― 二人のささやかな幸せと、結局名前しか知らない男の冥福を祈りながら、俺はまた煙草に火をつけた。