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第6回 覆面お題小説  作者: 読メオフ会 小説班
15/26

どうして、こんな夢を見せたのでしょう。

 二人の間を隔てるのは、もう薄い夏の制服一枚だけだった。

時には歯を剥き出しにして、二人の間に割って入っていた忠犬は今やプリーツスカートの後ろに伏せて、身じろぎ一つしないでいる。

先程まで降っていた雨さえももう上がって、二人の間には何もなかった。

差し込む薄日に照らされて、うぶ毛が金色にピカピカと、今が旬の桃の様に輝いている。

リップクリームを塗った唇が、震えながら開く。

―――わたし。

絶対、何があっても。

あなたのことを見つけるから―――!

ぽろり、と雨の雫の様に零れた一筋の涙。

それは堪らない、愛の告白で。

そしてもしかしたら、永遠に叶わない初恋なのかもしれない。


 どうして、こんな夢を見たのだろう。


 『次はーーー駅、―――駅』

そんな車内アナウンスで目が覚めた。酷く懐かしい夢を見ていた気がする。久し振りに故郷へ帰ってきたからだろうか。

夢破れて帰ってきた自分を迎え入れてくれた街はしかし、警戒心で一杯だった。

車両に乗り合わせる人は少なく、俯いた表情は硬い。まるで、隣り合う誰かに殺されるのではないか、と考えているように。

噛み殺し切れなかった欠伸でマスクがずり下がる。慌てて鼻まで引き上げてみれば、サイケデリックな中吊り広告が目に飛び込んでくる。

感染するのが恐怖なのか。

恐怖が感染するのか。

聊か品のない字面をそれとなく追いかけていると、コン、と小さな咳払いが聞こえた。

一車両丸ごと、無言の緊張が走る。

その音の主は、ベンチシートの一番端に座る少女だった。

目を見開いて、オレンジピンク色のマスク越しに口元を押さえている。しかし、一度入ってしまったスイッチは、中々切れてくれない様子だ。

コン、コン、コホン

咳の音が車内に伝わる度に、言い知れない焦燥が充満する。

慌てて何度も頭を下げながら、少女はカバンの中に手を差し入れる。

そして、マスクを少し下げると、飴玉を一つ、舌で迎え入れた。

ふるん、と瑞々しく、濡れてやわらかに輝く、その、ピンクの、肉の、色。

少女は飴玉を一つ口内にするん、と納めるとまたマスクを鼻まで戻してしまった。


―――ぞくり、とした。

この正体不明の伝染病が流行してから、人の口元、ましては舌を見る事なんてなくなってしまった。どぎまぎしながら視線を逸らすが、見せつけられた粘膜の色はその無邪気さ故瞼の裏に妬きついて、酷く落ち着かない気分にさせられた。


 

 

 肌に纏わりつくように降る小雨の中、彼女は走っている。

丘とは名ばかりの山を切り開いてできた住宅地は登っていくにつれてどんどん急な斜面になり道も細く獣道の様になっていく。

その中を、彼女は自分を拒むように、今の告白を受け止めきれない、と言うように一心不乱に走っている。

頂上までやってきた。そこで彼女は抗えない別離に初めて直面したように、がっくりと膝をついた。

真っ赤に腫れ上がった目元をぐいっと拭い、彼女はこちらを振り返って




 それから何度となく、車両で少女と遭遇する事になった。

乗り合わせる時刻を考えると、見かけほど幼くはないのかもしれない。少女と呼べる年齢でも、ないのかもしれない。

けれど名前を知らない彼女は、少女と呼ぶ神聖性を持ち合わせ、触れてはいけない気持ちにさせられる。

お気に入りは地味なピエロみたいな青いワンピース。

膝の上に載せたトートバックにはじゃらじゃらと『推し』のキーホルダー。童話モチーフのゲームに出てくる緑の髪の男の子と犬と羊。

たまにしているおさげがたまらなく可愛い。

つぶさに観察してしまうのはもはや癖となっていて、これはもう恋かもしれない、とポケットの中でギュっと掌を握りしめる。

そんなある日の事だった。

週末を迎えた車内はしかし、いつものように閑散としていた。

少女もいつものようにベンチシートの一番端に座っていて、僕がドア脇の壁にもたれかかっているのもいつもの事。

車両の中吊り広告もいつものように扇動的だった。新しいネタに事欠いているのか、一時期のようなサイケデリックさは影を潜めたものの、代わりにねちっこさと無数の専門家を生み出している。

