懲戒
○ 登場人物一覧
二階堂 剛(52):内部統制部の部長。
北村 志麻子(47):内部統制部部員。
大沢 秀夫(44):内部統制部部員。
五十嵐 京介(27):内部統制部部員。
赤川 みゆき(26):内部統制部部員。
先週参加したボランティアは、子どもたちと一緒にキャンプへ行くというものだった。子どもたちは、自然の中でテントを張ったり、飯盒炊爨にチャレンジしたりと、普段都会に住んでいては味わえない体験をしていた。中には集団行動を嫌い、一生懸命仕事をこなしている子どものすぐ近くで鬼ごっこを始める子や、引率のボランティアが火を熾して鍋をかけようとするときに虫を投げつけて驚かすような子もいた。
単純に自分が今やりたいことという欲求に従って行動しているということもあるのだろうが、それが悪いことであると認識しているにもかかわらず、いや、そう認識しているからこそそういった行動に出る子もいる。どこまで悪いことをすれば自分が受け入れてもらえるのか、自分はどれほど愛情を注いでもらえるのかを確認しているのである。これは「試し行動」などと呼ばれたりするような、子どもにはよくある行動なのだそうだ。
ぼくはそんな子どもたちを見ながら、どこか後ろめたい気持ちを抱かずにはいられなかった。ぼく自身、そういった試し行動をやった記憶はないが、むしろないからこそ、こうやって無邪気に自分への愛を確認している子どもたちがうらやましく思えたのかもしれない。
○
6月の雨はいつも物憂げで、どこか寂しそうにオフィスの窓ガラスに自らの体を打ちつけている。そんなに主張せずとも、みんな雨だってちゃんとわかっているのに、それでも雨は気づいてほしそうに窓を叩いている。
「五十嵐、先週お願いした調査票の回収はどれくらい進んでる?」
「まだ1件も来ていません」
「さすがにそうだよなあ? 先週の月曜にいきなり調査票を渡されて、すぐ社内展開しろ、回収期限は来週の月曜だ、ってなあ。1週間じゃ集まるわけないだろっての。俺たち内部統制部は全員回答済みだけどなあ」
部長の二階堂さんはそういって左の口角だけを上げて、声もなく「へへへ」と笑いをこぼした。二階堂さんからしたら、こういった各部署へ配布するような調査票は最低でも2週間は必要で、普通なら1か月くらいは待って然るべきなのだそうだ。そんな中自分たちは1週間ですべて回答を揃えたぞという点を誇りに思っているかのような口ぶりだった。
「あ、今総務部からも全部届きましたね! 急なお願いだったのにありがたい!」
向かいの席の赤川さんが嬉々として報告してくる。途端、二階堂さんの口が逆側へ歪んでいった。赤川さんは何も気づいていないようで、ぼくに他の部署からも順次来そうですねと笑顔を振りまいている。ぼくの隣に座る大沢さんが赤川さんをちらちらを見ている。
「そろそろお昼ね。みんなごはん食べないと体壊しちゃうわよ」
大沢さんの向かいに座る北村さんが12時を告げ、内部統制部総勢5名はそれぞれに昼食へと向かう。これがいつもの内部統制部の日常だった。赤川さんは自作の弁当を広げ、おいしそうに食べている。
ぼくはそんな赤川さんを眺めながら、社食へと向かうのがお決まりだ。二階堂さんは部長席に戻り仕事を再開し、北村さんはコンビニへ食事を買いに向かう。大沢さんはパソコンと赤川さんを交互に見つめている。
○
社食で1人寂しく昼食を取った後自席に戻ると、1通のメールが来ていることに気づいた。件名は、「内部通報通知」とある。
内部通報制度とは、企業の中で不祥事や不適切な業務態度等を摘発し、社内環境をよりよくしていくための制度である。通報を行うことで、社内不正をより早く発見し、問題が大きくなる前に会社として対処を行う。もちろん、通報者自身はいわば「チクった」ということになってしまうため、通報することにためらいを覚える社員も多い。実際、通報したことが周囲に知れてしまったことで肩身の狭い思いをして退職してしまうといった例も後を絶たない。そこでぼくの会社では、内部通報を原則匿名とし、通報者が特定できないようにすることで、通報へのハードルを下げるようにしている。
