水無月の落とし文
泣く涙 雨と降りなむ 渡り川 水まさりなば かえりくるがに
小野篁―古今和歌集より
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『貴方の元を去る前に、一つ謎かけをしましょう』
頭の中に蘇った妹のそんな言葉を思い出し、篁は溜め息を吐く。内裏へと続くこの廊下を進みながら、頭の中に浮かぶのは今朝方見た夢の一部始終だった。
「なんだ、珍しく浮かない顔だな。篁」
その声に驚いて顔を挙げると、見知った狩衣姿の少年と目が合う。
「あ、ああ。申し訳ありませぬ。少々、物思いにふけっておりました」
慌てて笑顔で取り繕いそうごまかすが、この私利私欲にまみれた大人に囲まれて生きてきたこの少年は容易くこちらの意図を酌んだのか、笑みをこぼした。
「そうか。では、そういうことにしておこう。さて篁。物忌みの期間を開けてそうそう申し訳ないが、本日 其方を呼び出したのは、理由がある」
そう言うと少年は感情の読めない表情を篁に向ける。篁は観念したように肩を竦めた。
「まぁ、ここで話すのも何だな。ついて参れ」
「は」
その言葉に逆らう術を篁は持っていない。というのもこの少年は今上帝―桓武天皇の第一子であり、次期天皇の座に就く東宮であるからだ。が、現在、弟である賀美野を次代の天皇に推す声が上がっており、こうして篁といるところを女房などに見られたら、また何を噂されるか分からないのも事実だった。篁は兄弟間の小競り合いなどに興味はない。が、参議という父の役職から考えても、ここで噂の的になるのは得策ではない。
そう判断すると、篁は静かに黙礼し彼の後に続いた。
「そう畏まるでない。顔を挙げよ、篁」
内裏に着くと、ようやく顔を挙げる許可が下りる。
「恐れ入りまする」
そう一言おいて顔を挙げると、眼前には扇子の上に乗った緑色の個体が迫っていた。
・・・
「発言してもよろしいでしょうか?」
「許す」
「恐れ多くも・・・これは、オトシブミのゆりかごでございますか?」
「まぁ、そうだな」
そう同意されるが、それを見せるためだけにこの少年が篁を呼び出したとは思えない。とすれば、だ。
「失礼ですが、安殿様はこれを何処で手にされたのでしょうか」
篁の問いかけに、少年は肩を竦める。
「うむ。実は今朝方、右目に泣きぼくろのある黒髪の美しい女性が夢枕に立ってな」
その言葉に、思わず心臓が高鳴る。というのも、先日亡くなった妹は言われた通りの特徴を持っていたからだ。そんな篁の心中を知ってか知らずか、彼は続ける。
「涙ながらに申すのだ。『これを我が背の君に渡してほしい』とな。なぁ篁?」
鬼見の才ある彼の夢枕にはこれまでにも様々な人物が立ち、その度に篁は彼の命を受け事態の解決に奔走することが度々あった。だが、よりにもよって そんな思いと共に憮然とした表情のまま少年を見る。彼は、すべてを察しているのか冷めた目を篁に向けていた。
「小野 比右子・・・だったか」
その名を聞いて、篁は弾かれたようにして少年を見る。小野比右子―それは先日亡くなった篁の異母妹の名だ。おそらく、彼は全てを聞いているのだろう。人の口に戸は立てられぬ。覚悟を持って篁は次の言葉を待つ。
「其方、六道珍皇寺を知っておるか?」
「は」
知らぬはずはない。六道珍道寺とは化野・蓮台野と並ぶ風葬の地として知られる鳥辺野近くにある冥界の入り口とも言われている寺だ。
「実は昨日、女房達が六道珍皇寺近くの辻で右目に泣きぼくろのある女人の霊を見たと噂しておってな」
「―っ」
思わず叫びそうになるが、その呼気は眼前に差し出された扇子に遮られる。『まぁ、聞け』ということか。