ただ一つ違ったのは、少女の前のつり革につかまっている背広姿のサラリーマンがいたことだ。

少し酔っているのか、疲れているのか。両手で吊革につかまって目を閉じているその人は『社会的距離』をまるで無視した距離感で、少女の前に立っていた。

そして更に、その膝が少女のピエロみたいなワンピースの膝を僅かに割っていた。

わざとなのか、気付いてないのか、あるいは酩酊した状態で半ば意識がないのか。

濃い青の生地が膝小僧の形にぺこん、ぺこん、と変形する。

おさげ頭の少女は俯いて、どうにか膝をよじっているがうまく避けられないようだ。

電車が右に左に揺れる度に膝同士が擦れ合い、青い生地が大きく撓んでいく。

少女がギュッと目をつむった瞬間、

考えるより先にすうっと体が動いていた。

「ああっと、すみません」

車両を今しがた移動してきたように、

そして車両の揺れに堪え切れなかったように、

軽く男の肩を両手で奥へと押しやった。

と、とんっと男がたたらを踏む。

接触がタブーとされるこのご時世。男は嫌そうに顔をしかめた。

すみません、ともう一度謝ってぺこり、とぺこり、と慇懃に頭を下げる。

そんなこちらを見る男の表情はいかにもばつが悪そうで。

これは、気が付いていた。わざとだ。

そう思った瞬間、軽い殺意が湧いてきた。

ポケットの奥のものがぐっと熱を持つ。

マスクの中で口を開きかけたが、くん、っと後ろから上着の裾を引っ張られた。

振り返ると少女は固い表情のまま首を横に振った。

薄い紙越しにも唇が強く噛み締められているのがわかる。

男がそそくさと逃げていくのを背中越しに感じつつ、しかし視線が少女からはがせない。

初めて正面から見た少女の瞳は、青と茶色が混じった不思議な色をしていた。

カラーコンタクトを入れているのだ、と遅れて気付く。

それが一層少女を浮世離れした存在に見せている。

ぎゅっと食いしばっていた表情が解け、小さく口元が動く。

「――――、――――」

けれど、その声はマスクと車輪の音に阻まれて聞こえない。

困惑しているとスマートフォンが顔の前に出された。


【ありがとうございました。どうしてよいのかわからなかったので、助かりました】


メモ画面に素早く打ち出されたメッセージ。

新しいコミュニケーションのやり方だなあとこちらもメッセージを返さなきゃと、ポケットのスマートフォンを取り出そうとして、少女の膝がまだ震えていることに気づいた。


【駅員に言う?】


咄嗟に反応したメッセージにしかし、少女はふるりと首を振って


【大丈夫です。心配しないでください】


でも、膝も方も細かく震えていて。どう考えても大丈夫じゃないよなあと思っていると


【家族に迎えを頼んだので、失礼します】


そうだよな、こちらは一方的に知っていたとしても少女にとっては初対面の男だもんな。ましてはあんなことがあった後に気持ち悪いよな。軽く頭を下げて少女の前を離れようとすると