内部統制部が新設されてから1年余り、初めての内部通報がされて対応を行ってからちょうど1年が経過していた。去年の6月は初めての通報、しかも上司が部下の悪口を言っているというようなパワハラ案件だったということもあり、出世欲に燃える二階堂さんが張り切って調査を行っていた。実際に告発された社員は部下に対して、のろまだとかつまらない奴だとか酷い暴言を吐いており、その事実が確認できたことで減給処分となった。この件を摘発できたことで、社内に内部通報制度の有用性が認知されることとなった。
今回の内部通報もその連なりの1つになるものと思えた。
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件名:
内部通報通知
本文:
お疲れ様です。
私は内部統制部に所属する社員です。私は、現在小さい子どもを誘拐し、自宅に監禁しています。もうかれこれ半年ほどになります。にもかかわらず、みなさんは一切気づいてくれません。
私ももう我慢の限界です。私を見つけてください。
もちろん、私自身はこんなことはやっていないと否認するでしょう。そんな状況下でも、正しく私を見つけてほしいのです。
警察への通報は控えてください。その事実がわかり次第、監禁している子を殺害します。
なお、必要に応じて他部署へ応援を依頼することは構いませんが、調査チームは必ず内部統制部で組織してください。これも、守られなければ当然子どもを殺害します。
では、よろしくお願いいたします。
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メールを読み終えたぼくは、一気に心臓がドクドクと高鳴りだすのを感じていた。このメールは部内の共有アドレスに届くようになっている。当然、他の部員にも見つかっているだろう。周囲はすでにざわついている。
「ちょっと、これなんですか? え? どういうこと?」
まず赤川さんが口火を切った。そこに呼応するように北村さんがこの部内にこれを送った人がいるっていうの、と騒ぎ立てている。大沢さんはじっと黙って赤川さんの方を見つめている。
ずっと自席に座っていた二階堂さんも、漫画みたいに青筋を立てている。
「緊急会議だ。みんなA会議室に集合しろ」
○
「こんなことを訊いても仕方ないのだろうが、一応訊くぞ。こんなふざけた通報をした奴は、誰だ」
二階堂さんは「ふざけた」の部分に特別強いアクセントを置きながら訊ねた。全員が下を向いて静まり返っている。無論ぼくもそうである。
「なんなんだ一体。こんなこと、表沙汰にでもなれば会社全体が傾きかねんぞ」
「部長はこれが本当のことだって思っているってことですか?」
北村さんが口をはさむ。
「わからん。いたずらだと思いたい」
二階堂さんはここで言葉を切った。
「そうですよ。いたずらに決まっています。こんなこと気にせず、もとの仕事に取り掛かるべきです」
そうまくしたてる北村さんの言葉に、一同は沈黙した。大沢さんは赤川さんを見ている。
「そう、ですよね。この5人の中に、そんなことをする人がいるなんて……」
赤川さんはすでに少し目を赤く染めていた。とても信じられない。信じたくもない。言葉にはしていないが、彼女の顔がそう物語っていた。いつもなら犯人は誰だ、と嬉々として不正調査に乗り出す二階堂さんも、自部署の不正調査となるとどうも気が引けるらしく、うむむ、とうなって黙っていた。ぼく自身、こうやって周囲を冷静に観察しているようで、先ほどからずっと目が泳ぎ続けている。自覚できただけでもマシかもしれないが。
そのまましばらく沈黙が続き、徐々に気まずい雰囲気が漂ってきた。
これ以上は話しても仕方がない。そう二階堂さんが呟くと、会議は一旦終了にすると言って立ち上がったいつもなら調査チームのメンバーを決定し、初期調査の内容と期限を決めてから会議を終えるのに、今日はそういう流れにならない。誰もがこの事実から一旦目を逸らそうとしているようだった。
「でも、そ、それで本当だったら、子どもはどうなっちゃうんでしょう」