「『オトシブミとかけて、篁と解く。その心は』」
「・・・」
「夢枕に立った女性が残した言葉だ。心当たりはあるか?」
「・・・安殿さまもお人が悪い」
喉から絞り出すようにそれだけ返すと、脳裏にはあの家の裏庭―井戸の近くに植わっていた栗の木が浮かぶ。昨年の今時分、比右子は同じ問いを口にした。彼女に返した言葉と共にその時の感情も付随し、それが篁の心に襞を作る。彼女に返したその心は・・・。
「『どちらも命がけ」』
記憶の中の自分と共にその言葉を重ねれば、どうにも読めぬ表情のまま東宮は扇子を閉じた。
「姿なき者は、人の口を借りてその意を伝えるという。夢枕に立った其方の妹と、女房が見たという六道珍皇時の辻に現れた女性。この二人が無関係とは思えぬ。其方が命がけでかの女性を想ったというならば、彼女をきちんと送り届けて参れ。よいな」
「御意」
彼の意に背く言葉を、篁は持っていない。そんな当たり前の事実以上に、自分と比右子の問題に彼の手を煩わせてしまったことをただただ恥じながら、篁は拝礼の意を示した。
「さて篁、妾はこれより天皇との謁見がある。故に六道珍皇寺には其方一人で行ってもらうことになるが」
部屋を出て行こうと踵を返した刹那、東宮の声が篁の背を追う。何かを思い出したような彼の声音に違和感を覚えながらも、篁は再び礼の姿勢を取り耳を傾ける。
「は」
東宮である彼の命を受けてこうした物の怪退治に動く際、これまで篁は彼と行動を共にしてきた。というのも、いくら伝えられた特徴に類似していたとしても、彼の夢枕に立った人物の姿は彼にしか分からなかったからだ。しかし、今回は女性の特徴に加え篁の名まで示されている。確証はなくとも十中八九比右子に間違いないだろう。
「一つ、そなたに伝え忘れたことがある」
「?」
この期に及んで何だというのか。
「女房が言うには、泣きぼくろの女性が現れる直前、赤子の泣き声が聞こえたそうだ」
「・・・」
「杞憂であれば良いと思うが、くれぐれも彼岸に引きづられるでないぞ」
「・・・ご忠告、いたみ入ります」
その言葉にそれだけ返すと、背中に視線を感じながら東宮の元を後にした。
異母妹である比右子と篁が出逢ったのは、三年程前。桜の咲く時分であった。宮仕えをしようかという比右子の元に、指南役として抜擢されたのが、篁だったのだ。異母妹と言っても、幼い頃から疎遠であった男と女が妹背の仲となるのに、時間はそうかからなかった。二人の仲が父母に知れ渡ったのは、比右子の懐妊がきっかけである。その後、二人の関係に怒り狂った義母が、比右子を蔵に幽閉したのだ。篁は人の目を忍んで食料を届けていた。しかし、外せぬ用が入り家の者に代理を頼んだ際、篁が来ないことにショックを受けた比右子はそれを口にすることはなく、亡くなった。
『消え果てて 身こそ灰になり果ての 夢の魂君にあひ添へ』
最期の語らいの時に彼女が残した歌がそれだった。牛車が停まり、篁の思考も打ち止めとなる。
「さて。鬼が出るか蛇が出るか・・・」
叶うものならもう一度逢いたいと、けして口にはできぬ願いと共に篁は六道天皇寺の土へと足を踏み出した。
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境内への奥へと進むと井戸へと続く小道がある。水無月の雨上がり、霧の立ちこめる中砂利で敷かれたその小道を進みながら、篁はぼんやりと東宮の言葉を反芻していた。
『女房が言うには、泣きぼくろの女性が現れる直前、赤子の泣き声が聞こえたそうだ』
比右子が亡くなったとき、腹の子はまだ産み月を迎えてはいなかった。だとしたら、比右子は黄泉路に下ってから赤子を産み落としたのだろうか。
“篁“