ぴょこんっとスマートフォンの画面がこちらに突き出された。


【でも、また何かあったら助けてくれたら嬉しいです】

はにかんで笑って。

立ち上がった彼女はぴょこん、とおさげと一緒に頭を下げるとあっという間に電車を降りて駅の薄闇へと消えていってしまった。

今起きた出来事を斟酌して、不謹慎ながら少なくとも自分にはプラスに働いた事に気づいたのは、暫く経ってから。

今度こそ避けきれない熱に、思わず小さく拳を握ってしまったのだった。



 清々しい新緑の中、それに負けず劣らず伸びやかな、まるで新芽の様な手足をぶんと振り回して彼女が走り回っている。

バウ!バウ!とじゃれつく愛犬はもともと牧羊犬の血を引くそうで、どれだけ走っても走り足りない様子だ。

「それ、とって来い!」

彼女が放り投げたフリスビーをまたも夢中で追いかけていく。

それを何度か繰り返している内に、投げられたフリスビーがぽとんと目の前で落っこちた。

大型犬がバウバウ!と飛び込んでくる。

そのあまりの勢いに後ずさりをする。と、足を取られてひっくり返ってしまった。

鼻っ面をこちらに寄せるとマール・アイの美しい瞳がそこにあった。

飛び込んできた勢いそのままにフリスビーにかじりつく愛犬を、慌てて彼女が引き寄せる。

「ごめんなさい、大丈夫ですか?」

下唇の脇に、二つ連なる黒子も愛らしい彼女は不安そうに首を傾げてこちらを見ていた。





その日から、午後十時二十六分の私鉄の第四車両は、ささやかな逢瀬の場になった。

と言ってもこのご時世、積極的にコミュニケーションを取れるわけではなかった。

けれども、車両に乗り込んで、いつものようにドア脇の壁にもたれると、こちらも定席となったベンチシートの端に腰かける少女が小さな黙礼をしてくれる。会釈を返せば、にこぱあっと明るい笑顔が一つ。

たまに定席に座れなかった時は、こちらが乗り込むタイミングで探してくれる。

見つけると、おーい、と手を振ってくれるのが堪らなく愛らしくて、わざと別の車両から乗り込んだ事もあった。

電車が発車すると俯いていた少女が顔を上げて、きょろきょろと辺りを見渡す。まばらな乗客に目的の顔が見つからないと、不安そうにまた水平に顔を動かす。

そこへ隣の車両から現れると、ぱっと子犬みたいに一瞬だけ喜色が浮かびその後すぐにちょっと澄ました表情を浮かべる。

別に貴方なんて待っていません、知らない人です!

と言いたげなのに、肩をすくめて、ごめん、と仕草をすればそれでもほっと頬や肩が緩む。

 またある日は思わず転寝をしてしまった自分の靴を降車間際の少女がこつんと蹴ってくれた事もある。

いつも先に乗って後から降りる少女が乗り過ごしに気付いてくれたのだ。

茶色と青が混ざり合う蠱惑的な目を小悪魔的に流しつつ、ぴょいっと列車から飛び降りる。

長いおさげ髪が鳥の羽のように軽やかに舞って、見惚れている間に電車のドアは閉まってしまった。

ぷおん、と列車は急加速をして、駅の看板が後方に流れていく。図らずも知ってしまった、少女の最寄り駅。

ふとした折にその文字が目に入ると、ほんわかと心が温かくなる。

僅かな表情や仕草から少女の気持ちを読み解く事に慣れて、それは仕事でも大いに役立ったので、併せてそれも感謝したいと思うが、伝えたところでまた澄まし顔を浮かべるのは目に見えている。

少しずつ、画面越しにお話をする事にも慣れてきた。


夢を追って、短大と声優の専門学校のダブルスクールに通っていること

学費を稼ぐためにコンセプトカフェでアルバイトをしていること

猫か犬はならば犬派のこと


そんなことを教えてくれ、こちらからも


五年ぶりに地元へ帰ってきた事

仕事に失敗して帰ってきて今また目標を立てて頑張っている事

猫を飼っていたけど死なせてしまったのでそれ以降は飼えなくなってしまった事

そんな事を教え合った。


 特に夢や目標がある事は共通点で、同じだ、おなじですね、これからも頑張ろう、がんばりましょうね、と笑顔の絵文字が互いの画面に浮かび合う。

触れる事も、言葉を交わす事もできない、けれどこの時代ならではの想いの交わし方がそこにあった。

誰もが互いを殺人者かもしれない、災厄をまき散らす存在かもしれない、と牽制し合い、暗く拒絶し合う中だからこそ、かそけく繋げた縁だった。周りが白々と無関心を決め込んでいく中で互いへの関心は尽きなかった。

相変わらず何もかもうまくいかない日々の中で安らぎと甘やかな感情を与えてくれるこのひと時は何物にも代えがたい時間になっていた。



 とんっ、とんっと軽やかに弾みながら犬と女の子が坂道を駆け下りてくる。

その目的地は動物病院で、そこで散歩を折り返して自宅へと戻っていく事を知っていた。

何故なら、動物病院の中から何度かその光景を見ていたから。

当然、動物病院から子猫を家へと連れ帰る自分と、途中で出くわす事も。

ぺこん、と頭を下げて女の子とすれ違う。

けれど、犬の方はそうはいかなかったようだ。箱の中の子猫に気付いたようで、しきりと振り返ってこちらに興味を示している。

「おいで」

女の子が犬に呼び掛ける。

その声の、甘やかな事!