つい口走ってしまった。この重苦しい雰囲気の中切り出すのははばかられたのだが、確かに気になっていたことではある。
「そうだな……本当だったら、我々が動かなければ子どもは殺害すると言っているな」
「そうですよね。なら、動かなきゃいけないんじゃないでしょうか。この情報の真偽はわからないわけですが、わからない以上、犯人の思惑通りに動くしか、私たちにはできないのではないでしょうか」
ぼくのこの言葉で会議の雰囲気は一変してしまった。赤川さんも北村さんもたしかにその通りだといい、大沢さんも静かにうなずいている。
「だがな五十嵐、我々で調査チームを組織しろと言われている以上、犯人を調査チームに任命してしまう恐れがある。ここをどうにかしないと調査するにもできないぞ」
「それならこうしましょう。二階堂さんと私、それぞれが独立して調査にあたるんです。こうすれば、どちらかが犯人だとしてもどちらかは確実に違うわけですから、問題ないでしょう」
「そうか、お前、珍しくいいこと言うな」
この部の歴史上初めて、二階堂さん以外の者が会議を主導した瞬間だった。
○
「五十嵐くん、大丈夫? 結構な大言壮語だったんじゃない?」
赤川さんがニコニコしながら話しかけてきた。確かに、不正調査チームが1人になることも、ましてやぼくが1人で調査にあたることなど、前代未聞だった。
「い、勢いで……」
「ふふふ。絶対、見つけてね。私も気持ちよく仕事したいし。それに、二階堂さんのワンマンを揺るがすチャンスだよ」
二階堂さんは自分の出世欲のために、部下を荒々しく使う癖がある。それこそ内部通報してやりたいほどの乱暴さなのだが、ここが内部通報の穴である。通報を管理している人間が通報され、処分されるリスクは限りなく低い。
「で、これからどうするの?」
赤川さんがずっと考え事しならが俯くぼくを下からのぞき込んでくる。お願いだからそんなことしないでほしい。こういう風に話をしているとき、必ず大沢さんがぼくを睨みつけていることに気づいていないのだろうか。
「まずは関係者の事情聴取、と行きたいところだけど……。赤川さん、何か心当たりはある?」
「そういわれても何にもないよ。私だって今日の通報で初めてこんなことがあるって知ったんだもん」
「そうだよね……。いろんなことがわからないんだ。とりあえず考え方を整理するところから手伝ってもらってもいいかな?」
「もちろん!」
犯人の特定は、現場検証による証拠の収集、関係者への事情聴取を基礎とする。そうして犯行の事実を明らかにしたり、証言からは犯人の動機が伺えることもある。しかし、今回は現場がどこにあるのかも不明だ。子どもが監禁されている場所も、子どもが誘拐された場所も全く見当がつかない。さらには警察への通報が禁じられているため、各部員の住所付近に捜索願が出されている子どもがいるかどうかを確かめることさえできない。
では動機から考えてみるか。唯一の手掛かりはあの通報メールだ。文面を改めてよく読んでみると、犯人の動機は比較的明瞭なように見える。
「私を見つけて」
そう叫んでいる。しかし、これがなぜなのか、部員の誰がこんなことを欲しているのか、それになぜ内部統制部の部員に見つけてほしいと思っているのか。ここについては何もわからない。
「私を見つけてほしい、か。そういえば五十嵐くんは、誰かに見つけてほしい、自分を見てほしい、って思ったことはある?」
「どうだろう。そりゃああるけど……誰でもあるものじゃないのかな」
「そうだよねえ。私ももちろんあるにはあるもん。でもさ、どういうときにそう思うかは人によって違うじゃない?」
「確かに。ぼくの場合はそうだな、仕事を頑張っているのに誰も褒めてくれない、とか?」
「なにそれ。かわいいね。私は気づいているつもりだけどなあ。五十嵐くんが頑張ってるとこ」
「本当に? ありがとう。でも二階堂さんとかは全然。評価点いっつも変わらないもん」
「ふーん……」
不意に赤川さんの表情が曇ったように見えた。
「いや、え、ぼくじゃないよ! 断じて!」
「ふふ。大丈夫。なんとなくだけど疑ってないから」