不意に比右子の声を聞いた気がして、篁は顔を挙げる。
「比右子!」
視線の先に比右子を見つけると、一目散に駆け出した。
「お会いしとうございました。我が背の君」
篁の腕の中で比右子は嬉しそうに微笑む。
「比右子っ!」
もう一度会えた彼女の存在を確かめるように、篁は彼女をもう一度きつく抱きしめた。その、体温の伝わってこない無機質な感触が、彼女の亡骸を抱きしめた記憶を思い起こさせる。その胸の痛みに気づかないふりをして、篁は彼女と向き合った。
「久しぶりだな。息災か」
「ええ。貴方は・・・、少し痩せましたか?」
「ああ。其方に会えぬ辛さで飯も喉を通らず、この有様だ」
「そうでしたか」
寂しそうに微笑むと、比右子はその表情を真摯なものに代える。
「実は、黄泉路に下った私が貴方に会いに来たのには理由があるのです」
「理由?」
「ええ。お話は、道中お伝えしようと思います」
比右子がそう言った次の瞬間、霧が動いてぽっかり晴れ間ができた。その中央に頓挫する井戸へと、比右子は篁の手を引く。
「私と共に来て下さいますか?」
「断るはずがないだろう」
これが罠でも、きっと自分は断りはしない。頭の隅に一瞬東宮との会話が蘇ったが、それに構わず篁は比右子の後に続いた。
「事の起こりは二~三日前、私が地獄の泰山王に判決を下されるのを待っている間のことです」
泰山王とは地獄において亡者の裁判を行う十王の一人だ。泰山府君の別名をもつ王は、閻魔王・変成王に次いで亡者の行き先に関して決定する最後の王である。四十九日目の最終判決を下すという役目を持つ王の名に、篁の胸は高鳴る。
「私は本来集合地獄に落ちる予定でした。ですが私の番になって、変成王から送られてきた資料が、丸ごと消えたのです」
「衆合地獄・・・」
それは、殺生・偸盗・邪淫を働いた者が落ちる地獄だ。
「何故・・・。いや、それより資料が丸ごと消えたとは・・・」
「分かりません。ですが、おかげで地獄は混乱しております。この事態を終結できる者に心
当たりがある、と申し出て今度私が篁を呼びに参ることを許されました」
比右子はそう言い終えると息を吐く。そうやって立ち止まった瞬間、いつまで続くとも知れぬ道の先に鳥居が見えてきた。
「あれは・・・」
「あの鳥居をくぐると、その先は地獄です。そこに居るのが、泰山王になります。ご覚悟はよろしいでしょうか?」
「ああ」
覚悟ならとうにしている。胸に秘めた決意と共に、篁は比右子に続いて鳥居をくぐった。
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鳥居をくぐると、その先にある少し開けたところに、人だかりができている。
「あちらにおわすのが、泰山王でございます」
比右子の指し示した先では、小柄な仮面を付けた男が角を生やした役人のような男と話していた。篁が近づくと、彼は面を付けたその顔をこちらに向ける。
「そなたが噂の篁か。よう参った」
泰山王と紹介されたその人物は、思ったよりも小柄で、柔らかな声音の仮面を付けた男だった。
「話は、そこにいるそなたの妹から聞いておるな。閻魔王から始まり変成王が継いできた 亡者に関する資料が消え失せたのだ。そなたには、それを探して欲しい」
「…仮に、否と答えればどうなるでしょうか?」
さも当然と言ったような物言いが腹立たしく、ついつい持ち前の反骨精神が顔を出す。だが、目の前の王はそんな言葉に動揺した様子もなく首を傾げた。
「はて?それはおかしいな、比右子よ。和子の浄土行きと引き換えに、この件を解決できる者を連れて来ると言ったのは、そなただと思ったが、あれは妄言か?」
「否!どうか篁の才覚を信じ下さい!」