一撃で脳天を撃ち抜かれて、その瞬間女の子はたった一人の「彼女」になった。



 いつものように電車に乗り込むと、少女はもう定席に座っていた。

梅雨の前の空気はムシっとしていて、車内もなんだか少し暑苦しい。

いつものドア脇の壁は使用中で、気付いた少女が手招きをしてくれた。

【今日は蒸しますね】

【マスクしんどいよね】

【確かに。でもいいこともあるんですよ】

【どんな事?】

【あらがばれないことです】

【どんな?】

【秘密です】

そんなやり取りも板についてきた。

何だかいつもより、人との距離が近いな、と思ったら電車が遅れ気味だったらしい。

それも事故とかではなく、機器のトラブルのようだ。

駅で停車するたびに車内の人口密度は増えて、少女に不埒な存在が近づかないよう両足を踏ん張ってガードする。まあ、一番不埒なのは自分だろうけれど。スーツのスラックスの中で熱を放つ固い物に気付かれない事を祈る。

電車は少し進んだり、止まったり、また少し進んだりを繰り返していたが、ある地点で完全に沈黙してしまった。少々お待ちください。のアナウンスだけが、相変わらずサイケデリックな中吊り広告に当たってぴゅおうっと跳ね返される。

こんな事書いてどうするんだろう?思わずそう思ってしまうような、迷信めいた「○○撃退法!」の記事に苦笑いが漏れる。

何某か情報はないかとスマートフォンをいじってみるも、めぼしい情報は得られず。

少女もまた、俯いて祈る様にスマートフォンを握りしめている。

そう言えば、前にこのあたりの駅で家族に迎えを頼んではいなかっただろうか。

確かめようとスマートフォンをポケットから引き出したその刹那

こほこほ、と何処かで咳が聞こえた。

ただでさえ息苦しいのに、加えて乗客の空気がひりついた。

この状況で、もし誰かが罹患者であったら。

密閉空間、密集、息苦しいマスク。

嫌な想像は病気よりも先に感染していく。

降ろして、と誰かが呻いた。

降ろして、降ろして、とオウム返しの様に声は連なっていく。

すうっと、そこで少女が顔を上げた。

茶色と青の混ざる美しい色の瞳が、潤んで熱っぽく濡れている。

いつかの日の様に、口の前でスマートフォンのメッセージが―――彼女の声が示される。


【もしよかったら、一緒に降りませんか】


オレンジピンク色のマスクよりも鮮やかに、頬が染まっている。

ごとん、と思い音を立てて、その時電車が動き出した。


 細い小路を、妖精の様にふわふわと少女が歩いている。

妖精もICカードを使うんだなあ。そんなことを思わず考えてしまう。

ちろちろと不安げにこちらを振り返る様があまりに愛らしくていますぐ後ろから手を伸ばして肩を引き寄せたい衝動にかられる。ぐっとこらえて紳士然とした歩みで少女に従った。

路地を抜けた先の住居とテナントを兼ねた雑居ビルが、彼女の今の住まいらしかった。


【実は少し前に、一人暮らしを始めたんです】


耳まで真っ赤にした少女が、俯いたまま差し出したメッセージ。

え?え?とスマートフォンに触ることもできないまま思わず声が漏れてしまう―――意味が、解って言ってるの?


【待ってたんです。ずっと】


エレベーターではなく、あえて外の非常階段を使った少女が、手探りで部屋のドアを開け、玄関の照明に手を伸ばす。慣れない上に焦っているせいか、中々スイッチが入らない。やっとの事で部屋に火がともると、そのまま二人なだれ込むように部屋に入った。

後ろ手にドアを閉め、縺れるようにして靴を脱ぐ。短い廊下を渡る間さえもどかしくて、後ろから少女を抱きしめた。

くるりと体を返して口づけようと鼻と鼻を擦れさせ合う。

少女は拒まなかった。マスク越しの初めての口づけは甘い蜜の味がした。マスクを引き下ろして、もう一度顔を寄せる。

その時に、見えた。

下唇の端に並んだ双子星のような黒子!

間違いない。少女は、あの時の彼女だったのだ!