「……赤川さんはどういうときに?」
「私はねえ、好きな人が全然気づいてくれないときかなあ」
「赤川さんも片思いするの?」
「なに? バカにしてる? もう、私、何度も片思いしては振られてきたんだからね」
またしても赤川さんの表情が曇ってしまった。
赤川さんはぼくと同期入社で、もともとは2人とも総務部に配属されていたのだが、去年の組織改編で揃って内部統制部に異動になっていた。ぼくが知る限りでは彼氏や結婚の話は聞いたことがない。1人暮らしで、猫を飼っている。よくぼくに写真を見せてくれる。
「ごめんごめん、そうだよね。失礼なこと言っちゃった」
確かに、他の3人がどんな時に「私を見つけて」と思うかは1つの手がかりになるかもしれなかった。当然ながら犯人は簡単に嘘をつくだろうから、役に立つかはわからない。それに、ぼくと赤川さん以外の3人がそもそもこういう話題に素直に答えるようなイメージが全然湧かない。それでも、今はとにかく情報が必要だった。
「いやねえ。そんなの、私のことなんかいっつもだーれも見てくれないんだから。もう慣れちゃったわよ。まぁでもそうねえ。やっぱり、子どもが駆け寄って来なくなっちゃったのは寂しいわねえ」
北村さんは2人の子を持つ母で、男兄弟の弟ももう高校を卒業するころだという。兄は大学進学を機に地方へ移住したため、現在は夫と3人暮らしだ。家に2人いるなら監禁は難しいだろうか。それとも、3人で共犯の可能性もあるのだろうか。
「べ、別に私は、誰かにちゃんと見てほしいとかあんまり思ってないからね。私はいつも1人で生きてきたし、仕事だって別に出世したいわけじゃない。ただ静かに暮らせればそれでいいんだ」
大沢さんは昔結婚していたらしい。しかしそれもほんの半年くらいで妻に逃げられてしまい、それ以来ずっと1人で暮らしている。仕事もあまりできる方ではなく、二階堂さんからはいつも冷たく扱われている。二階堂さんは仕事のできる人をとにかく重用する癖があるため、大沢さんがどんな仕事を受け持っているのか、部内の誰もわからない。ただ、いつも赤川さんのことを見ている。それがどこか薄気味悪く感じると北村さんがよく漏らしているが、当の赤川さんはあまり気にしていないようである。
「俺か? 俺は常に見せつけて来たからな。見て欲しいならそいつに堂々と見せつけてやればいいだろう。俺はこんな奴だ、ってな。だからそんなことでくよくよしたことはない」
いかにも二階堂さんらしい答えだ。見て欲しいなら見せつければいい。有名なホトトギスの川柳に乗せるなら、「鳴かぬなら 鳴くまで殴れ ホトトギス」とでも言い出しかねない。こんな性格のため、自分の目的達成のためには手段を選ばないところがある。過去の不正調査では、社内不倫の調査のために該当する社員の動向を尾行してこいと言われたことがある。こんなの、探偵の仕事で一社員がすることじゃないのでは、と反論したところで何ら効果はなかった。結局その尾行はすぐにバレてしまい、ぼくの社内でのイメージが地の底にまで堕ちたのだが、結局二階堂さんが自分で持ってきた写真が決定打となって、社内不倫が明らかになったのだった。
あまりにも決定的な写真だったため、この写真を見た者の間では、二階堂さんは元部下の弱みを握りながら、その元部下にハニートラップを仕掛けさせたのではないかという噂が広がるほどだった。
「一応全員に訊いてみたものの、やっぱりわかんないな。誰の話も、誘拐をするようには聞こえなかったし、そもそも内部統制部に拘る理由さえわからない」
「うーん、どうやって確認したらいいかわからないし、人を疑うようでなんか嫌なんだけど、可能性ってことで全員を疑ってみる?」
赤川さんはそういうと、3人それぞれを疑う方向で話を始めた。
北村さんは、やはり子どもが独り立ちしたことに対する寂しさは、子どもを手元に置きたくなる理由にはなるという。さらに、北村さんは過去、内部統制部の中では最も軽く扱われているように感じると不満を漏らしていたことがあったそうだ。ぼくの目線からも、二階堂さんが赤川さんを重用し、ぼくも赤川さんと同期で、大沢さんが赤川さんばかりちらちら見ているという点から、女性2人のうち赤川さんばかりが目立っているように見えるのは確かだ。であれば、悪あがきのような形でこうした脅迫を部内に仕掛けたくなる可能性はあるかもしれない。