驚いて比右子を見ると、彼女は篁へと頭を下げる。
「黙っいて申し訳ありませんでした。ですが篁、母である私はあの子を守らなくてはなりません。それが、あの日意地を張って口にするべき者を口にせず、黄泉路へとあの子を道づれにしてしまった私ができる唯一の償いでもあります。私からも頼みます。どうか、草子を見付けて下さい」
深々とそう一礼されてしまえば、断る選択肢は断たれたも同然だ。
「相分かった」
比右子にそう返すと、篁は泰山王に向き直る。
「その話、お引き受けしましょう。その代わりと行っては何ですが、私からもお願いがあります」
「言うてみい」
「それでは。私が資料を見つけたら、比右子の衆合地獄行きを取りやめにしてほしゅうございます。元々、比右子と私の仲は私が躊躇う彼女をねじ伏せて結んだもの。彼女が誘惑したわけではありませぬ」
そう言って頭を垂れると、頭上で泰山王が笑ったのが分かる。
「ほう。子殺しの罪は許すと」
「仮に子を殺めてしまったというのなら、その引き金を引いたのは私であります。彼女を孕ませたのも、追い詰め殺めてしまった一因も私にある。和子にしても、彼女が母親なら私は父親です。どうか、ご慈悲を」
「ふむ・・・」
何かを考え込むようにして、彼は篁を見ていた。やがて、何かを思いついたのか口から息を吐く。
「よかろう。では其方が草子を見つけた暁に、その処遇を決めよう。ただ篁、その時は其方にも相応の対価を払うてもらうぞ。よいな」
「承知致しました」
ひとまずはその言葉に安堵する。そのまま彼に一礼すると篁は比右子に手を引かれ、消えた草子の置いてあったという机の周りの見聞を始めた。
それから一刻ほど、篁は比右子を連れて閻魔・変成・泰山各王の宮殿やその周辺を探し回った。しかし、草子どころか蜘蛛の子一つ出てきやしない。だとしたら、可能性は一つだろう。
「比右子、一つ問うてもよいか」
「はい。何でしょう」
比右子はこちらの言いたいことなど察しているのか、微笑む。
「その草子は何処にある?」
「貴方のお心のままに。篁、私はこの度 袂を分かつ覚悟で貴方の元に参りました」
静かにそう切り出した比右子の表情は穏やかで、心なしか寂しげに映る。
「そうか」
そう言いながら、自らの袂(袖の下)を探ると、草子らしき固い物に手が当たった。
「私は、地獄に落ちてもよいと思うていたのです。ですが、貴方は御身を捧げてまで、私の情状酌量を申し出た。もう、充分でございます」
「充分とは」
「これ以上、私の我儘に貴方を付き合わせるのは心苦しく存じます。草子は、私が泰山王に返しておきます。貴方は現世にお帰りなさいませ」
そう言うと、比右子は呆然としている篁の手から草子をい、手を引く。連れて行かれたのは、地獄にやって来た際にくぐった鳥居の前だ。
「この鳥居は、六道珍皇寺の井戸へと繋がっています。ですから…」
そこまで言いかけて、比右子も篁のただならぬ様子に気付いたのか、口を噤む。
「言いたいことは、それで全てか?比右子よ」
「篁!私は…」
ようやく比右子も己の失言に気づいたらしい。が、時は既に遅い。
「言うた筈だ。そんな薄っぺらな感情で、そなたに手は出さぬと」
元々篁と比右子は教師と教え子であり、腹違いの兄妹だ。その全ての柵を越えて恋情を抱いたのは自分で、比右子も躊躇いがちにだが、それに応えるようになった。初めて想いが通じた夜に、彼女にそう告げた筈だ。
『落とし文とかけて篁と解く。その心は』
「『どちらも命懸け」』
そう答え、互いに笑い合った記憶が蘇る。
「私を見縊るな」
そう告げると同時に彼女の身体を引き寄せ、腕に抱く。胸の中で喚く彼女の言葉を無視して、篁は泰山王の元へと向かった。