こんな夢を続けざまに見たのも、一度は破れた夢が手に入る暗示だったのだ。

喜びのあまり、ぴたりと唇を重ねる。

長く長く、殺してしまうぎりぎりまで、その唇を味わった。


「はっ、うんっ……んんっ……」


堪えながら少女が喘いで、こちらの胸を押す。

再会してから初めて聞く声が喘ぎ声と言うのは酷くインモラルで、幼げな声だけに余計にそそられる。

落ち着け、と呼吸と鼓動を宥めていると、こちらを真っすぐに見上げたまま少女は胸元のリボンに手をかけていた。

しゅるり、としとやかにしめやかに衣擦れの音。

お気に入りだろうピエロみたいなワンピースが床に落とされる。

廊下の照明の、決して強くはない光の中で浮かび上がる、ほっそりとした体。近くで見ればうぶ毛の一つ一つが泡立つように輝いていて。表側に纏ったワンピースが愛らしさを極めているのに対し、内側に纏う下着はシンプルな、黒一色のベビードール。それがかえって淫蕩で、生物と非生物のあわいにくらくらとさせられる。

少女の殻を水から大胆に脱ぎ捨てた彼女は積極的にこちらに向けても手を伸ばしてくる。ネクタイを解くのに少し難儀してペイっと無理やり引き剥がすと、ちまちまと小さなワイシャツのボタンを外しにかかる。

小さな指先が膚にかかる度にこそばゆくも心地よくもあり、好き勝手させていたが、さすがにスラックスのベルトに手を掛けた辺りで手を引きはがす。

上手くベルトを外せずに襯衣の裾を引っ張ったりポケットのあたりをさまよっていた両手を掴んでひとところにまとめ上げる。

お預けを喰らったように不満げに唇を突き出した表情に、堪らずむしゃぶりついた。

美しい色の瞳を隠す瞼に、唇に、膚に、双子星の黒子に、ところかまわず口付けを落とす。

まだまだ、本番はこれからだ。

手練手管を用いて

甘く飴玉のように蕩けさせて

内と外から同時に貫いて

長いおさげ髪を優しく撫でながら

どんな風に教えてやろう

あの日、君の愛犬を殺したのは僕だと


中づり広告をサイケデリックに賑わす流言飛語

数多の専門家の放言を許す存在

隣に座る誰かが殺人犯なのではと駆られる疑心

迷信の様な、連続殺人鬼撃退法


ケチな失敗で連続殺人が発覚してしまいほうほうの体で故郷へ逃げかえってきた僕だったが、むしろ幸運だったと言ってもいいだろう。

五年前に、この街を離れる前に唯一愛(ころ)しそびれた彼女に再会できたのだから。

練習のつもりだった小動物殺しにすっかり飽いて次の標的を探していた自分を

過激な程に警戒した賢い愛犬

僕の正体に肉薄し、そして最後まで追い詰めきれなかった

純粋で清らかで甘っちょろいおさげ頭の少女

瞋恚の焔が燃える眼差しで見つめられたあの瞬間は、僕の生涯の中でも忘れえぬ至高のひと時だった


正体を知ったら、どんな反応をしてくれるだろう。

全身で拒絶して、痴態を演じてくれるだろうか。

深い絶望に美しい色の瞳を凍り付かせるだろうか

痛みと深紅の血潮と共に僕を受け入れてくれるだろうか。

出来るなら、あの瞳でもう一度僕を見つめて欲しい。

どちらにせよ、犬が待っ


――――まっ?


 唇を合わせていた少女がくすぐったげに顔を離し、ぺろりと舌を出した。

ころり、と舌の上で球が滑る。

再会したあの日の様に、飴玉を舐めていたのだろう。

口腔内に僅かに残る蜜の味を確かめていると


舌の上の眼球と、目が合った。


質量七、二グラム、飴玉一つとちょうど同じくらいの大きさの

青と茶色が不思議に混色するマール・アイ。

殺し損ねた彼女の代わりに抉った愛犬の眼と同じ色。

てん、てん、と唾液にまみれた眼球が床を転がり、ぴたりとこちらを向いて静止する。

そして、三度マール・アイと目が合った。

つまりは、彼女と。

そうだよな、お気に入りのワンピースは汚したくないだろう。

返り血を浴びるなら、黒いベビードールの方が目立ちにくいだろう。

スラックスのポケットから重量のあるサバイバルナイフの存在が消えている。

肉厚の刃がこちらへ向かってくる。


―――夢を見ていたのは、一体どちらだったのでしょう。





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