大沢さんは、昔妻に逃げられている過去から、大きな喪失感を抱えながら暮らしていると考えられる。大沢さんは、本当は自分の子どもが欲しかった、というようなことを語っていたことがあり、再婚に踏み切れない恐怖心と子どもへの欲求とが歪んだ形で合体することも考えられるだろう。それに、彼は二階堂さんに冷遇されていることに、心のうちで強い不満を抱いていてもおかしくない。
二階堂さんはこの中では最も考えにくいが、強いて言うなら、自身の出世の道が徐々に閉ざされていることに気づいてしまっている可能性がある。考えてみれば、内部統制部という部自体、一般的な企業では出世コースに入っているような花形部署ではないのだ。新設部署の舵取り、という尤もらしい理由をつけてコースから脱落させられているのではないかと囁く社員も少なくない。これが二階堂さんのプライドをズタズタに傷つけている可能性がある。ただし、それで子どもを誘拐する理由にはなりそうにない点が弱い。
赤川さんはここまで一気にしゃべると、「そうやって疑っている私も十分怪しいよね」と困ったような笑顔を向けた。
確かに、こうして考えて可能性をあげつらうだけなら、赤川さんだって怪しい点はある。好きな人に振り向いてほしい、という感情は、エスカレートしてしまえば何をする可能性も出てしまう。疑い始めたら、どうとでも言えてしまうことに辟易としつつ、ぼくはこの後どう調査を進めれば良いか途方に暮れていた。
○
通報メールが来てからしばらく経過し、部内でこの話題が出ることもめっきり減っていた。当初は二階堂さんが「全員の家宅捜索をするぞ」と息巻いていたが、実行されることはなかった。北村さんがものすごい剣幕で反対したのだ。
「あらゆる観点からダメに決まっています。家の捜索なんて、警察でさえ逮捕状が必要なんですよ。そんな公的な許可もなしにやったら、明らかにプライバシーの侵害になります。会社としてやったなんてことになったら大問題ですよ。それに、私や赤川さんは女性です。女性の家にそんなズカズカと踏み込もうなんて、セクハラで訴えられたって勝てませんよ」
普段は温厚な北村さんだったが、あまりの勢いに二階堂さんも「お、おう」と口をもごもごさせながら退却していった。
そんなことがあってから、部内でこの会話をすることは徐々にタブー視されていった。お互いを疑うような行為になってしまうわけだし、敢えて話題にしたくないのも当然かもしれない。
ぼくの調査も暗礁に乗り上げていたころ、二階堂さんから個人あてにメールが来た。すぐそこに座っているというのに。
開いてみると、そこには「14時。B会議室に来てくれ」と要件のみが記載されていた。
「急に来てもらって悪いな」
ぼくが会議室に来るなり、二階堂さんはそう言葉をかけた。急な会議などこれまでにも何度もあったことなのに、謝ってくるなんて初めてのことだった。心が少しざわつくのを感じる。
「例の通報の件、そろそろお互いの調査状況を確認しないか。それでわかることもあるだろう」
「そうですね」
「まずはお前の状況から聞かせてくれるか」
ぼくは返事をしながら現状を話し始めた。各自の家を捜査して証拠を押さえたりできない以上、「やりそうな人」という観点で推理せざるを得なかったこと。動機的には大沢さんが怪しそうに見えてしまったものの、全く確信がないために保留としていること。そして、そこから先、どうやって捜査を進めれば良いかわからないこと。考えてみた動機に関する推理についても、一通り報告した。
「そうだよな。自分は違うものとして考えることも理解できるし、一度客観的に整理するために俺を入れていることもわかる」
じゃあ今度は俺が、と言って二階堂さんは声のトーンを下げた。
「俺はな、犯人はお前だと思っている」
胸のあたりから頭にかけて体がサーっと冷え込んでいくのが良く分かった。ぼくが犯人……?