「小野篁、参りました」
「おお。待ちくたびれたぞ」
人だかりをかき分けて進むと、彼は長身の篁にも臆せずそう笑う。
「して篁、草子は見つかったのか?」
「は。ここに」
懐から出した草子を机に置くと、泰山王はそれに手を伸ばし、その場で捲ってみせた。
「うむ。確かに」
草子を閉じると泰山王は頬杖をつく。
「して、どこにあった?」
「・・・閻魔殿近くの、鳥の巣の上にございました。そんなことより約束を果たしていただきたい」
「ふぅむ」
篁の訴えを聞いているのかいないのか、目の前の小さき王は何かを考え込むようにして扇子を口元で遊ばせていた。
「まぁよい」
彷徨っていた思考を遮るように、彼は扇子を閉じる。
「それでは小野比右子よ。其方の行き先を地獄界から畜生界へと変更しよう。畜生界での寿命は8年。お主は女としての生を受けることとなる」
「ご慈悲に感謝いたします」
その言葉と共に、比右子は深く頭を下げる。
「そして篁。其方には地獄界への士官を命ずる」
「は」
条件反射でそう頭を垂れるも、頭が着いていかない。つまり、どういうことだというのか。混乱している篁の脳内を見透かしたように、仮面の下から覗く泰山王の口元が弧を描いてゆく。
「なに、妾とて鬼ではない。この地で屈強な鬼と互角に渡れるよう、五年の猶予を与えよう。その間に、肉体と精神を存分に鍛えておくように」
「御意」
それ以外の選択肢など与えられないまま、篁は頷くしかなかった。
「それでは比右子よ。最後にお主が次の裁判に向かう道を用意しよう。好きな鳥居をくぐるがよい」
返事をする代わりに、比右子は一礼をする。そして次の瞬間、鳥居ではなく篁の前にと歩を進めた。
「篁、貴方に会えて私は幸せでした。今後は会える回数も減るやも知れませぬが、どうぞ前を向いて生きて行ってくださいませ」
この期に及んで、比右子は篁を突き放そうとする。それが彼女の想いの強さ故だとしても、到底納得できる者ではなかった。
「忘れはせぬ」
憮然とした表情で精一杯の強がりを口にすれば、鈴を転がすようにして比右子は笑う。
「充分ですわ。それでは泰山王、本当にお世話になりました。篁のことを、どうぞよろしくお願いします」
「相分かった」
「おい」
我は兄だぞ、と二人でいたいつかも口にした戯れの言葉を今度は飲み込む。そんな篁に、篁が一番好きだった笑みを返すと、比右子は鳥居の向こうへと消えていった。
「比右子・・・」
比右子がいなくなった後も、篁は比右子が消えていった鳥居の前からしばらく動けずにいた。呆然としていると、いつの間にか横に泰山王が並んでいた。
「お主、本当に惚れておったのだな」
「何か、文句がおありか」
「文句はないが、実に面白きものだと思ってな。現世にも女人は星の数ほどおるというのに、わざわざ妹を選ぶか」
「・・・人の心は、意のままになるものではありませぬ」
淡々とそれだけを返す泰山王にいぶかしげな視線を送ると、彼は仮面の向こうで笑みをこぼす。
「そんなものか。さて、篁。次は其方の番だ。お主が妹と共にくぐった鳥居は分かるな」
「ええ」
この若き王には不信感しか浮かばない。が、篁はあえて何も考えずに来るときにくぐった鳥居を見た。
「その鳥居をくぐれば、お主は現世に帰ることができる。が、その前に妾がお主を呼ぶときの合図を決めようか」
「?」
「『猫の子子猫、獅子の子子獅子』。この言葉を現世の妾が其方に向けたら、井戸を通ってこちらに来てもらおう」
正直、引っかかることばかりだ。しかし、それに異を唱えようとすればするほど、不思議と言葉は音にはならずに沈んでゆく。
「貴方は・・・」
「では篁。次会えたときの働きを期待しておるぞ」