「もうお前以外考えられない。あのな、五十嵐。動機から話すと、お前には動機がしっかりある。お前、子どもは好きだよな?」
「はい」
「赤川から聞いたんだが、お前よく子どもが欲しいって言ってたそうじゃないか」
「はい……。そういう話をしたこともありました」
「だが、結婚願望はないから、収入が増えたら養子が欲しいと。ただこれはあまり周囲の賛同を得られなかったようだな」
「……はい」
「そういう自分のことをもっと認めてほしくてあんな通報をしてみたんじゃないのか? しかもお前、本当は別に誘拐なんてしてないだろ」
「…………はい?」
「ただの脅迫だけだったってことなんだろ」
今、この人は何を言っているのだろう。てんでわからず、引いた血の気もむしろ回復してきたように感じる。
「いやいや、そんなことしていません。それに、そうだったとして会社を脅迫して探させる意味もわかりません」
「まあな。だがまだ俺の推理は終わってない。お前、この会社での収入アップを望めなくなったんだよな。いや、俺も同じ気持ちだからわかる。こんな部署、お荷物だろ。どこぞのちゃんとした会社だったら話は違うんだろうが、うちみたいな古臭いボロ会社で、形ばかりの総合職出身が経営陣を締めている中、内部統制部がやるような仕事を経験してきた人なんかほぼいない。総務部長から総務系の役員になる人はいるが、総務から分裂してできたようなこの部から役員が出ることはまずないだろう。そんなんで先なんか望めるわけがない。しかもだ。それでも部長に収まっている俺はまだ多少の収入があるが、その俺がいる限り、お前が昇進することもない。管理職手当がつかないんじゃ大した年収にならないしな」
一気にまくしたてた後、二階堂さんは改めて話し始めた。
「じゃあと言ってお前は転職もできない。お前、暴行の前科があるらしいじゃねえか。よくこの会社に入るときにバレなかったもんだ。この会社の人事の身辺調査が緩くて助かったなあ。だからお前は転職活動の中で自分の過去がバレるリスクを負えない」
「そんで極めつけは、俺に対する恨みだ。だろ?」
誰にも言ったことのないはずの過去の、少しずつ話が盛られているのを聞きながら、全身から力が抜けていくのを感じていた。この人は、もうぼくを吊るし上げることしか考えていない。
「まあ俺が部下から好かれてないことくらい前から気づいてたさ。特にお前。お前はいっつも褒めてほしそうな顔をするからな。それでも俺が褒めないもんだから不満が溜まってただろ。これについてはさっき自分でも言ってたな。『誰かに見つけてほしいと思うのは、仕事を頑張っているのに誰も褒めてくれないときだ』ってな」
もちろん二階堂さんのことは嫌いだ。こんなことを堂々と言ってくるような奴だし、これに似たようなことはこれまでにもたくさんあった。だが、それだからって今回ぼくが脅迫に及んだ根拠になるだろうか。
「そうやって考えると、お前の行動に不審な点はたくさんあった。この件、みんなが嘘だと思って流そうとしていたところを、やらなきゃいけないと言い出したのはお前だったな。それに、そうやって自分も調査担当になったら、ほとんど捜査を進めない」
「さっきから、二階堂さんが言っていることは後付けとこじつけばっかりです。証拠はあるんですか」
つい真犯人みたいなことを口走ってしまったことに自分で呆れてしまった。しかしぼくがそんなことをしたという証拠があるわけがなかった。なにせやっていないのだから。
「ああ、あるぞ」
想定していなかった返答にまたも血の気が引いていく。今度はどんなでたらめが出てくるのだろう。むしろそれをしっかり否定して見せれば、ぼくがやっていないことをもう1度考え直す突破口を作れるかもしれない。
「情シスに訊いて、内部通報システムの通信ログを取ってもらったんだ。さすがに情シスなら、システム内で動いているデータは全部把握しているだろうからな。そうしたらな。やっぱりお前だったんだ。正確にはお前のパソコンだったんだよ。あの通報が入力され、送信された媒体が」
「うそ、でしょ……。ぼくのパソコンを誰かが勝手に操作したってことじゃないですか!」
「お前、この会社でそういうことできると思うか?」
ぼくの会社のパソコンは、すべて会社から社員に支給されたもので、支給時に貸与された社員の指紋を登録することになっている。そして、パソコンは指紋認証でしかロックを解除できないことになっているのだった。つまり、ぼくのパソコンのロックを解除できるのは、ぼくの指しかない。
「ですが! ぼくはそんなこと……」
「正直俺も、この証拠が出てくるまでは、他のどんな理由ができても疑心暗鬼だったよ。でもこれだけは疑えない。あの通報をやったのはお前だ」
○
この件は社内でも大きな波紋を呼ぶこととなった。記者会見では社長が自ら事のあらましを説明した。ニュースでも大きく取り上げられ、ぼくは「上司への恨みから会社に脅迫メールを送信した異常者」として名前や顔写真を含むあらゆる情報を晒された。
現在ぼくは、脅迫罪の疑いで逮捕され、起訴に向けた準備が進められている。
○
五十嵐を懲戒解雇としてから数日後。あの日以来、赤川が無断で欠勤していた。
「赤川さん、今日も来ていませんね」
北村が寂しそうに独り言ちている。部内から、それも若いのが2人も一気にいなくなったのだから、無理もない。あれ以来部員の仕事の士気は極めて低く、結局俺が進めてしまっていることも少なくない。
どうしたものか、と1人今後の対策を考えようとしたところで、1通のメールが届いた。
「内部通報通知」
今度は記名式だった。発信者の名前を見て思わず「えっ」と言葉が漏れてしまった。恐る恐る本文を開封する。
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件名:
内部通報通知
本文:
お疲れ様です。
内部統制部の赤川みゆきです。
みなさんには失望しました。
なぜ、彼が罰されなければならなかったのでしょうか。
なぜ、彼を懲戒解雇とする際、部員である私たちに説明がなかったのでしょうか。
彼が犯人ではなかった場合、犯人がどんな行動をするか、想像しなかったのでしょうか。
みなさんが本当に私に興味がないんだと、今回の件ではっきりわかってしまいました。それは彼も同じです。私は彼に振り向いてほしかったのに。
彼が大好きな子どもを攫ってくれば、彼も本気になって探し出してくれるに違いない。そう踏んだのに。
彼が私のもとにたどり着いて、何をしているのかと叱ってくれる。そんな未来を思い描いていたのに。
でも、彼は諦めたわけではなかったはずです。私があからさまに補助線を引いて、私に気づくように誘導していましたから、どんなに鈍感な彼でも、そのうち気づけたはずです。
それなのに、二階堂さんはその可能性を奪ってしまった。
本当に残念です。
なぜそんな簡単に決めつけてしまったのでしょうか。彼のパソコンで内部通報をしたのは、一重にその事実が明らかになれば、のんびり屋さんの彼がさらに焦って、身を入れて調査に当たってくれると踏んだからです。彼がやったわけではないのですから、当たり前ですよね。
なのに、それが決定打ということになってしまった。
警察はすぐに気が付くでしょう。彼が犯人ではないことに。
そして、ここで今、こんなデータを遺した社員が1人死にます。もちろん、攫ってきた子も一緒です。約束しちゃいましたからね。警察に知れたら殺害する、と。
二階堂さん。
今後あなたの立場はどうなるでしょうか。
これまであなたが軽率に蹴り落してきた部下たちの中には、私の大切な友人もいました。彼女らはあなたにこき使われ、言いたいことも言えずに心を壊していきました。そして今回は彼を懲戒解雇としてしまいました。あなたがもっと慎重に事を進めていれば、もっと徹底的に調査を行って、疑わしい部分をすべて無くして、誰もが納得するまで徹底的に証拠を押さえたうえで、不正の摘発を行っていれば、私の大切な人たちはこんなに苦しむことはなかったはずです。
彼も、また彼女たちも、本来事件に関係のない人たちでした。
あなたはそういった人たちの人生を、自分の出世欲の踏み台にしたのです。
それでは。
あなたの輝かしい前途が激しく崩れ去っていくことを祈りつつ、この文章を締めようと思います。
赤川
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赤川が誰のことを言っているのか、俺はその名前も顔も思い出せなかった。