その言葉の直後、篁は誰かに背中を押され鳥居の中に入る。鳥居の中は、真っ黒な空間が広がっており、落ちることしかできない。「あ」と声を挙げる前に、篁の意識は闇に飲まれた。
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翌日、東宮の元に馳せ参じると、いつもよりも慌ただしい内裏の様子に違和感を覚えた。
「何だ。どうにも浮かない顔をしておるな」
しかし、東宮に特段変わった様子はなく、相も変わらず人を食ったような笑みを浮かべている。見慣れている姿のはずなのに、一瞬その口調のせいか地獄で会った泰山王の姿が重なった。
「いえ。それより、昨日は有り難うございました。この篁、感謝してもしつくせませぬ」
東宮に言葉で向かった地獄から還ったあの後、気がつくと篁は六道天皇寺の境内にいた。比右子との別れを悔やんでいないと言えば嘘になる。が、心は幾分か凪いでいた。そんな篁の心中を知ってか知らずが、東宮は口元に笑みをこぼす。
「まぁ、昨日より随分と顔色はよくなったようではあるがな。さて、篁今日は、其方に伝えておかねばならぬ事がある」
「は」
この期に及んで何だというのか。追いつかぬ頭でそれだけ返すと、複雑な笑みを浮かべた東宮と目が合った。
「昨日、妾は今上帝から呼び出しを受けた。そのことは知っておるな」
「ええ」
「六月後、今上帝は退位し、妾に帝位を譲るらしい。というのも、現在伏せてはおるが今上帝の体は病魔に蝕まれているというのだ」
「・・・」
突然の重大報告に、篁の心中も穏やかではいられない。それは、篁の父の立場も関係してくる話だ。東宮の弟賀美野のこともあり、現在学生の篁も無関係ではいられぬだろう。そんな篁の心中などとうにお見通しなのか、東宮は肩を竦める。
「時に篁、妾は天皇に向いていると思うか?」
「は・・・」
答えに窮する問いを向けられて、言葉に詰まる。否とは言えぬ篁の立場など察しているのか、東宮は笑みをこぼした。
「統治者に必要なのは、先を見通す目。それから有無を言わさず必要な政略を貫き通す意志の強さだ。そのためには、切り捨てなければならぬ思い・声など腐るほどある。妾の耳は、切り捨てられた者の声を聞きすぎる。よって天皇には向かぬ。僧侶にでもなった方がよい」
東宮の弱音のような思いを前に、篁は返す言葉の持ち合わせがない。
「まぁ、そのようなことを事を聞かされても、困るのは其方か。悪かったな。聞かなかったことにせい。下がってよいぞ、篁」
「御意」
もう、東宮の元にこうした用事で呼ばれることはないだろう。そんな事を薄々と感じながらも篁は退室の礼を取る。顔を挙げると、東宮は楽しそうに篁の顔を見た。
「?」
「そうそう篁、我が弟賀美野はその点では非常に優秀な統治者の素質を持っている。若干、取り巻く全てを自信の玩具と捉えている節はあるがの」
東宮の口から弟の評価を聞くのはこれが初めてだ。篁自身、東宮の弟に会ったことはないが人を見る事に関しては長けている東宮が言うのだから、間違いはないだろう。
「其方が仕官する頃には、賀美野の世になっているだろう。其方のように情に厚い者が補佐として支えてくれればよいのだがのう」
「至極光栄にございます」
「まぁ、戯れ言だ。聞き流せ」
「御意」
もう一度礼をして、篁は今度こそ東宮の間を後にする。一歩外に出ると、雨上がりの美しい宮廷内の風景が目に飛び込んできた。太陽の光を反射してきらきらしいその風景に篁は目を細める。
『どうぞ前を向いて生きて行ってくださいませ』
誰かの涙で濡らしたようなその光景は美しいはずなのに、不意に思い出した比右子の言葉のせいなのか、知らず目尻には涙が浮かんだ。
終